あのころを語ろう 第5回 武田享選手(大同特殊鋼)

月刊誌『スポーツイベント・ハンドボール』の大好評連載『あのころを語ろう』第5回を無料配信。日本リーグ・プレーオフ4連覇中の大同特殊鋼を支える武田享選手のインタビューをお届けします。

「お前もいっしょにやらないか」。

東根一中(山形)に入学した時に、近所に住んでいた先輩に誘われたのがハンドボールを始めたきっかけです。

小学校でハンドボールをやったことはありましたが、本格的に始めたのはこの時からでした。最初はルールもわからない状態だったので、小学校から始めていた同級生や先輩のプレーをマネしていました。

もともと、運動神経はよかった方ですが、中学2年時からヒザの成長痛に悩まされて、満足にプレーできませんでした。中学生のころの身長はそんなに大きくなく、卒業する時に170㎝ぐらい。ポジションも右サイドでした。

僕たちの代は入学当初から、顧問の水戸部英和先生に「お前たちは前に全中に出たメンバーに似ている。だからお前たちも全国に行ける」と言われていました。それがプレッシャーになったことはなかったです。小学校からハンドボールを経験している人もいたので、やれる、行けるという気持ちの方が大きかったです。

ところが、中学2年の東北大会決勝で同じ山形の尾花沢中に負けて全国大会に出場できず。僕たちの代になった冬の大会でも、福島の石川中に負けてしまいました。とくに石川中に敗れたのは、東北王者に「なりたい」から「なれる」という自信があった分、ショックは大きかったですね。

でも、その悔しさがあったからこそ全中行きをかけた夏の東北大会決勝で石川中にリベンジし、全国行きの切符をつかめたのだと思います。勝った時のうれしさは今でも覚えていますね。試合終了の瞬間に、チームメイトみんなで泣きながら抱き合っていました。

あと思い出深いのは、僕が3年生の年は熊本世界男子選手権が開かれた年なので、JOCジュニアオリンピックカップにテレビで見ていた日本代表の選手が来ていました。そこで中山剛さん(元日本男子代表コーチ)と写真を撮ったことだけは覚えています。なぜだか中山さんのオーラにひかれて写真をお願いしました(笑)。

伸び続けた身長

東根一中の同期6人といっしょに進学した東根工高(山形)でも、ヒザの成長痛には悩まされていました。ヒザは悪いし、体力はない。走る練習でもヒザが悪いのでいつも下から2番目や3番目でした。

ただ、身長は高校生になっても伸び続け、入学した時は175㎝程度だったのが、高校3年生の時には188㎝まで伸びていました。県内はもちろん、東北、全国でもかなり大きい方でした。身長が伸びるにつれて、ポジションもポストにコンバート。当時の監督だった比嘉薫先生(現・北村山高監督)が、僕のヒザが悪いのを考慮してのことだと思います。
高校ではインターハイ2回、センバツ1回を経験しました。

中学生の時、全中で初めて全国の広さを知り、まだまだ全国にはうまい選手、すごい選手がいっぱいいると感じました。

同じように、高校でもすごいと思った選手はいっぱいいました。とくに1学年下の選手にはすごい選手ばかりでしたね。大同特殊鋼でチームメイトだった地引(貴志、15年引退)もそうですし、高3のインターハイでは岩永(生、大崎電気)のプレーを見てうまいと思いました。最初は1才下とは知らなかったので、よけいにビックリしました(笑)。ほかには秀作(東長濱、湧永製薬→琉球コラソン、15年引退)もいたので、1才下は本当にすごい選手ばかりでした。

ちなみに、秀作とは全中で戦って負けました。地引も中学の時から練習試合をしていたので知っていましたが、昔からガタイがよく、最初は同い年かと(笑)。

同級生には岩国工高(山口)に中畠(嘉之)と藤山(岳士、ともにトヨタ紡織九州、藤山は14年引退)がいたので、同い年や1才下には本当にうまい選手ばかりだと思っていました。

日の丸を背負う意味

そんなことを思っていたら、高校3年時のインターハイ後に、U-19の選考会に呼ばれました。比嘉先生に「呼ばれたから行ってこい」と言われましたが、最初はなんのことなのかさっぱりわからなかったですね。東根工高からは僕以外にも2人選ばれましたが、その2人は高校でハンドボールを辞めるつもりだったので辞退し、選考会には大学でも続けようと考えていた僕だけが行きました。

選考会に行ってみると、すごいやつらばかり。そこでは体力テストや紅白戦をしました。そしてなぜかメンバーに選ばれました。選ばれた時は、日の丸を背負えることがうれしかったですね。日本代表として戦う喜びはここで初めて知りました。

日本代表に対する憧れは、熊本世界選手権を見ていた時に少し持っていましたが、高校生の時は自分が日本代表になるなんてまったく思っていなかったな。だから、自分が選ばれてもいいのかな、とも思っていました。最後のインターハイも2回戦敗退だし、ほかにもうまい人はいっぱいいるだろうとも感じていました。

結局、アジア男子ジュニア選手権に臨む最終的なメンバーには選ばれませんでした。メンバーから落とされて悔しかったですが、「次はメンバーに入れるようにがんばろう」と思えました。

考えてプレーする

振り返ると中学や高校の時に、もう少し考えながらプレーしていればよかったと思います。

最近、甲子園をめざす高校生のドキュメンタリー番組を見ると、当時の自分とは比べものにならないぐらい考えて野球に取り組んでいると感じます。自分もその当時はそれなりに考えて練習していましたが、今、思い返せばそんなに大したことをしていなかったなという印象があります。

本当に考えてハンドボールを取り組むようになったのは大同に入ってからですね。

考えることはとても大切なこと。仕事にしても、スポーツにしても、生きていくうえでも大切なことだと思っています。

なにも考えず、次の準備をしておかないと、対応できません。

僕は「自分が勝てる分野を探す」ということを意識していました。もちろん、すべてにおいて勝てるのが理想ですけど。

僕の場合はそれが身長でした。高校3年時で190㎝近くあったので、なかなか僕を守れる人はいませんでした。ポストに入った時に、高めのパスを出してもらったりしました。この考えは高校の時からありました。大学に入ってからは、単純な動きだけでは通用しないので、ブロックに入るタイミングやパスをもらう瞬間を工夫していました。

高校生のみなさんは、まず先生の言うことを聞いてほしいと思っています。そこから、ただ言うことを聞いているだけではなく、言われたこををどうやって自分のものにするのかが大切だと思います。

練習も自分がうまくなるためにどれを取捨選択するのか。言われたことを自分のためになるようにと考えてほしいですね。

武田 享/たけだ とおる
1982年9月17日、山形県生まれ/191cm・89kg/右利き/BP
東根一中(山形)→東根工高(山形)→国士大→大同特殊鋼
長い手足を活かしたDFと、速攻から打ち込む打点の高いシュートが持ち味。現在はコーチ兼任。2008年の北京オリンピック再予選を皮切りに、世界選手権(11年)、ロンドン・オリンピック予選を経験。日本リーグではベストディフェンダー賞を33回大会から3年連続で受賞。

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あのころを語ろう

『スポーツイベント・ハンドボール』の連載『あのころを語ろう』を無料公開したものです。
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