思弁的な科学探究の趨り

導入: 思弁による科学探究について
 古代ギリシアから現在に至ってなお聯綿と命脈を保つ哲学――旧来の未分化なフィロソフィアを、現代では学問の一科目と捉えられるそれと区別して「思弁哲学」と呼ぶならば、これは真理への到達をもくろむ学問に他ならず、その恃みとして思弁哲学者は思弁を繰る。思弁とは、我々が真理を志向するにあたって一切の営為であり、これは現在、真理へ到達するにもっとも有用であると考えられている、論理学/数学/物理学(*1)の3つの道具を用い、ときにそれぞれの理論の統合をおこない、ときにメタレベルからこれらの有用性や妥当性を問う。本来的に、これらの道具は分解が利かず、それぞれ他の二者に少なからず依存する。物理学に関して言えば、これはもっぱら経験から成り立つものであるが、その定式化には二者の方式を適用する。同様に論理学も数学も日常の経験や観察に依拠し、因果論や同一性など、その自己内部では決定不能な前提を必要とするが、これは物理学の扱う領域に属する。穿って言えば、この三者はそもそも分離不可能であり、議論の便宜上分別して扱うことにする、という註釈のもと名辞を許される。
 さて、人類が現在保有するなかでもっとも真理に近いらしいと認められるのは理学――一般に科学/サイエンスと呼ばれる理論であることは支持者の多寡からして他の、たとえば独我論なんかよりは正当らしい。しかしこの科学理論を普遍のものとして扱おうとすると論理的に自己矛盾を含むため、これまでの議論においては、主としてプラグマティストが、斉一性原理の無条件の肯定や、センスデータについて心理学的な問題をじゅうぶん加味したうえで、「最も良くテストされた理論を優先的に選択すべき(*2)」また「我々の信頼を獲得する」ことから理論公式化を認める(*3)ような、論理学的妥当性についてはひとまず留保した、科学理論の妥当性については暫定的な合意に留まっている。本論文はこれに結着を与えるとともに、思弁によって科学理論を扱うことで学問上の発達を導くことができるのだという実践をおこなう。
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*1)科学理論の一切を理想的に物理学へ還元できるとして
*2)カール・ポパー 客観的知識[1.9](1974 木鐸社 森博訳)
*3)W・V・O・クワイン 経験的内容(1988 現代思想 森田茂行訳)


1章: 思弁の地平
1.0: 経験主義と実用主義
 近代以降、科学理論が地球/宇宙開拓に大いに役に立つことが周知されるにつれ、言い換えれば、科学者/工学者が科学理論をもとに成功を収めるようになり、この事実と自らの思弁とをどう折り合いをつけるのかについて執着した哲学者はそれなりにあった。彼らが取りうる方策は大きく2つあり、どちらも知的掘鑿が進められた。
 1つは、経験主義から出発し、観察が理論に一致するのを確かめることであり、これはヒュームの功績(*4)が大部分を占める。我々が日常に生活するうえで遭遇するあらゆる現象には、ある対象にきまって附随する対象、またある対象の顕出の後にきまって追随する対象、など隣接や継起といった恒常的随伴によって規則性を見出せる。そしてこの観察を進めてゆくと、条件さえ整えてやれば、時空間に非依存でこれらの現象が観察でき、それにより数式への抽象化をおこなえる。これによって見出されたものこそが科学理論であり、これは斉一性原理が成立するかぎり普遍的に適用できる。このとき規則性とは、しばしば現れる、対象の間の1つの類似性を見出すと、如何に量や性質の度合いに差異があろうとも対象のすべてに同一の名称を適用する、という我々の習慣customに依拠する。習慣はまた、過去における現象の反復により何の新たな推論もなしに生じるすべてのものであり、ここで現象は自らの外部にあろうそのものとは区別され、感覚器官から電気信号として取りだされるセンスデータを脳内で再構築した表象と見做されるが、経験主義者はこの現象と表象とを本質的に同一のものとする。
 もう1つは、科学理論について論理学的な難癖をつけることはせず、これが信頼に足ると認められる根拠を列挙してゆくことで妥当性を担保しようとすることである。これもまたヒュームの功績のうちの、我々の精神的作用の究極原因を解明することは不可能であるから、経験と類似性に基づいて納得のゆく説明をできれば良い、という考えを支持するものである。ポパーはこれに基づいて、また「信念」を「言明」へ言い換えるなど、主観的/心理学的な用語を客観的な用語に翻訳することをもって、帰納の問題を解決した(*2 1章)。帰納の問題とは、あるとき観察された現象、それに関する単称命題から、如何にして普遍法則を導くのかという、科学理論を普遍の規則と見做すさいに生じる問題である。これは前項においても最終的に提出されるべきものであるが、いかなる知識理論も真偽を確かめることはかなわず、そのため我々はこれの正当性/妥当性を験証することにのみ終始すればよい、としたポパーは、帰納の原理を「もしそれが真であるとすれば規則性へのわれわれの信頼にもっともな理由を与えるであろうような言明」と定めることであらゆる論理的反駁を退け、これによって帰納の問題を解決したと述べた。
 こうしたヒューム爾来の経験主義や実用主義の変遷を経て、科学理論へ向けられるべき批判の実態はじゅうぶん浮き彫りになったものと考えられる。科学者/工学者は普遍法則を引用することで、新たな自然法則を発見したり、役に立つ道具を生産したりするが、これが何故そうしうるのか説明しようと企てるべきではない。それは認識主体としての我々の精神的作用を解明することは不可能だというのもそうだし、帰納法/背理法によって導出される、科学理論を普遍化する原理、すなわち、過去に見られた現象は未来にも見られるだろうという自然の斉一性を担保する斉一性原理については、これが機能している間はそうである、としか言及できないため、というのもそうだ。
 しかしながら私の見立てでは、科学理論の妥当性についての知的掘鑿はもう幾許か深められる。これについて、以降の節に展開しようと思う。

