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ドミトリ・ショスタコーヴィッチ:交響曲 第五番 ニ短調 op 47

アイルランド出身のフランスの劇作家・小説家・詩人で、不条理演劇を代表する作家の一人であり、小説においても20世紀の重要作家の一人とされる サミュエル・ベケットに

ゴドーを待ちながら」という、現代不条理演劇の代表作がある。

第一幕 ****************

二人の男がゴドーさんを待っている。

何をするということでもなく、なにか かにかをやりながら、ゴドーさんを
待っている。

待っている理由は、ゴドーさんが来ると言ったから。

ゴドーさんが来れば救われる、と二人の男は信じている。だから、

ひたすら待っている。


一日が経ったがゴドーさんは現れない。

代わりに使いの子供がやってきた。
「ゴドーさんは明日には来る、と言われました」


第二幕 ****************

翌日、二人は持ち続ける。兎にも角にも、ゴドーが来てくれないことには、

どうにもならない。だから、ひたすら待ち続ける。

靴を脱いだり、穿いたり、通行人と喋ったり、些細なことを続けながら、
二人は待つ。


また一日が暮れた。が、ゴドーさんは、現れない。

代わりに使いの子供がやってきた・・・
「ゴドーさんは明日には来る、と言われました」


*************** 了


彼らは 救われることを希い、ゴドーさんが来てくれるのを待っている。

ゴドーが現れた時「待つ」という行為は完了し、報われる。

ゴドーが現れなければ行為は完了せず、報われもしない。

途中で待つこと(行為)を放棄したら、完結もせず、報われもしない。

いや、放棄は 成立しない。
放棄という行為自体が 待つことと同義であるからだ。

どのみち、逃げ道はどこにもない。



この芝居が、とある刑務所にて公演された直後、或る囚人が吐き捨てるように言った。

「ゴドーってなんだと思うか、だって?」

「決まってるじゃないか、(壁の)外さ!・・・自由だよっ!」・・・・・


  ショスタコーヴィチ 作曲   交響曲 第5番 ニ短調 Op.47
  ダーヴィト・アフカム 指揮  演奏: フランクフルト放送交響楽団
  2017年2月


激烈な軍靴の響き渡る中、圧倒的な「時代の暴力」にさらされて、怒りに拳を震せながらも、緊張で凍りつき、悲鳴も上げられないまま、「体制」という
檻の中でひたすら耐え続ける人々。

現在。 今。我々もまたある意味で「檻」の中であがきつつも、救いの日が

来たらんことを願いつつ、何かしらをしながら、生きている・・・。

その意味でショスタコーヴィッチは現代に通ずる。

我等もまた、彼らのように 「ゴドー」を待っているのか・・・・・・。


ヨハネ黙示録の最終章、神は約束している。「然り、我、速やかに至らん」と。

ただ 神は「速やかに来る」とは言ったが、「きっと来る」とも「今すぐ来る」とも言ってはいない。

我々は、哀しいかな、神の時間性を理解できない。

ただ ひたすらに 約束の「時」が速やかに来たらんことを願うのみ・・

Dmitri Shostakovich:Symphony No 5 in D minor, op 47
1 Moderato.
2 Allegretto  17:26-
3 Largo    23:27-
4 Allegro non troppo  38:14-

Frankfurt Radio Symphony
David Afkham, conductor
Alte Oper Frankfurt, 3. Februar 2017








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