あのころを語ろう 第4回 上町史織選手(元北國銀行、現ヨーヴィクHK・ノルウェー3部)

月刊誌『スポーツイベント・ハンドボール』の大好評連載『あのころを語ろう』第4回を無料配信。現在ノルウェーリーグでプレーする上町選手に登場してもらいました。

岩手県でハンドボールと言えば、今では花巻市の方が有名で盛んなイメージがあると思いますが、私が高校生のころは花巻市より盛岡市でした。

当時、男子だと不来方高のほかには盛岡一高、盛岡三高が強く、女子は盛岡二高や盛岡南高が強かったです。

私は盛岡二高出身ですが、じつは高校に進学する時、違う高校を志望していました。当時、「スポーツインストラクターになりたい」と思っていたので、体育科がある別の学校に行こうとしたんです。

だけど、JOCカップの県選抜のメンバーに選ばれたことで、盛岡二高の先生方の目に留まり、誘われました。盛岡二高は県内屈指の強豪校だったので、すごく迷いましたね。私たちの時代の上田中は、県大会どころか、盛岡市の大会でも1回戦や2回戦で負けてしまう下手くそなチームでしたから(笑)。

そんな私が盛岡二高進学を決めたのは、クラスの担任のひと言でした。進学先を迷っていると相談した時に「おれは盛岡二高がいいな」と言われました。担任の先生をすごく信頼していたので、そのひと言が盛岡二高進学の決め手になりました。

食事と仲間の大切さ

高校に入ってまず驚いたのが、上下関係の厳しさ。中学校時代はあまりなかったので、1年生の時は、怖くて3年生に話しかけられませんでした。

練習はとにかく厳しかったです。その中でも印象的だったのは、当時から身体作りを重視していたこと。

ウエイトトレーニングだけではなく、食事まで厳しく管理していました。なにを食べたらいいのか、なにを食べてはいけないのかなど、先生たちが細かく調べて、選手たちだけでなく、親にもそういった食事の情報を伝えてくれました。

私の両親は食事のことにすごく協力してくれました。おかずを一品追加してくれたり、お父さんが料理の本を買って勉強していました。そうして、中学生のころはひょろひょろだった私が、高校で少しずつ身体ができてきたおかげで、できるプレーが増えました。

もともと、シュート力はほかの選手よりもあると思っていましたが、身体ができあがっていくにつれて、相手に押されても踏ん張れたり、より強いシュートが打てるようになりました。食事に関しては、このころから知識が身につき、大学生になった時も自分で食事を考えて食べるという習慣がつきましたね。

ほかに意識していたことは、プレーの表情と仲間を大切にするということです。

中学生のころ、顧問の先生から「女の子ならもっと笑いなさいよ」と言われました。私、練習中に相当笑ってなかったんでしょうね(笑)。そう言われて、意識して笑うようにしました。

逆に盛岡二高の時は、「ミスを怖がっている自信のない表情や、うれしい表情を試合中に出すな」と言われました。今思い返すと、監督としては私をエースとして育てたいということを意識していたのかな。

試合中に得点を決めても「決めて当然の顔をしろ」とも言われていました。その分、私生活ではいつもにこにこして、笑顔を絶やさなかったです。

そのおかげか、試合だけを見ている人には私を「クールキャラ」だと思っている人が多く、話し出すと「イメージと違う!」とよく言われます(笑)。

また、中学3年生の時はキャプテンをしていました。「もっと練習して、勝ちたい」という気持ちを持つ私と、「そんなに練習をしたくない」と思うチームメイトに意識の差があり、何度か衝突したこともありました。

その時、先生に助けてもらい、「瀬戸物と瀬戸物がぶつかったら壊れるでしょ。クッションになりなさい」と言われたことがすごく印象に残っています。この言葉は、今でも意識していることでもあります。