1.1 適用妥当性
 さしあたり私が槍玉に挙げるのは論理学である。これの原始的な形態、古来より論理学の初学者が真っ先に扱ってきたであろう有名なものに三段論法がある。これは要素として三つの命題をもち、それぞれに大前提/小前提/結論という役割があてられ、小概念と大概念とを媒概念で結びつける。これまた有名な具体例に、ソクラテスは人間であり、すべての人間は死すべき運命にあるのだから、ソクラテスもまた死すべき運命にあるのだ、という洞察を導くものがある。この原始的な論法はしかし、論理学自身だけで真にするのではない。というのは、結論が真であるためには大前提および小前提が真であることが要求されるが、この二つが真であることを決定するのは、明らかに経験によるからである。つまり、ソクラテスが人間であるかどうか、すなわち「人間」という概念にソクラテスは内包されるのか、という問題は歴史的な検証や、扱う者の共通了解に依存するのである。
 とはいえ通常、論理学はpやqといった記号を、真偽の確認作業をおこなうことなくそれを扱う者が適宜に決定できる概念として用いることで型式処理を可能にし、この抽象化によって論理学はそれ自身で完結する。すなわち、扱う者の主観によらず、規則が壊れる心配もなく、普遍性を発揮することが担保されるのである。
 この抽象化に類似したものを物理学にも見ることができる。自然界において発見された諸現象は科学者によって単称命題として扱われるが、このとき現象は抽象化されている。というのは、科学者がよく決まり文句に使う「理想的に」という明示によって想定される、科学法則が普遍的に適用されるものと前提される現実と――すなわち、経験と地続きにある外界から完全に独立して保持される物理系/物理空間において、その特殊現象を単称命題として扱うことが了解されるのである。こうして現実と切り離されたところに対象を置いて議論を始めるため、科学者らは論理的矛盾を、すなわち検証不可能である普遍性についてのいっさいの言及を退ける。この作業は、論理学者が概念を記号化することにまったく等しい。
 このようにして論理学者や科学者が自らに都合よく定義する空間/系を、ここで「閉鎖系」と呼ぶことにする。閉鎖系において、これを扱う者は系を支配する規則を自由に決定することができるが、それというのは現実との整合性を完全に度外視しているためである。この決定に関する自由度は、放っておけば扱う個々人が完全に裁量をもつことができるが、学問として体系化されている議論上においては共通了解が設けられている。これの改定は稀であり、そのために体系が現在も一体でありつづけていると言える。
 嘆かわしい事実に、哲学はこの抽象化された系と現実とを長らく混同してきた、という歴史がある。閉鎖系を措定してまた明らかなことに、扱う者は系の外側にある。この者がある系を「開放系」と呼ぶことにするが、閉鎖系を扱う者は、すなわちこの開放系の一存在者はこの系の規則を改定する権限をもたない、というのは明らかである。何が閉鎖系また開放系と定められるかは存在者の相対位置によるが、開放系を支配する規則の改定権限を有しているのは、我々が伝統的に想像する「神」に他ならない。
 こうした整理を踏まえれば、近代以来の科学理論をめぐる紛糾のいっさいが如何に稚拙であったかを理解するのは難しくないだろう。科学者は理想化した閉鎖系において普遍法則を適用し、その閉鎖系においてのみ科学決定論は機能しており、またそれをもとにした成果物が偶然にも世の中で機能していたというだけであり、それは論理学者が世の中についていくつか言及して、その妥当性が世人に認められていた、という偶然を棚に上げて、科学理論のみを一方的に不当であるように批判していたからである。
 ここで「偶然」とは、ヒュームに見出されたとおりの、すなわち因果性を否認したうえで対象について言及するときの語用にしたがっているが、これもまた混同の一例である。科学は、あるいは具象的な論理学はときおり因果性の適用を現実へ要求するが、閉鎖系ならまだしも、開放系においてこの要求を通そうとすれば当然に自己矛盾を孕む。論理学に教えられたとおり、真となりえないものを信じるべきでないとすれば、我々の棲まう現実が科学理論の近似に沿って構成されていると見えるのは、それは因果と対置される偶然によると信じるのが妥当である。その他にも、同一律や無矛盾律など、論理学や科学が自己のもつ閉鎖系において要求するあらゆる規則について、それをそのまま現実に適用できると信じ込むことは、それが開放系に引き出されているために、もはや我々自身が系の扱い者になりえないために、論理的にも科学的にも妥当ではない、ということを弁えてしかるべきである。
 しかし、我々はもはや、何が妥当であって何が妥当ではないか、という議論を仮におこなったとしても、これにより論を結ぶのは悪癖であると考えるほうが生産性に優ることを知らなくてはならない。科学理論について、それが妥当であることを示すのは哲学の役目ではなく、それは科学者/工学者また成果物の受益者としての市民自身が負うことである。そうでなく、もし科学理論が、我々の志向するところの真理に漸近するものだと主張したいのだとしても、それは科学者自身がすでに企図しているために重複し、ただの荷厄介になるだけである。

