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韓国語で韓国史学の論文を読んでみる-2-

・訳文は韓国語の勉強を6年程度しかしていない者の試作的なものであり、間違いがあることを前提にして読んでください。間違いを指摘していただければありがたいと思います。漢字表記は旧漢字も新漢字も区別しないで用いています。

이를 토대로 고구려 내에서는 자국이 천하의 중심이라는‘天下觀’이 대두하였다.
これをもとに高句麗内では、自国が天下の中心であるとする「天下觀」が台頭した。

「廣開土王陵碑」에서는 고구려의 太王만을 왕으로 칭하고,반면 백제나 신라의 왕들은 殘主, 寐錦퉁으로 격하시켰다.
「廣開土王陵碑」では、高句麗の太王だけを王と称し、一方、百済や新羅の王たちは殘主、寐錦などに格下げしている。

「광개토왕릉비」에서 백제와 신라는 예부터 고구려의‘奴客’으로 표현된다.
「廣開土王陵碑」で百済と新羅は昔から高句麗の「奴客」として表現される

백제와 신라가 노객이 되는 과정은 차이가 있지만,고구려는 두 국가 모두 자국에 복속된 존재로 파악했다.
百済と新羅が奴客になる過程は異なるが、高句麗は、両国はすべて自国に服属された存在として把握した。

반면 北扶餘는 추모왕 때부터 고구려에 복속되었다고 하여,시대적 상한이기록되어 있었다.
一方、北扶餘は朱蒙王の時から高句麗に服属されていたとされ、時代的に上限が記録されていた。

동부여의 위치에 대해서는 고구려를 중심으로 하여 북쪽의부여를 北扶餘,동쪽의 부여를 동부여로 인식하였다는 연구가 제시되었고,『삼국사기』의 기록에 주목하여 주몽의 東扶餘出自說이 제기된 바 있다.
東扶餘の位置については、高句麗を中心にして、北の扶餘を北扶餘、東の扶餘を東扶餘と認識していたという研究が提示され、「三国史記」の記録に注目して朱蒙の東扶餘出自說が提起された。

『삼국사기』의‘扶餘’는 대부분 동부여를 지칭한다. 「三国史記」の「扶餘」はほとんど東夫餘を指す。

그런데 고구려인들은멸망한 뒤에도 주몽의 출차를 북부여로 인식하였다. ところが高句麗(人達)は滅亡した後も朱蒙の出自を北扶餘と認識した。

또 출자란 출생지를 말하는 것이 아니라 혈통의 연원을 말하는 단어였다.また、出自とは出生地を言うのではなく血統の根源を言う言葉であった。

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