正しく戦うということ

ここ数日とても心が苦しい。いわゆるアンチとの戦いというやつだ。メダリスト会見での羽生選手の言葉を思い返すとやるせない。彼が傷つくのは絶対に嫌だ。そしてその一方で、やれデーオタだマオタだと言うけれど大輔さんや真央ちゃんには本当に迷惑な話だと思う。それから宇野選手にとっても。

普段はアンチのツイートは基本的に見ない。たまにTLで話題になったら先制ブロックをしておく事が多いので、どなたかが引用ツイートなどをしていても既に表示されないことのほうが多い。しかし今回はさすがに目についた。特に今回震災関係のデマのような、ただのブロックではなくて報告を要することがあったのでいやいやながらも目にした。正直な気持ちを言えば、本当につらい作業だった。私はたぶんあんまりメンタルが強くないんだと思う。ただの言いがかりだと、単なる嫉妬だと、醜い人間の負け犬の遠吠えだと分かっていたって自分が大好きな人へ向けられた棘を目にするのは、胃がきりきりと痛む。ブロックするためにホーム確認することすらしんどい。見なければいいというのはその通りだし、その一方で「嫌い」ではなくて「事実でないことを根拠とした誹謗中傷」に対しては対策を打たねばならないというのは事実だと思う。だから今は粛々と報告&ブロックしている。二度と目にしたくないので、間違ってもリツイートはしない。自分では極力話題に出さない。という姿勢でいる。正直、それでもしんどい。だから時折真正面からアンチと言い合ったり煽ったりできるタイプの方のツイートを見て苦しくなる。申し訳ないけれど、私は直接戦うだけの強さがないからだ。本当は、どうして公開のアカウントでそんな酷いことを言えるの、好き嫌いは仕方ないといったって人間として限度があるでしょう、と言いたいし、何なら全力で、アンタの人生虚しいね、無駄な労力使ってご苦労さん、と煽ってやりたい。でもそれを言うことによって自分にも棘がグサグサ刺さる感覚がある。相手と同レベルに落ちたくないとか相手するだけ無駄だとか、そういう一歩引いた感覚ではなくて、自分の心が疲弊するのに耐えられない。ただそれだけなのだ。情けないなあ。

嫌い、という感情は誰にでもあるし私だってある。どうしてそんな発言をしたんだろう、どうしてそんな行動をしたんだろうと思うこともある。けど、もう一歩進んでそれを嫌いだという感情だと認めて、公開アカウントで発言することは本当に危険だなと思っている。全世界に向けて公開すればそりゃあ共感するひとはいるだろう。共感されれば嬉しい。最初は「こんな気持ちになってしまっていいんだろうか」という躊躇が誰しもあったはずで、それが肯定されるのだから。けど、「嫌い」をベースに人間関係が構築されてしまうと、もう抜け出すのは安易ではない。以前大輔さんのファンの方で、周りに羽生アンチが多くなり自分も同意していたけれど実際に現地で羽生君を見てみたらイメージが変わった、目が曇っていたことに気がついた、という方がいたのを覚えているけど、結局人間の生きている世界なんて狭いので、一度コミュニティが形成され価値観が固まってしまったらそれを覆すのは容易なことではないのだ(なので、この方は本当に素晴らしいなと思っている)。

本来批判するということはとても体力を使うことだと思う。そもそも間違った情報を元に批判をしたらこっちの無知がばれるだけだし、例えば一つの発言であってもどういう流れでその発言をしたのか?ということをしっかり理解しないと、タイトルだけ見て適当なコメントをしているヤフコメレベルになってしまう。怪我や病気や、あるいはリンクでの接近といった専門家でないと分からないことであれば尚更素人が口を挟むような話ではない。何を思ったって自由だし、何なら非公開アカウントなら何言ったってある程度自由だと思う。けど、公開アカウントで、生身の人間に対して批判的なことを言うというのは、覚悟がいることだと思う。だから本来、批判する、というのは時間をかけて調べて咀嚼して、そして関係各位が目にしても大丈夫なだけの冷静さと覚悟を持って初めてなされるべきものなんじゃないか。けど、一度「嫌い」というフィルターがかかって、他人からその「嫌い」を肯定されたという安心感があると、入ってくる情報を自分でフィルタリングしたり、自分に都合のいい話は真実に、そうでないものは嘘に分類してしまう。某出版社のひとが謝罪していたけれど、彼なんかは典型的で、あれだけニュースでも流れていたハビとの抱擁なんかは、おそらく彼からしたら見えないのだ。見ようとしない、とかではなく、「見えない」。だから彼の中では「羽生は外国の選手と仲良くしない」が真実になってしまっていたんだろう(まあ、あの人に関しては思想的なものが大きいだろうけど)。それと同じようなことがアンチに起こっているんだろうな、と推測される。

残念だけど大輔さんと羽生選手が共演することはもう無理そうだ。で、今は同じことが羽生選手と宇野選手に起こるかどうかの分かれ目にあると思う。もう既にユヅリストだウノタだと蔑称が出来てしまってるし。誰だって自分の推しが一番かわいい。誰だって推しを全力で守りたい。けど、自分の推しを「可哀想」と思ってしまうのは危険な一歩だなと思う。宇野選手が「本当に完璧な演技をしてたら1位になれる点数だった」と言うのも羽生選手が「あの時点で勝利を確信していた」「4Loを本当に綺麗に決めていたとしてもまず点差的に負けることはなかった」と言うのも、「その時点で本人はそう思っていた」ということに過ぎないんだから、別にどっちも構わんじゃないかと思う。本来外野がぎゃいぎゃい騒ぎ立てるようなことでもない。エキシの練習で構ってやってるだの、いやいや付き合ってやってるだの、どっちも本当にくだらないな、と思っている。所詮、ファンは外野で、ただの自己満足で見させてもらってるだけだ、っていうことをしつこいほどに自覚した方がいい。