1.2 論理への懐疑
 前節において我々は、論理学と科学の両者は自己自身が定義した閉鎖系においてのみ固有の規則を内部矛盾なしに適用することができ、経験と地続きにある現実へこれを適用しようとすればたちまち絶対性としての論理性を喪い、ただ妥当性について議論するのみである、ということを確認した。このとき我々が、観察される現象のすべてをコイントスと何ら同等な偶然性へ帰すようなヒューム的懐疑論の視座に立つならば、その矛先は科学理論のみならず論理学そのものにも向けられることを自覚すべきである。
 論理学はいくつかの支柱にささえられている。同一律や矛盾律といったものがそれに当たり、これは明らかに習慣や経験の抽象である。たとえば現実において散見される、現在のソクラテスと20歳ばかり年老いた彼、現在グラスに注がれたワインと1時間後のそれ、に関して、同一性について部分的に同意し、また不同意となるような雑然さは、論理学の定義する閉鎖系においては同一律により、みじんの不和もなく合意形成がおこなわれるが、この形式が、開放系にある我々のセンスデータやコモンセンスにまったく独立に形成されているものとは思われない。閉鎖系の内部における一切の裁量を我々は有しているのであるから、古来より大した改定もなく保持されている現在の論理学は、現様とは異なってあっても何らおかしくはない。それは例えば、すべての命題は必ず偶然に真偽を決定されるという偶然律とか、そもそも規律をいっさい立てられないとする無規律とかだったりする。これに対して「それは論理的ではない」と罵るのはまったく感情や情熱ゆらいのことであり、それというのは「何が論理的であるのか」を決定するのが論理学だからである。そしてまた「論理的であるもの」のいっさいは、我々がふだん自然を観察するときに認められるものと外延を等しくするであろうことを付言しておく。
 このように論理学そのものが経験に依拠すると仮定すれば、斉一性原理の議論のさいに提出された改定が、科学のみならず論理学にも適用されることを我々は押さえておくべきである。それは斉一性原理の破れ、部分的には因果性の破れとも言えるような事態の観測である。科学者は自己の定義する閉鎖系、その物理空間内部においてのみ、科学的決定論が機能することを認める。科学的決定論とは、その系を支配する規則、つまり自然法則のすべてが既知であり、かつその系の初期状態を完全に把握できるならば、その系の時空間挙動は科学者に完全に予知できるだろう、というものであり、コンピュータシミュレーションによってほぼ具現化しているように、これは有効に機能する。ここで斉一性原理の破れとは、自然法則が時間変化を起こしたり、位置依存で作用する自然法則が選択されるような、そうした事態への遭遇である。これがもし現実に起こった場合、科学者は自ら保有する自然法則について変更をおこなわなければならない。というのは、科学理論は現実の物理現象について近似を与えるものであるべきであり、いくらシミュレーションなどの閉鎖系においてそれが機能していようと意味がないためである。しかし、ここで科学者が科学理論の改定をおこなうと、驚くべきことにか、斉一性原理の破れは修復され、修復されたものが新たに斉一性原理として更新される。これはどういうことかといえば、観察される現象は必ず類似する、というのが斉一性原理の本質であるため、一度そうした、過去の科学者には不可解に思われるような事態に遭遇しても、科学者は現実のありようを第一に取るため、従順に理論の整合性を保つように動くからである。しかし、自然法則に時間変化項/位置依存項を導入してもなお、もはや理論が現実の近似をしていると認められることが不可能になるほど一貫性や因果性を喪ってしまったそのときには科学はここに断念せざるをえないだろう。
 科学法則がもはや無用になることを懐疑論者は夢想するが、彼らは論理学についてもそうするに違いない。論理学で認められる公理規則と、現実の諸対象の関連とが、繕いえない齟齬をきたし、埋めようのない溝に断裂してしまったとき、それでも論理学者は旧来の論理に頼って言明の構築をおこなうのだろうか、と。
 開放系の支配権限を我々は所有しえないため、前節のような懐疑を拭い去ることはできず、まして真理を訴求するさいにこれを無視することは許されない。より密に、真理について検討をおこなうとき、いまや哲学者は現様の論理を、場合によっては否定して、理論の構築をおこなうことが求められる。しかし、論理を棄てていったい哲学者は何を規範にとるのか、あるいは、論理によらない哲学行為は果たして有意味なのか、という疑問は当然生じることだろう。科学者は斉一性原理が縁の下に機能していることなど歯牙にもかけないが、それというのは妥当性/有用性に欠くためである。哲学者や論理学者もまたそれに甘んじるべきなのかもしれない。しかし繰り返して言えば、もはや妥当性の如何によって議論を締めくくることは生産性に乏しいのである。

