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愛でも恋でもない、執着の果て - 映画『愛がなんだ』 -

 この1週間で、2回観た。1回目は火曜日に、なんばパークスシネマで。そして2回目の今日はテアトル梅田で。今日は今泉監督と、主題歌を担当しているHomecomingsの畳野さん、福富さんの舞台挨拶があったこともあり、どうせ2回目行くならこの日でしょ、足を運んだ(トークショーの内容については、また別で書きますね)。2回観ても、同じところで問答無用に胸がぎゅっとなってしまった。登場人物たちは総じてどうしようもないのに、なんでこんなに愛おしいんだろう。

「好き」の中にある、さまざまなカタチ

 「だれかを好きになること」には、いろいろなカタチがある。個人的な話になるけれど、私は「好きすぎるとつらくなる」タイプだ。これは音楽や映画など、趣味の「好き」にも同じことが言えるのだけれど、「私がどれだけ筆舌を尽くして、心の底から『好き』と訴えたところで、この切実な思いが100%相手に伝わることなんて絶対にないんだ。向こうが受け取れるのは、私が送った100のうち、いったい何%分なんだろう。もしかしたら、ぜんぜん伝わっていないかもしれない。だってこの人は、私の心の中なんて見れないんだもん。あぁ、つらい……」となる(重すぎる(笑))。『愛がなんだ』の主人公・山田テルコ(岸井ゆきの)の田中守(成田凌)に対する「好き」は、こうだ。

「私は、マモちゃんになりたい。マモちゃんのお母さんでも、妹でもいい」

 「好き」を通り越して、もはや「相手になりたい」。相手そのものになれなかったとしても、その人と同じ血が流れる関係の人になりたい。極力、相手に近い存在でいたい。友人に、フランクに、笑いながらさらっと言うところがこわかったけれど、テルコにとってのこの感情は、きっとそのくらい、ふつうなんだろう。

「ていうかさ、好きになるようなところなんてないじゃん、って話なんですけど」
「そうなんだよねぇ。私もそう思う。好きになるようなとこ、ないはずなのにねぇ。変だよね」

 別に顔がかっこいいわけでも、飛び抜けておしゃれなわけでもない。体型は貧相だし、特別仕事ができるってわけでもない。性格だって、やさしいとは言い難い。「なのに、なんで山田さんは俺に親切にしてくれるの?」。本人にまでそう聞かれてしまう始末。「好きだから、じゃないの」と返し、そしてテルコは思う。ダメで、かっこよくないところも、全部好きになってしまったら、嫌いになることなんてたぶん、永遠に、ない。

「俺たち、もう会うのやめよう」

 テルコのおそろしいまでの都合の良さに甘え、近づいたり、突き放したりを繰り返すマモちゃん。ようやく自分のやっていることの残酷さに気づかされ、テルコと決別しようとする。それでも彼女は、どんな形であれ彼の近くに留まりつづけることを選ぶ。彼のことを、もう好きではないふりをしてまで。もはや本人にもわからない、マモちゃんに対する執着の正体。この「好き」のカタチが恋なのか愛なのかなんて、本人ですらどうでもよくなっている。

猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。
『愛がなんだ』公式サイト

しあわせを目指す道は、いばら

 もうひとりの主人公と言っても過言ではないのが、若葉竜也演じるナカハラ。彼もどうしようもない人に恋をしている。テルコの友人、葉子だ。葉子もマモちゃんのように、ナカハラを自分のいいように扱いつづける。

「葉子さんがさみしい時に、でも今日誰もつかまらないなぁって時に、思い出して呼び出してくれるような存在になりたいんです」

 まるで忠犬・ナカハラである。急に呼び出されたにも関わらず、到着するやいなや帰れと言ってくるような葉子に、彼もいつでも尻尾を振ってついていく。帰宅後だろうと風呂に入っていようと、マモちゃんからの電話1本で家を飛び出すテルコと同じだ。ただ、彼はテルコと違い、あることをきっかけに「葉子さんを好きでいることをやめようと思う」と宣言する。自分が葉子を好きでいること、どんな葉子でも受け入れてついて回ることが、彼女をダメにしていっていると気づくのだ。

「俺、本当に葉子さんのことが好きなんっすよ」
「好きでいることをやめることくらい、自分で決めさせてくれませんか?」
「もう限界なんっすよ。俺じゃなくても、誰でもいいってことに」

 きれいごとだ、と怒るテルコに、彼は去り際に言う。「しあわせになりたいっすね」。実は物語の中盤でも同じセリフが出てくる。その時は「好きな人に受け入れられたい」という意味だったのに、ここでは「好きな人を諦めてしまいたい」になっている。歯を食いしばって、ひとことずつ、絞り出しながら言葉を紡ぎ、最後までこらえきって涙を流さなかった彼の代わりに、劇場にいる私は静かに泣いた(ここの若葉さんの演技が本当に見事で、いちばん好きなシーンだ)。自分の「好き」という気持ちに向き合う時、あなたはテルコだろうか? それともナカハラだろうか? マモちゃんや葉子かもしれないけれど、愛って本当に、なんなんだよ。ああでもないこうでもないって、映画を観ながら、心揺さぶられながら、考え明かしてみませんか。


 好きとか恋とか愛とかの、そんなもの。いろんなカタチがあるややっこしいもの。テルコやナカハラのような、「そんなのおかしいよ」と言いたくなるカタチだってあるけれど、今泉監督はどんなカタチだって否定しないで受け入れてくれている。それが本当に救いだったなぁ。


123分、じっくり観た後に流れるホムカミの主題歌は本当に格別だった。エンドロールで曲を聴きながら、「いい映画だったなぁ」って思えるしあわせ。


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