見出し画像

ザ・デイ・アフター・クリスマス

12月26日。朝の電車内。そこでは様々な物語が交錯し、そしていつもと違った空気が流れている。

あるいはいつもと違うのは空気そのものではなくて、その空気を見つめる自分自身なのかもしれない。

昨夜まで都会の隅々に満ちていたクリスマスソングの余韻に浸る人もいれば、浮かれた恋人の祭典が終わってホッと胸を撫でおろしている人もいるだろう。

朝の混雑したホームのあちらこちらで、電車を待つ人々が白い息を吐いている。ミツルは自分が首に巻いているマフラーのほつれに、自然と笑みがこぼれるのを止められなかった。

今の彼女と付き合ってから初めてのクリスマス。

一人暮らしをしている彼女の家にお呼ばれした。

「本当にそれでいいの?イルミネーションとか行かなくていいの?」とミツルが聞くと、彼女は「人がたくさんいるところ苦手なの」と優しく微笑んだ。

「何かご飯作って待ってるね!」と続けた彼女に、ミツルは「そんな気負わなくても…」と言ったが、今考えればその返答は少しナンセンスだったかもしれない。

ミツルは彼女にブランド物のポーチをプレゼントした。彼女はミツルに財布をプレゼントした。その上さらに手編みの白いマフラーをくれた。「初めて編んだから下手っぴなんだけど、良かったら貰うだけでも貰ってくれないかな」と頰を少し赤らめながら言う彼女は、世界で一番尊い女の子に思えた。

ミサキは電車の中でやけに上機嫌だった。昨日まではひどく落ち込んでいたのだが、それは単に恋人のいないクリスマスが終わってホッとした、というだけの心境の変化ではなかった。

クリスマスイブの日、ミサキはカレンダーの存在を恨んだ。太陽の周りを地球が回っていることを心から恨んだ。

去年のクリスマスと今年のクリスマスは決して同じ日ではないのに、日付という概念は、それら二つを同じ数字でラベリングする。

去年のクリスマスが幸せだった分だけ、今年のクリスマスが辛かった。今年の夏まで付き合っていた元カレにはもう新しい彼女ができたのだと聞いた。

去年イルミネーションを見ながらはしゃいだ彼の笑顔や、部屋の電気を消した後にじっと見つめてきた彼の澄んだ目が、もう二度と自分に向けられることはなく、しかも今この瞬間この東京のどこかで新しい彼女に向けられているのだと思うと胸がはち切れそうになった

大学時代からの親友であるチヅルから「今年のクリスマスは一人ぼっち同士どこか遊びに行こうよ!」というLINEが来たのは一週間前のことだった。

チヅルは美人で性格も良く、男の子からの誘いは全く絶えないのに、もう三年も恋人がいなかった。

チヅルは大学4年生の時に別れた元カレのことを振り返って、「よく男子ってさ『いいよなあ女子は、上書き保存で。男なんて毎回名前を付けて保存してるよ』って言うじゃない。私それがいまいちよく分からなかったし、正直男って情けないなって思ってたんだけど、それから少しわかるようになっちゃったのよね。それ以来ただ追いかけられるだけの恋ができなくなっちゃって。」と言った。

ミサキにはそれこそよくわからなかった。もしかしたら圧倒的にモテるチヅルに対して嫉妬に近い感情を抱いていたのかもしれない。

クリスマス当日、駅前広場で待っていると、チヅルから「ごめん少し遅れるからどこか入って待ってて」というLINEがきたので、近くの本屋に入った。

クリスマス特集のブースにはクリスマスを題材にした絵本や外国文学が集められていた。ミサキはその横を通って婦人向け雑誌の方へ向かう途中で、ふと「哲学の名言」という平積みにされた薄い本を手にとって、パラパラとめくってみた。ひとつの言葉が目に止まった。

"昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか" ———  ニーチェ

ミサキは、その時急にチヅルのことがわかったような気がした。決して他人の夜の闇なんて理解しきれないけれど、一度自分の夜の闇を経験すると、その「深さ」だけは理解できるようになるのかもしれない。

ミサキは自分にクリスマスを一緒に過ごせるそんな友達がいることが、とてつもなく恵まれていることのように感じた。

クリスマスの夜、タケルは既に消灯された巨大なクリスマスツリーを解体するバイトをしていた。

思いっきりおしゃれをした男女を見た後だと、つま先に鉄の入った安全靴を履いて、少し油汚れがついたチノパンとTシャツを着た自分がみすぼらしく感じられた。

ただ、タケルにとってクリスマスとは給料が上がる日でしかなかったから、特にそれ以上の感傷は抱いていなかった。死後2000年の世界で、毎年自分の誕生日にとてつもない経済効果が生まれることになるなんて、流石にキリストも想像していなかったのではないだろうか。

来年大学を卒業する前に、タケルはどうしても海外に留学したかった。その資金を貯める必要があるのだ。

休憩中に、派遣のベテランであるおじさんたちはヘルメットを脱ぎ、美味しそうにタバコを吸う。別のところで腰を下ろしている男たちは、最近行ったキャバクラの話を大声でしている。

タケルはそんな人たちとは距離を置いて、ショルダーバッグの中から緑茶のペットボトルと文庫本を取り出した。文庫本はチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』だった。

解体が終わったのは朝の4時すぎだった。始発を待って、郊外にある自宅に帰る。

帰りの電車の中で母からのメールに気づいた。母はLINEなんて使えない。でもタケルは普段メールを頻繁にチェックしないから、どうしても気づくのが遅くなってしまう。

「タケルの分のケーキ冷蔵庫に入ってるよ。それからチキンもあるからチンして食べてね。母」

いつもならタケルは特別な感情は抱かないけれど、来年はもう自分が海外にいるかもしれないこと、それ以降は社会に出て一人暮らしをしているかもしれないことを思うと、急に家族の温もりが心に染み入ってくる気分がした。

ヒロシは複雑な心境で電車に揺られていた。

今年大学生になった娘が、初めてクリスマスに外泊した。10年前に妻と離婚して以来、いつもクリスマスの夜は二人だった。

それはなんとなく寂しくもあったし嬉しくもあった。

自分の手から娘が離れていく。

まだ娘が小学生だった頃、毎年イブの夜には、ぐっすり眠る娘の枕元からサンタクロースへの手紙を回収し、代わりにプレゼントを置いた。

高校生になった娘と一緒にケーキを作ったこともあった。高校生の娘としては、少し父親と親しすぎな気もしないではないが、一人っ子の娘とシングルファザーの家庭では、基本的にずっとお互いが唯一の家族だったのだ。

最近娘は、冗談半分に「お父さん再婚しないと老後大変じゃない?」と言い始めた。娘に負担をかけてしまった負い目を感じつつも、そんな優しい女性に育っていった娘を、ヒロシは父親として誇りに思った。今まで一番辛かったのはどう考えても娘自身のはずなのだ。

再婚なんて考えたこともなかったし、今更再婚できるとは思っていないが、どちらにせよ、そろそろ親離れ子離れの時期だろう。


クリスマスが明けた寒空の下、電車は人々をそれぞれの日常に送り出す。

12月26日。ザ・デイ・アフター・クリスマス。クリスマスの次の日、それには「ボクシング・デー」というちゃんとした名前があるらしい。

あなたの大切な人は誰ですか。

恋人、友達、家族、あるいはまだ出会ってすらいない誰かかもしれない。

それは幸せな気持ちに包まれているかもしれないし、哀しい気持ちに包まれているのかもしれない。もちろんその両方ということもある。

でもそれがどんな気持ちであれ、静かに心で受け止めることが大事なのかもしれない。

喧騒の去った12月26日。

それは、クリスマスが浮き彫りにした素直な気持ちを、改めて見つめ直す、穏やかな一日。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?