1.3 認識論
 これまでの論証において私は、科学理論が近似をおこなう対象について特に措定を設けなかったが、というのはこれが科学者の感覚に最も近いと考えるためである。まず自己という認識主体を自覚し、そして対象を見て、この両者間の関係について腑分けするのが認識論的な言明であると私は信じるが、科学者は往々にしてこの過程を省く。もちろん、実験者が用いる測定器が実験系(*5)についてどれだけ影響を与えるか、といった診断は客観性のために綿密におこなうものの、この客観性については議論を省くのである。
 認識論とは、主観と客観の境界条件を定義するものである、と換言すれば、科学者は明らかに、理想化した客観に身を置く。それは実験者として実験系を観察するさいに、開放系の外に出ていると仮定することに他ならない。その実験系を支配する規則のすべてが既知であるものと仮定して、事前の予測値と実験値にズレが生じていれば、それは規則のすべてが既知であることの反証になりうるものと見て新たな規則――自然法則を導出し、また工学者が、設計した寸法通りに製品を組み立てられない場合は、予期した初期条件に不備があったか、あるいは前項と同じく未知の規則の顕出を感知する。理想化した客観とは、このように、認識主体自らの内部で起こる生理学的/心理学的なノイズから完全に遮断されたセンスデータが、扱う系を完全に復元できるものとして、身分を客体へ引き上げられた主体のことを指す。一面からしてこれは論理的な自己矛盾を孕むが、他面からすれば、この一連の操作は自らの閉鎖系でおこなっているため、まったく矛盾は生じない。注意して言えば、この閉鎖系は科学者個人が独自に所有するのでなく、科学大系全体がこれを所有する。
 上の観点から、科学者は認識論による地歩固めを必要としない。彼らは宇宙という外界を想定してそのなかに自己を置くが、観察には自己を必要とせず、したがって彼らは認識主体なき外界を観察していると、閉鎖系において規定する。よって、日常から我々が得るセンスデータの堆積としての経験から科学理論が演繹されるようなことはなく、この両者が一致して見えるのは錯覚に他ならない。
 そうであるからには、ジェイムズが見出した「純粋経験」のようなものはただ経験論の――ジェイムズに言わせればラディカルな経験論の――中でのみ扱われるべきである。ヒューム型の経験論とは異なると彼が自著で言うところには、人為的な修正を必要としなくなるという点でラディカルな経験論は「直接的に経験されないいかなる要素をも、おのれの構造内に入れてはならないし、また、直接的に経験されるいかなる要素をも排除してはならない(*6 p.46)」とされる。経験論ならともかく、科学理論においてはこのような体系を抽象化する楔をいちいち打ち込む必要はない。それというのは、センスデータや経験から科学理論を演繹しようという動機を科学者がもたないためである。実験系で得られた測定データは科学大系上の閉鎖系に持ち込まれ、この閉鎖系において――あるいはこの閉鎖系において仮定される開放系において、普遍的な現象を完全に復元し、理論式として抽象化される。この閉鎖系での近似と現実の現象とが類似しているように我々に素朴に思われるのは、論理的には何の確証もない錯覚であり、ヒュームに言わせれば偶然の一致である。とはいえ論理的な担保は必要なく、それが有用であれば使役者が現れるのである。科学者は認識論の類いの理論補強を必要としないが、それはそもそも認識主体が排除されたものと想定するためであり、この排除は閉鎖系でおこなうために自己矛盾は起こらない。

1.4 論理学/数学/物理学を統合して使役する思弁
 ここまで私が徹底しておこなってきたのは、論理学が科学理論に対して何らの優位性をもたないということの論証である。経験と地続きにある現実を抽象化しようという似た志向性をもつために、科学理論は発生当時こそ先行する論理学の規則を科学理論上に混用したり、数式の妥当性を論理学的に援用したかもしれないが、いまや、科学理論は論理学を基礎に据えて構築されるものではまったくない。科学理論が保有する数学規則はそれ自身内部にて自己定義されたものと見做すべきであり、また、科学理論の内容が論理的であるように見えたとして、それは現実の抽象化によって科学理論が展開されるからであり、これを論理学的な規則にしたがった演繹であると見做すのは誤りである。
 この点からして、我々がもつ道具を論理学/数学/物理学の3つに分離することは妥当である。これらは、歴史的に見ればこそ、先行する体系を模倣して順繰りに発生したものとなるかもしれないが、それぞれが成熟した現在において、これらはそれぞれの自己系においてまったく独自に、規則づけから体系化をおこなえるために、つまり何物の援けもなく自己発生できるために、独立している。三者は三様に、それぞれの学問体系上において、それぞれ固有の閉鎖系をもち、名目上同一な規則があるかもしれないが、依存関係なく自由に定義可能である。これは、例えば数学大系上に新たに偉大な発見があったとき、物理学はこれを輸入するかもしれないが、それは数学の形態が変容したためではなく、物理学自身が新たに規則を自己定義したものと見做すということに他ならない。
 論理学/数学/物理学は、それぞれ互いに干渉を及ぼさないことから、いまやまったく対等である。例えば物理学上の、外部の者からしてみれば飛躍と錯覚されるような、斉一性原理の無条件肯定は、開放系と閉鎖系を混同する者からして自己矛盾を孕むように思われるが、これは物理学者に措定される閉鎖系内部のやりとりであるために、物理学の規則上まったく妥当であり、顧みれば、この判断者は論理学者でも物理学者でもなく、それは論理学/物理学双方の内部でおこなわれる規定について知らずに物を言うためにそうなのである。そしてここで語弊を解消するために言えば、物理学者が物理学的規則にのっとった物言いをするとき、これは「論理的」であると見做されるが、これは論理学の規則にのっとっているためにそう言われるのでなく、まぎれもなく物理学の規則にのっとってそう言われるのである。論理学/数学/物理学はそれぞれ自己に固有の論理規則をもち、その論理規則が妥当に運用されるためにもっともらしいとされる。この論理規則は、どれをとっても差異はほとんど見られないだろうが、それは単に現実を抽象するさいにそれが有効であったということであり、論理学の権勢がここに認められるべきではない。
 私がここまで、これら3つの道具を、それぞれに固有な論理規則を踏まえつつ扱って論証を進めてきたが、この様式について、3つの道具の属する階層の上から使役する統合者としての性質を賦与して「思弁」と、あるいは「思弁哲学」と呼ぶことにする。これは哲学者からしてみれば単に「哲学」と呼称すべきもののように思われるかもしれないが、三者それぞれの論理様式を尊重しない独断さを散見するに、それは論理学/数学/物理学が属する階層と同じ階層に、現在学問の一科目と扱われている、ひどい文脈主義のために孤立している、「哲学」は処遇するべきであると私は考えるのである。
 思弁あるいは思弁哲学は、哲学という一科目の大系からなにがしか固有名詞を引用することはあっても、逐一我々の3つの論理様式に落とし込んで議論をおこなう。これは過去の哲学者の功績の参照またその読解を重要視する哲学者からして、守破離の観点から「型なし」とされる危険性は承知の上である。我々は思弁による真理探究をもくろむが、これは逐次設定する目的に対し最も簡明かつ多元的な手段を用い、哲学者にとって「飛躍」と受け取られるような操作もいとわないのである。そしてまた、現在アカデミーにおいて取り扱われている学問科目の一つ上の階層に属することを志向するために、論理学/数学/物理学また文脈主義の哲学によるあらゆる規定を認めるものの、思弁自身の改定をそれらの干渉によっておこなうことはできない。