話は逸れるけど宇野選手について。私は彼のジャンプはあんまり好みではないけどスピンは大好きだし、スケートもバターの上をあっためたバターナイフでなぞるみたいな気持ちよさがあって好きだ。今回やたらと鈍感力っていうワードで持ち上げられているけど、競技においては意図的に鈍感でいるんだろうなというふうに思っている。2016年の全日本、私はちょうどキスクラの真上の席にいた。羽生選手がインフルで欠場して、一気に「じゃあ優勝は宇野で決まりだな」という空気になった。全日本は、ただでさえ異様な雰囲気といっていい。それに加えて今まで感じたことのない種類の「勝って当然」というプレッシャー。あの時、フリーの演技に行く直前の彼の表情や顔色は忘れられない。血の気が引いているのが遠くからでも分かったし、だからこそ最後にコンボをきっちり飛んで(この辺記憶が曖昧なので、間違っていたら申し訳ない)、完璧でないにしても勝つのに十分な演技をしたときはこちらも安堵の涙が出た。だから、彼が今回特別でないと繰り返していたのも元からそういう選手なわけではなくて、おそらく「特別でない」と思った方がうまくいくという経験からそうなったんだろうな、と勝手に思っている。まあ、「特別じゃないぞ」と自分に言い聞かせようとしてもなかなか難しい、というほうが一般的だと思うので、それで本当に自然体になれるってものすごい才能だと思うけれど。

話を戻す。自分の推しを可哀想、と思って暴走しはじめてしまい、いろんな人の言葉を自分の都合のいいように解釈してしまうと、もう戻れない。例えば真央ちゃんが好きな人からすればタラソワ先生も好きなはずで、でもそのタラソワ先生が羽生選手に「ノッテ・ステラータ」を贈り、これで滑ってほしいと言った、という事実がある。けど、アンチになってしまうと、タラソワ先生の行動が彼女らの中で整合性が取れなくなる。なので、「タラソワ先生は嫌々ながら曲を選んでやった」という解釈をせざるを得ない。こうして、ひとりに対してのアンチを正当化するためにいろんな歪みが生じてゆき、最終的には誰の言葉も素直に受け止められなくなる。誰が何を言っても「心にもないことを言わされて可哀想」「お仕事だから適当に言ってるのね」となってしまい、自分の意に沿うように解釈する。あるいは、「こんなこと言うなんて見損なった!」とかなんとか言って、また「嫌い」が増える。当然矛盾が出てくるけど、ひとつ矛盾を認めてしまったら根本から崩れてしまうから、もう後戻りができなくなる。そこに最早事実は関係なくなってきているのが現在の惨状なんだと思う。たまに、「真央ちゃんや大ちゃんは自分のファンにアンチをやめろと言うべき」という意見を見るけれど、正直そんなの逆効果にしかならない。「憎き羽生(またはスケ連?あくのそしき?)に言わされているのね!かわいそう!」となってヒートアップするだけだろう。自分の好きな人の言葉すらその通りに受け取れない、そこまで行ってしまっているから、ただの「嫌い」で済まない中傷をしているんだろう、と思う。だから、反面教師として、現時点で少なくとも、羽生君はこう思うはず!こう思ってたはず!というのを行動原理にするのは危険だと思っている。こう思ってるんじゃないかと推察するのは自由だし勝手だけど、「だから行動する」は危険。それを免罪符にしてほしくない。せめて「私は悲しい」「私は嫌だ」であってほしい。あくまで自分の責任で。

私だって偉そうにだらだら書いているけど、いつ何時あっち側に行くか分からない、という恐怖感を持っている。深淵を除く時、深淵もまたお前を見ているのだ—でしたか。自分の心が弱いことは自覚している。アンチと戦う、というのは今いるクソアンチ(言葉遣いが悪くなってしまってすみません)との戦いもそうだけど、自分の中に潜む仄暗いものとの戦いでもあると思うし、あるいは同じファンの中でダークサイドに堕ちないでほしい、という戦いも含まれていると思う。だから、あえて話題に触れないことも多いし、ツイッターではなるべくポジティブなことを言うことにしようと思っている。できているかわからないけど。余談だけど、批判するのは大変だけど褒めるのは軽率にやっていい、と思ってるし単純で感覚的な言葉でいいと思っている。かわいい!素敵!きれい!で十分。なので、私は暢気なお花畑ファンに見えてるのかもしれないし実際そうなのかもしれない。けど同じような方も多いんじゃないかと思っている。楽しいことしか呟かないからといって、葛藤がないわけではないし、戦ってないわけではないんだよ、ということを言いたくて(要は自己正当化だね)この文章を書き出した。だいぶん話がとっ散らかってしまったけれど。結局、どう振舞うのが正解なのかは分からないし、正しい戦い方なんてものはないんだろうけど、でも、何が正しいのかは考え続けていたいなと思う。

でもやっぱり、ただ楽しくファンでいたいだけなのにこんなことで塞ぎこむのは理不尽だなあと思う。平昌で新しくファンになった方々がこんなふうにぐちゃぐちゃ考えないで済むといいなと切に願っているけど、難しいんだろうな。