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カレル・チャペックの旅行記にあふれている、あたたかいまなざし。

カレル・チャペックの旅行記は、「スペイン旅行記」と「イギリスだより」の二冊を持っている。(どちらもちくま文庫)
この二冊を読んで思うのは、まったく異なった国のことが書かれているとはいえ、共通する点がある、ということである。

それは、チャペックが異国の土地、そして異国の人々のすべてをありのまま受け入れているという点である。
チャペックは、自分とは異なる部分を相手の中に発見しても(そしてそれが自分には少々受け入れがたいものであっても)、違いを認めたうえで、受け入れている。
「異国」という相手を美化しているわけではないし、きれいごとばかり書いているわけでもない。ときおり、厳しいことを口にすることもあるが、それでも、チャペックはあたたかい。
彼は、その対象を、もっと広い視点で見て、そして、広い心で受け入れているのだ。

たとえば「イギリスだより」では、見知らぬ他人相手にすぐにうちとけることのないイギリス人の性格について書く際、高級クラブに足を踏み入れたときに誰からも話しかけられなかった経験を引用し、「これには、まいった」と正直に述べている。しかし、これだけで彼らを冷たく閉鎖的であると一方的に決めつけて終わりにすることはしない。

「しかし、イギリス人と親しくなってみると、非常に親切で、やさしい人たちである。決して多くのことを語らないが、それは、時分自身のことを話したがらないからだ」

イギリス人は、会話することが何よりも重要だと思っているヨーロッパ人ーつまり、大陸の人間とは違う、ちょっと変わった種類の人たちである、というようなことを書きつつも、実は、その一見冷たそうな人たちの内側にあるものも、しっかりと、見抜いているのである。

チャペックはイギリスびいきであったということだが、この、おだやかなまなざしはスペインでも、すべての人、すべてのものに注がれている。

「聞いてくれ、紳士諸君(カバレツロス)、わたしはここが気に入った。これだけの人間と、騒音。といっても、ただのわいわいがやがやではなく、陽気な礼儀正しさ、優雅さがある。ここにいる人はみな、紳士もろくでなしも、警官も、このわたしも、道路清掃人も、みんな高貴な生まれなのだ。だから、南国的平等、万歳!」

チャペックはさまざまな場所を訪れ、目にした人々、建物、絵画、庭について、美しい文章で書いていく。
トレドを訪れてチャペックは、「どこから手をつけたらよいのか、困ってしまう」と言いながら、まず町の門について、そして小路に入り、パティオと呼ばれる中庭へ・・・と、歩きながら実況中継しているように書き、読み手をいざなう。

「そんなふうにしてあなたは、ワインかオイルの荷を背負っているろばたちをよけながら、美しいハーレムのような鉄格子の窓をのぞき、まるですっかり、夢の中にいるように歩いている。まるで夢の中にいるように」

また、「格子窓(レハス)と中庭(パティオス)」「庭園(ハルデイネス)」の章でチャペックは、目にした花や植物をいちいち、書きとめている。
フィロデンドロン、八手、君子蘭、ユッカ、錦木、羊歯、メセンブリアンテマ、ベゴニアとカメリア・・・・ブーゲンビリア、クレマチス、馬の鈴草、釣鐘かずら・・・竜血樹、棗椰子・・・などなど・・・。
こちらまで美しい庭に迷い込んだような気分になる、花や植物の名の羅列。

「スペイン旅行記」の最終章「帰途」で、チャペックは以下のように書いている。

「きみ、これまで知らなかったなにかを見たり、それに触れたりするのは、喜びだ。物事や人びとの相違の一つひとつは、人生を何杯にも増やしてくれる。感謝と喜びにみちて、きみは自分の習慣以外のものを受け入れた」

「そこで聞きたまえ、人生の豊かさが民族を作るのだ」

「世界が千もの顔を持ちどこへ行っても異なるという理由で、全世界を愛することのほうがはるかに喜ばしい」

最後に、チャペックの旅行記の大きな魅力のひとつは、やわらかい線で描かれた挿絵だろう。もし、挿絵がなかったらこの旅行記を読むこともなかったかもしれない。チャペックの文章と挿絵、どちらも、読む人間を幸せな気分にしてくれる。









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