1.5 ネガティヴィズム
 学問科目より1つ上の階層に属することでしか可能ではない作業を、思弁はおこなうことができる。その1つにトップダウン的な真理探究がある。本節でこの章を閉じて次章の実践に移るため、繫ぎとして抽象的な概念を措定するに留まる。
 学問は本来、ある自明な基礎付けをまずおこない、それに基づいて次なる自明の言明を導くことをえんえんと継続することで発達する。これによれば、著しく経験と乖離するものはおよそ学問的ではない。学問は飛躍を避けるのである。
 学問はボトムアップの方法論を好み、さらに語弊を恐れずに言えば、学問は広義に実証主義的/ポジティヴである。これの教えるところは、つまり真理とは学問には到達不可能な、単なる志向的な概念にすぎない、ということである。もちろん、「真理」とはただの語であり、それを支配する文法規則にのっとって意味づけをおこなうことで、これに到達可能であると言うことはできるし、そもそも論理学の土俵においてそう言うことが真か偽かという議論は不毛である。しかしながら、一般に「真理」と呼称されようもの、認識主体があり、これのおかれている拡がり――開放系全体を支配する規則について少しでも多く知識を得たいと我々が願うとき、アクセスの仕方は多ければ多いほど好ましいと私は考えるのである。というのはポジティヴィズムの真理への到達不可能性が確証されている時点で、もはやあらゆる言明は、それが論理学的に真であるか偽であるかによらず、対等だからである。我々は修辞学を駆使して、「それは論理学的に正しくない」「理学的に妥当ではない」と言表するが、しかしこれが正当/妥当であるのは、それの有用性のために他ならない。論理学者/科学者がそれを有用に用いられるためにそれは正当なのであり、その閉鎖系の外に、つまり学問体系や個々人の脳内を出るなり、他のあらゆる不毛な与太話と対等になる。この、言明たちの置かれたアナーキーにおいて、我々は真理探究を進めなければならないと私は信じ、思弁哲学はそれを担うだけの能力を具えているものと思う。
 学問が実証的/ポジティヴの道具しか我々に与えないのに対して、思弁はそれに加えてネガティヴの道具を授ける。自明な言明を積み上げてゆく学問に対し、思弁は同様の手段をとることもできるし、またその逆の手段をとることもできる。というのは思弁が背理を許容するからであり、それはつまり「XはYでない」という否定の言明を堆積することが可能であるということである。この言明は、経験と地続きの現実を抽象することを本義とする実証主義/ポジティヴィズムにとって何ら意味をもたない。「リンゴに重力がかかる」と言うのと、「リンゴに上方向の力がかからない」「リンゴに上方0.1゚角の力がかからない」「リンゴに上方0.2゚角の力がかからない」……と言うのとを較べれば瞭然である。したがって我々は、日常のことについては今までどおり論理学的な、物理学的な言明を続けるだろうが、しかし思弁が真価を発揮するのは、非経験的な領域である。
 とはいえ、私は何も荒唐無稽なモデルを提示して、それが我々の論理学的に導き出される真理らしさと何ら同等である、などといった主張を通すために論証を進めているのではない。真理探究の形式のうち、ボトムアップ型のポジティヴィズムに対置される、トップダウン型のネガティヴィズムとは、肯定言明と否定言明とが同等の有用性をもつような領域において理論展開するさいに適用される、一連の思弁活動を生産するのである。ある面では、これは古代の未分化な哲学――論理学/数学/物理学などといった分化が起こる前の純粋な形式へ哲学を還元する行為に他ならず、そうならば、扱う対象領域の傾向からして「思弁論理学」「思弁数学」「思弁物理学」などに分類可能なものと考えられる。次章の実践ではこのうち、思弁物理学じみたものを取りあげる。


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*4)デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 知性について(2011 法政大学出版局 木曾良能訳)
*5)実験系は開放系の部分である(と見做される)が、実験者にとっては閉鎖系として扱われる。対象が宇宙空間上にあって天体望遠鏡で受動的に観測をおこなうような場合でも、その対象を支配する規則のすべては実験者側に既知であることが前提される。
*6)ウィリアム・ジェイムズ 根本的経験論(1978 白水叢書 枡田啓三郎/加藤茂訳)



