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シャドウゲーム

「未来に希望を持てるだろうか?」

「いま現実世界は、希望に溢れてるだろうか?」


①「希望しかない」

 真剣に希望に生きている。または、希望に生きることで、他のすべてを排除しているのかも。ただ楽観的なだけか。

②「希望はある」

 希望は、どんなときでも必ずある。しかし、希望に溢れているとは言い難い。ある意味、現実的に物事を見ながらも、希望的観測または希望を持って生き抜こうとするか。

③「希望とは程遠い」

 希望を持ちたいが、希望を持つにはあまりにも世界の現状は厳しく、希望とはかけ離れていると考えてる。

④「希望はない、より絶望に近い」

 希望を感じられず、落胆しているか、諦めている。

⑤「絶望しかない」

 希望どころか、深く絶望とともにある。


希望か絶望かで、どちらが良いか悪いかついつい判断したくなる。

判断しだしたら、支配者の思うツボ。

人は、長年、シャドウゲームにはまっている。それはまさしく、判断と評価による対立の世界。

人の創る世界は、光と闇の勢力の対立構造にある。

希望と絶望、善と悪、白と黒、女性と男性、、、

文脈にもよるが、何らかの勝負に勝つかどうかで、人生の勝ち組、負け組に分別される二極構造で成り立っているのが世界の有り様だ。


シャドウゲームは、闇を悪とし、光を善とする。


シャドウゲームには、ストーリーとキャラクターが必要。

どんな時代においても、いかに魅力的なストーリーを創り上げるかが肝だ。


どのストーリーにも、光と闇があり、闇は悪とされるが、それも見方によって変わってるもの。


悪は、忌み嫌うものだと教えられ、そこにはない光という衣をまとっているものが正義とされる。


ゲームの支配者(古いパラダイムの権力者たち(集合体含む))は、まとう光の衣の条件を都合よく変えることができる。

だから、プレイヤーはゲームに真面目に取り組むほどに損をする設定だ。

例えば、戦争では、大味なストーリーを創造し、設定を変えることで、個々の殺人という事実を薄めるように見えるが、殺人という行為、エネルギーを傷つけ合う事実に変わりはない。(殺すという行為の良し悪しの判断ではなく)

シャドウゲームに参加するなら、ゲームの支配者にならない限り、決して勝者にはなれない。

プレイヤーは、支配者のさじ加減で、光と闇、希望と絶望を右往左往するのみ。


残されている歴史のほとんどは、これらに則って創造されたフィクションだと思っていい。


本来、わたしたちが体験できるノンフィクションは、”いまここ”にしかない。(もしくは、それに限りなく近い事実の中でしか)


シャドウゲームのはじまりは、常にスタートが闇であり、”いまここ”が幸せの足りない世界だと設定することだ。


だから、このゲームから抜け出し、新たなパラダイムに参加しない限り、終わりのないゲームボード上で右往左往するだけ。それは、肉体の死によって今世の終止符を打たれるまで続く。


エネルギー的観点からは、シャドウゲームは、人の意識レベルに合わせた人間社会のバランスを保つ便宜上の概念とも言える。同時に、個が、我が道を見失わなずに魂に従うための道標とも言える。ただ、そのストーリーももう終わり。


それでは、新しいパラダイムとは何か?


シャドウゲームから意図的に脱落し、プレイヤーを放棄すること。

そして、支配者ではなく、魂のクリエイターにシフトすることである。


脱落とは、勝ち負けそのものを放棄することであり、真の意味で与える存在になることでもある。


何が光で、何が闇かはここでは言及しないが、光と闇を語るには、国、民族、地域など集合意識が土台にあり、行き着くところは個人の主観でしかない。


結局、光と闇の統合ということになり、真剣に取り組む必要がある。それを阻むのが、古いパラダイムの土台てあるシャドウゲームだ。


意識がシフトすれば、希望も絶望もただの意味付けであり、自らが創り出している状態でしかないことがわかる。

✳︎画像『ショーシャンクの空に』

これから体験を通して、新しいパラダイムを築き、未知の世界を創造していくには、シャドウゲームのプレイヤーを降りて、自らの足で立つことが必須となる。

そうすれば、意識とリコネクトし、真の自分を思い出しながら、クリエイターとして人を全うすることがてきるはずだ。

すべての創造物に感謝と愛をこめて
さかもとたかゆき

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