この経験は、高校の時に活き、まとまりがあるチームになれたと思います。みんなが同じ方向へ向かうのは、とても充実していました。

敗戦を糧に国体3位へ

高校時代は試合での思い出が多いですね。

インターハイで失敗したことがありました。真夏に行なわれるインターハイは東北の人からすると、どうしても暑いんですよね。2年時の京都インターハイでは、暑さにやられたので、次の徳島インターハイでは暑さ対策をバッチリ練っていきました。

体育館を閉め切って、ジェットヒーターを使って暑さ対策をしましたが、いざ始まると湿気のジメジメした暑さが襲ってきて、試合では力を出し切れなかったです(笑)。何年経ってもジメジメした暑さには耐えられないですね。

もちろん、いい思い出もあります。インターハイ県予選の決勝では、毎年全校応援してくれました。盛岡二高は女子高なので、応援団も女子生徒。ピンク色の袴を着て応援する姿は地元では有名でした。そういった中で、コートに立ち、応援団といっしょに優勝を味わうのは気持ちよかったですね。

いいことも、悪いこともあった高校生活ですが、一番の思い出は高校3年の国体で3位になったことです。

これまでの全国大会では1回戦、2回戦敗退ばかりでしたが、この年の国体は私の調子がすごくよく、シュートを打てば入るような状態でした。2回戦の相手はこの年、センバツとインターハイを制して3冠をめざす京都の洛北高でした。相手の対策とかはとくにせず、気づいたら勝っちゃったという感じです。

3位決定戦で宮城を下して、メダルを獲得することができました。勝因はチームがすごくまとまっていたことかな。

これ以外にも、全国大会やブロック大会では、数々の「カルチャーショック」を受けてきました。

まず最初はJOCカップの東北予選で山形代表と試合をした時です。上田中では県外での試合なんて経験したことなかったので、この時が初めてでした。

緊張もありましたが、それよりも山形の選手のシュートの速さに「すごい!」とカルチャーショックを受けました。当時の山形選抜には土屋友美さん(元広島メイプルレッズ)がいて、同じ年の選手がこんなにもすごいのかとただただ驚くばかりでした。

また、高校1年のセンバツでも大きな衝撃を受けました。この大会が私の全国大会デビューでした。そこで対戦した福井商高(福井)にはオムロンで活躍した冨田有美さんがいて、バシバシとロングシュートを決められました。負けたあと、「これが全国大会か」というショックを受けました。

だけど、それ以上にすごかったのは、その年に優勝した宣真高(大阪)。私と同じ1年生主体のチームでしたが、優勝の喜びで崩れ落ちる姿を見てすごいなと感じました。その時は「決勝の舞台に立ちたい」というよりも「次元が違う」と思い、彼女たちは雲の上の存在でした。

そうした全国の舞台を経験して、すごい選手を目の前で見て驚いてばかりでしたが、「全国で上位に行きたい!」という気持ちはつねに持っていました。

負け試合からなにかを得て、そこから強くなる。これのくり返しで、最後に国体3位という結果につながったと思います。

カルチャーショックの連続でしたけど、それを刺激にしてがんばれた負けず嫌いの性格だったのが大きいのかな。そういった上をめざす気持ちは今でも持ち続けてます。

Profile
上町史織/かみまち しおり
1981年1月21日、岩手県生まれ/165cm・58kg/右利き/BP
上田中(岩手)→盛岡二高(岩手)→国士大→北國銀行→ヨーヴィクHK(ノルウェー)
しなやかなフォームから放たれるシュートが魅力の北國銀行の得点源。日本代表では世界選手権を2度(2009年、11年)、ロンドン五輪予選を経験。日本リーグでは歴代2位となる870得点、7mTでは歴代1位の通算268得点の記録を持つ(第37回大会終了時点)。ベストセブン6回、得点王3回、最優秀選手3回受賞。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

3

あのころを語ろう

『スポーツイベント・ハンドボール』の連載『あのころを語ろう』を無料公開したものです。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。