2章: 思弁物理学の実践
2.0 思弁物理学の措定
 思弁物理学Speculative Physicsとは、基礎的な物理理論から出発しつつも純粋に思弁のみによって確証される物理理論、これを確証する論理様式、またはその産生物一群を指す。通来の物理学は理論と検証により確証されるが、これと決定的に異なるものの、なおも「物理学」と呼称するのは、論理様式からして整合性をもつために思弁物理学は通常の物理学と同在可能だからである。
 思弁物理学の取り扱う対象は物理学からして検証不可能であり、そのために特別にこう銘打って扱うことになるわけだが、これは通常の物理学史上検証不可能な対象とは質的に異なる。後者は、先行して構想された理論を完成させるピースを待望するが、この先行性は工学技術的な限界によるものと考えられる。対して思弁物理学の諸対象が検証不可能であるのは、認識論的な限界による。それぞれについて例を挙げ、比較を試みよう。
 局所的ゲージ変換に対する不変性の要求から、スピン1で質量0の素粒子――光子、W±/Z0粒子の存在が求められるが、スピン1で質量0の素粒子は光子以外には見つかっていないため、後二者のゲージ粒子は何らかの作用により質量をもたなければならない。この条件を整合し、素粒子の標準模型に組み込まれている素粒子がヒッグス粒子である。
 通来の物理学は、まず実相や現象が先にあって、これを近似するに適した理論を発見する学問であり、素粒子理論はこれについて最も深くまで下方解体undermineしたものである。こうした一切の物理理論の一つ大きな特徴は、観測データがすべてを覆す権限をもっているということである。標準模型Standard Modelはまさにこのヒッグス粒子の発見をもって確証される理論だが、しかし期待していたものとは異なったピースがここに嵌まる事態を想定することは容易である。スピン1で質量0の素粒子が発見される、というのが最もわかりやすいだろう。ヒッグス粒子を持ち出さなくとも近似が補完されるとわかれば、物理学者は当然そうする。ヒッグス粒子も後者の素粒子も発見に至っていないために、こうした一連の検証作業を夢想するよりない西暦2018年現在だが、我々は磊落と研究動向を見守ることができている。それは、近代ニュートンから前世紀アインシュタインから聯綿と存続する物理理論の基礎が揺るぎないことを知っており、且つ素粒子理論がその基礎から成っていることをも知っているからである。こうした物理学のポジティヴ性/実証性のために、仮にヒッグス粒子を永遠に発見できなくとも、我々は素粒子論的なミクロ構造が成立していることを信じるだろう。LHCの衝突実験でおよそ10兆回に一度しか生成されないとされる現在の説が正しく、ためにヒッグス粒子の存在が工学技術的に検証不可能だったとしても、きっと諦めはつくだろうし、素粒子論を覆す理論が検証されるまで、現状の地位が崩れることはないだろう。
 対して、思弁物理学理論の一例を挙げよう。結論から言えばこれは初めから検証不可能と知りつつ理論を提唱し、反駁不可能性を盾に展開する点で、実証主義に対してネガティヴな理論である。「思弁物理学」を自称している理論はまだないだろうが、古代ギリシアでなく現代において既にこれは実践されている。
 我々の棲まう宇宙(ユニバース)は、生命が発生するのに実に適している。プランク定数や光速度といった、幾十もの物理定数値が10のマイナス何十乗という単位で微調整fine-tuningされているおかげで、空間は現様に保持され、次の瞬間に肉体が分裂したりどろどろに爛れたりすることを我々は危惧しない。この、宇宙があまりにも出来過ぎているのは何故か、という疑問に対する一つの仮説がマルチバース理論である。単一(ユニ)宇宙に対しての多(マルチ)宇宙は、つまり、おそらくビッグバン由来のインフレーションにより誕生した我々のユニバースと同じような時空間が、バブル状に無数に誕生し形成されていると、この理論は構想する。インフレーションの進行に伴って現様のユニバースの科学法則/定数は決定された(*7要出典)ため、我々のユニバースとは性質の異なるユニバースが生成されても何ら不思議なことはない、というネガティヴな根拠の下に成立するのである。シミュレーションによれば、真空エネルギー値を多少変化させても空間が保たれることは確かめられており(*8要出典)、重力による引き合いや衝突によりガスから天体が形成される降着accretion現象も確認されている(*9)。
 このマルチバース理論を安易に物理理論と呼びがたい要因は、これの反証不可能性unfalsifiabilityである(*10)。マルチバースは――他のユニバースは、我々からして観測不可能である。それは、他宇宙は粒子の地平particle horizon事象の地平event horizonよりも遠いだろうという距離的な要因――工学技術的要因もそうだが、どういった物理構造によりこの二者が交錯しうるのか、ということに関してまるで手がかりが無い、というのが大きい。ブラックホールの中にも突入できない我々/測定機器が、当該ユニバースと全く異なった時空間をもつ他ユニバース上で観測をおこなうことはまさかできないだろう、という見立てである。
 マルチバース理論のような思弁的物理学理論は、従来の物理学からして異端的である。他の一切の(未)検証理論が「反証が出ていない」ために正当性を獲得できるのに対し、この思弁的な理論は「反証を提出することができない」。ために、我々が正当性を賦与しうるのか否かについて基準を設けることが叶わない。このようなものを物理理論と見做すべきなのだろうか、との疑問視があるわけである。反証不可能な理論とは独断論に他ならないが、しかし、例えば哲学史を顧みて、ヒューム由来の懐疑論は思考様式を豊かにしただろうし、同時代の論理様式にそぐわないからといって切り捨てなければならないこともない。
 私はこのような論理様式を、我々学問者の思考を多角的に拡張するものとして重要視する。それと言うのは、物理学がセントラルドグマとして奉ずるものに客観主義があるためである。物理学者がその論理様式の中で扱う閉鎖系は、理想的に観察主体が排除されている。認識主体なき主観に立つことが物理学者には要請されるのであり、もしこれを堅持すればマルチバース論には必然に辿りつくものと考えられる。諸物理定数が人間の発生/生存に都合良く組まれているのは、そもそもそうした時空間しか我々には観測できないからである、という科学態勢の主観性が人間原理Anthropic principleとして今日には見出されている。理想的にこれを取り払った世界の実像を科学的に考察してみれば、我々に観測不可能な領域に、我々に観測不可能な(こう呼称して差し支えなければ)時空間があることが想定され、そのほうが自然らしいと考えるものである。このうち真空エネルギーΛ値を可変にして生成されるユニバース群を想定したものがマルチバース理論であり、これは認識主体なき主観を志向する客観主義下に構想される理論のうちの一つに該当すると言えよう。
 人間に観測可能であるものを物理学的対象とするのか、それともより外部を志向するかの境界決定は、物理学において重大な問題であろう。この主観性の問題を提出するマルチバース理論は、思弁物理学のうちのほんの一例に過ぎず、またそれは「何を物理学の研究対象とするのか」というメタ問題についてもそうである。
 思弁的な物理理論もまた、他ならず物理学の論理様式に則ったものであり、物理学者自身の手で論理整合を図ってゆくべきである。したがって、思弁物理学が物理学よりここに派生するわけである。思弁物理学者は、物理学の論理様式からして反駁不可能な対象を扱い、測定機器を用いた実際的な検証をではない手段を、すなわち思弁を用いて論証に当たることになる。

