なぜ「書く」なのか?


文章を書くことは昔から好きだった。
なんで? って、単純に褒められることが多かったからだ。

小学校からこんにちに至るまで。
作文に読書感想文、エッセイ、論文、レポート、なんちゃって小説、インタビュー記事、書評にディスクレビュー、ライブレポートなどなど……。いろんな文章を書いてきた。
しあわせなことにその多くは、周りからの評判が割とよかった。

書いて、発信する。
書いて、伝える。
それが私の「好き」であり私の中の「得意」だ。

言葉を扱うという意味では同じだけれど、私は「話す」ことで自分の気持ちを伝えるのは苦手だ。YouTuberの人とか、本当に尊敬する。

「話す」と、ふいに口をついた言葉が相手を傷つけてしまうことがある。「そんなつもりは、」と焦って重ねた言葉が、またあんまり良くなくて、「話す」がどんどんこわくなった。
だから私にとっては、相手に届ける前になんどもなんども自分で推敲できる「書く」ことが有効な伝達手段なのだ。

* * *

ところで先日、「スミスは文章を書くのが得意だから」と言ってくれた人に対し、それを聞いていた別の人がこう答えたことがあった。

「文章が得意だから、なんなんだろう?」
「文章が得意って、『声が大きい』とか『背が高い』とか、その人が持って生まれたものでしょう?」
「noteを毎日更新してるからって、なにになるんだろう?」
「日記みたいなものを毎日公開して、なにになるの?」

文章が得意って、なんなんだろう?
書くのが好きだからって毎日noteを更新して、たしかにいったい、何になるんだろう?
私も首をひねってしまった。

* * *

幼い頃は「小説家になりたい」とか、大学に入学する時も「音楽ジャーナリストになりたい」とか言っていて、「文章で食っていく」ということに憧れていたし、実際なれると思っていた。

でも、就活の頃にはあまりピンとこなくなった。
書くことはずーっと好きなのに。「自分の文章にお金という価値がつくこと」が、ぜんぜん想像できないでいた。

「ただ自信がなくてこわくて、逃げてるだけだろう?」、「書くことに責任が伴って、その重圧で書けなくなることがこわいんだろう?」と言われればそれまでかもしれない。

大学2回生の後期、突然なぜか思うように文章が書けなくなったことがあった。「ジャーナリスト養成プログラム」なるものを受講していたのだけれど、本当に急にびっくりするほど文章力が落ちて、新聞記者の先生にもおどろかれ、心配された。

「音楽ジャーナリストになりたい」と、たまたま大学の授業でお会いした某音楽雑誌の編集長に言ったとき、「好きなだけじゃなれないし、あなた程度の音楽の知識じゃ、到底無理だよ」と暗に言われたのが、結構堪えた。
(割と本当につらかった(笑) 憧れの人だったから余計に。でも真実だ。身の丈を教えてくれてありがとうございます)

そりゃあプロから見れば、私の文章なんて吹いたら飛んでいってしまうほどやわやわだろう。技術もないし、知識もない。ただ好きなだけ。
「お前は文章で食っていく覚悟があるのか」と正面から言われたら、「ないです。こわいです」と返していただろう。

* * *

でも。
私は書いてきた文章のおかげでずいぶん高いところまで飛べたことがあった。自分が書いた文章なんだけれど、文章がひとり歩きして、これまで見えていなかった景色を見せてもらったことが。嘘じゃない。

好きだと言っても、苦しみながら書くことも多い。
うまい表現が見つからなくて、文章を公開したあとに悔しくてたまらなくなることなんて、何度あったか。いまだってある。

それでも、自分が一生懸命書いたものがだれかに伝わって、よろこんでもらえたら。これほどうれしく思えることも他にないのだ。

「スミスがnoteでおすすめしてた音楽、実はこっそり聴いてるねん」
「漫画読むのってぜんぜん興味なかったけど、スミスがTwitterで良いよって言ってたやつは読みたくなった」
「スミスの文章読んでたら、めっちゃ『わかる!』ってなるねん」

そう言ってくれるだけでいい。
別に、文章で食えなくたってぜんぜん、いい。

文章を書くことが私にとってのなににならなくてもいい。
ただ、こうやって隣の人がちょっとでも「たのしい」とか「しあわせ」とか、感じてくれたらそれでいいのだ。


私にとっての文章って、そういうもんだ。


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