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すべてが一瞬にして、変化するとき。マージェリー・アリンガムの「犬の日」

マージェリー・アリンガムが生んだ名探偵、アルバート・キャンピオンが主人公の短編集、「キャンピオン氏の事件簿1 窓辺の老人」(創元推理文庫)の中で私がいちばん好きなのは、「犬の日」だ。

キャンピオンはあるとき、「上流階級向けの、落ち着いた、きわめて英国風のホテル」に宿泊する。そして、その翌日彼は、ホテルのラウンジに足を踏み入れて、こんな光景を目にする。

そのラウンジには、小声で話している大佐とその妻、編み物をする老婦人とその付き添いの女性、一人で雑誌をめくっているインド帰りの未亡人らしい女性、身を守るようにくっつきあって座っている二人の男性などがいた。
「彼らと残りの数人の客はみな上流階級の英国人で、みごとなまでに静かだった」

キャンピオン自身も浮かれ騒ぎは好まないほうだが、その様子を見て、思う。

「彼らはあきらかに互いに好意をーあるいは少なくとも、相手の感情への細やかな配慮をー抱いており、自分の同類を不快にさせたり困惑させたりしないよう、ろくに口もきかずにすごすつもりなのだ。それほど献身的な礼儀を示せる者同士なら、もっと柔軟性を発揮して、和気あいあいと過ごすことも可能なはずではないか。(略)いっそ国家的大惨事でも起きれば垣根が崩れるのだろうか。それともピンクの雪でも降らないかぎり、このうんざりするほと繊細な空気は打ち砕けないのか」

この場面を読み返すたびに頭に浮かぶのは、カレル・チャペックの「イギリスだより」だ。1924年に出版されたこの旅行記の中で」チャペックは、イギリスのクラブを訪れたときのことを書いている。
創立百年の歴史があり、ディケンズその他、多くの著名人が籍を置いたというクラブである。そこでチャペックは、革張りの椅子に座って、お互いに口をきくことなく、新聞や紳士録を読むことに没頭している紳士たちの姿を見る。熱く語っている者など誰もおらず、その空間は完全に、沈黙が支配していた。チャペックは、「わたしが入っていったときも、誰もわたしのことを見なかったし、出てきたときも、誰もふりむかなかった」と書いている。

イギリスびいきであったというチャペックは、別の章で、さらにこう書いている。

「紳士とは、沈黙、善意、権威、スポーツ、新聞、そして正直さを調合した集成物である。列車内で向き合った男が、二時間ものあいだ、こちらを見る価値もないもののように知らん顔をして、いささか憤激させる。ところが、突然立ち上がって、こちらの手の届かないところにあるトランクを取って、渡してくれる」

イギリスびいきであったというチャペックは、こういったイギリス人の性質について、とまどいながらも、同時に深い理解を示している。

それから、もうひとつ。アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」は何度か映画化されているが、1974年に映画化されたものでは、冒頭に、こんな場面がある。
砂漠の宮殿に集まった男女が、お互いに話をすることもなく気まずい雰囲気が漂っている中、一人の女性がこんなことを言う。
「みなさん、こんな話をご存じ?離れ小島に漂流した二人のイギリス人が、紹介してくれる人がいなかったため、最後まで口をきかなかった、っていう話」
この女性の台詞によって場の雰囲気がいっきにやわらかくなり、笑いが起こり、それぞれが、自己紹介をはじめるのである。

「犬の日」では、これとはまた別のことが起こって、ラウンジの雰囲気が一変する。
それまで口もきかなかった人たちが、ちょっとしたことがきっかけで、変化し、そしてホテルのラウンジも、以前とはまったく違う場所に変化してしまうのだ。

私はこの場面がーちょっとしたことがきっかけでその場の雰囲気ががらりと変わる、それも、魔法をかけられたように一瞬で変わってしまうこの場面が、とても好きだ。私が何度も「犬の日」を読み返すのは、この「魔法のような瞬間」、この瞬間を、読みたいからだ。
こういった瞬間は別に、「上流階級向けの英国のホテル」や「イギリスの高級クラブ」、また、「知らない者同士が集まった砂漠の宮殿」でなくても日常にあふれているし、誰もが経験したことがあると思うが、アリンガムはその一瞬をとらえて、それこそ魔法のようにあざやかに、描き出している。






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