2.1 工学技術と物理学
 実証的/ポジティヴな自然科学探究はすべて工学技術に依存している。我々の棲まう環境を解剖する理学は一般に、理論の構築と実験による検証という大きく二段の過程を経て、時空間によらないことから普遍である科学法則の吟味をおこなう。このとき実験には、実験系の保持および隔離を担う器具のほか、必須のものにセンサがある。センサとは任意の物理系について諸物理量を数値として取りだす装置であり、そのほぼすべてが当該物理量をいったん電流に変換し、それを数値として読みだす。実証にあてられる理学理論は数学的に記述され、実験により算出される数値が代入されることで理論の検証がおこなわれる。探究にあたり、道具を扱うのが人間であれば、造るのもまた人間である。必然に測定可能な範囲には限界があるものと想定され、げんに量子論系や相対論系においてその片鱗がうかがえる。
 探究がじゅうぶん進んでいる現代では、一般に理論が実験/検証に先行するが、これも技術的牆壁の証左である。例を挙げれば、中間子は湯川秀樹の予言から15年(1935-1950)、重力波はアインシュタインの予言から100年(1916-2016)経って検出されたが、理論の提出とその検証との乖離が見てとれる。計算機の進歩から、今21世紀についてこの乖離を直截に適用できるかは別としても、余剰次元やマルチバースといった高度数学の産物がこれより10年20年のうちに検証されるとは考えにくい。特に、我々の棲まう宇宙とは科学定数の異なるマルチバースの痕跡を仮に捉えられたとしても、当該宇宙空間内部の観測は不可能であるため、どこまでの成果を出せば「検証」が済んだことになるのかという定義づけの問題も浮上するだろう。
 この実証科学の工学的限界が意味するのは、理論と実験との時間的乖離が無限大に振りきれることにより、両者が独立した文脈で扱われるようになる時代がいずれ到来することの示唆である。言ってしまえば、これは古代ギリシア哲学の四元素論や古代中国の五行説といった、思弁やアナロジーを主体とする科学理論へ、現代のそれが還帰することとまったく同等である。実証不可能な課題しか残されていないような時代の科学者は、思弁とアナロジーという原始的な道具を携えて理論の掘鑿をおこなうよりなくなるのである。
 本章は、いずれ来る時代の物理学の様式にのっとって、すなわち、現代までに獲得された科学知と思弁のみにより科学理論を展開する。

2.2 人間主観からの転回
 アカデミックな哲学に無知の者や、現象を第一におく科学者にとって、「外界」が何かというのは自明だろう。外界とは、単に現実realityまたは世界worldや宇宙spaceなどとコモンセンスによって呼ばれるものであり、頭脳とか理性とかで思考される、一切の現実的/リアルでないもの――理想的/イデアルなものが存在する、物理的な拡がりのない空間を「内界」と呼ぶのに対して、これは外的である。
 センスデータや経験と手を切っている科学者からして、外界は内界から全く切り離して存在するものと想定される。彼らの構築する理論に基づいて措定される閉鎖系は、観測者がその内部に居ないことから完全な外界/世界/現実である。一定の科学法則に支配された時空間は、それが在るだけで保持される。このように科学者は認識主体なき世界を想定し、認識主体としての自己を切り棄てるところから出立するため、我々がまさに存在している開放系について言及する際に自己矛盾を避けられないが、これを度外視してなお議論を追及していったとき、我々はどのような地平に立つだろうか。
 完全な客観、すなわち認識主体をもたずに、あるいは認識主体自身のあらゆるバイアスが主観的に作用しない認識者を想定するとき、これは世界の全情報量を把持している。情報論に従ってこの情報量を1とすれば、完全な客観は自己の把持する情報量が1であること――補完されていることを矛盾なく知り、確かめることができる。これは一般に「全知」と呼ばれるところのものであり、意味論的に更なる拡張が想定されるにしろ、「真理を会得した者」と同一視してもよい。我々人間がこの全知となることはできない。科学測定器は、我々の宇宙を支配する科学定数とは別な科学定数により支配される宇宙(多宇宙/マルチバース)について観測をおこなうことは不可能であろうし、内省により掘鑿できる領域は僅少にすぎる。人間の把持する情報量はせいぜい0.1とか、あるいは0.0001とか些末に過ぎないだろうし、ましてそれの絶対値を決定することは我々にできない。
 こうして、全情報量1に我々の把持する全情報量が到達することはないだろう、と想定するのはネガティヴな思弁であり、自明であるものから出発していないため飛躍的であると見られる。しかし、この言明をただ飛躍性のために切り棄てることをせず、なお議論を続けることを試みるならば、対岸からはポジティヴな思弁を供しよう。注意すれば、ここで「ポジティヴ=実証的」の等式はすでに機能しない。
 人間は少なからず、世界の全情報量のうち幾許かを把持する。これは0.1かもしれないし、あるいは0.0001とか、もっと少ないかもしれない。しかしここで、我々と同様に多少の情報量を把持する者を想定したとき、これが世界のうちに無数に在るとすれば、簡単に和をとることで全情報量へ接近することは可能ではないだろうか。あるいは、この総和こそを全情報量1と見做すべきではなかろうか。多少なり情報量を把持する者を、仮に「種族」と呼ぶことにする。これによれば人間は種族のうちの1つであり、イルカや火星人なんかもその1つに数えられるだろうが、しかしこれらが有する情報量が人間のそれを超えることはないものと想定され、よって地球生物や太陽系生物、あるいは我々が存在するこの宇宙に棲息する一切の生物を種族として数え上げるのはほぼ無意味である。ここに「種族」を抽象化する作業が必要になるが、企てにしたがって「外界から何らかの情報を受け取り、それに基づいた描像や解釈をおこなうことができるもの」とすれば、センスデータは個々の種族により定義されるようになろう。人間の五感は、電磁波/化学物質/震動/平衡感/温度といったものを電気信号に変換しているが、この様式が入力に関しても伝達に関しても解釈処理に関しても多様になるということである。ここで「人間の五感」と言いつつも、我々が把持する情報量のうちには、放射線や量子論的な運動の知覚も含まれるため、科学測定器ゆらいの情報も同等に扱われることを我々は明らかに想定すべきであり、それはまた計算機による高度な演算結果を我々自身の思考や知覚として扱うことについてもそうである。これについて、本来の生体の感覚や知覚に対して「拡張感覚」や「拡張知覚」と区別することもできるが、しかし本質的に何ら異差を認めるべきではないように考える。とはいえ、直感的な理解は捗るものと思われるため、以下に図を掲示しておく。

図2.0 種族固有の知覚(要簡略化/本質化)

 それぞれの種族は固有の客観をもつ。これは人間と同様に、自己の主観ゆらいのバイアスを排除したところに想定される、認識主体なき世界を観る主観のことである。これが把持する情報量に、人間に言うところの内省により獲得された情報量を上乗せし、また切り棄てたり基礎を固めたりして提出されるものが、その種族における全情報量である。世界におけるすべての種族の把持する情報量の総和が、人間の――単一種族の把持する情報量より大きいことは明らかであり、世界の全情報量1へ接近することが真理探究であるとするならば、このような思弁はまったく有価値であるものと考えられよう。
 ここまでネガティヴ/ポジティヴに進めてきた議論は、飛躍こそあれど物理学的な探索方式に基づくものであった。認識主体なき世界を第一に想定するこの方式が自明として要求するところの世界描像を論理的におこなったのであり、我々の生活空間に何らかの近似や示唆を与える、人間主観に基づく科学理論に対して、これは種族主観に基づく科学理論と言い得よう。前者は我々の生活上必須の知識であり、後者は我々の生活を豊饒のものにする、一種の嗜好品として機能しよう。到達不能と知りつつも真理について情熱を捧げる思考は、まさに嗜好に他ならない。

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*7)
*8)
*9) Luke A.Barnes, Pascal J. Elahi, Jaime Salcido, Richard G. Bower, Geraint F. Lewis, Tom Theuns, Matthieu Schaller, Robert A. Crain, Joop Schaye - Galaxy Formation Efficiency and the Multiverse Explanation of the Cosmological Constant with EAGLE Simulations(2017)
*10) Luke A. Barnes - The Fine-Tuning of the Universe for Intelligent Life(2012)
Steven Weinberg Living in the Multiverse(2005)
吉田伸夫 - 明解 量子重力理論入門(2011 講談社)


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本論文ガ擱筆ノ陽ノ目ヲ見ヌ内ニ筆者ガ不慮ノ死ヲ遂ゲタ場合ニ備エテ吾ハ之ヲ執筆時頃ヨリ公開シテ措ク。然ルベキ論文誌ヘ投稿スルト同時ニ本記事ハ削除スル。本日ヨリ半年ガ経過シテ尚本記事ガ存在スル場合ニ本論文ハ筆者ガ筆行不可能ニ陥ツタモノトシテ本論文ヲ自由ニ改変シタ後ニ原著者[神丸智華]ノ名ヲ附記シタ上デ何レノ媒体ヘ其レヲ公開発表スル権利ヲ万人ヘ譲渡スルコトヲ銘記ス。 © 2018/1/13-7/12 kammultica All Rights Reserved


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