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なぜ僕が北海道ヒト大学の学長になったのか。【小学校〜高校時代編】



前回の投稿に書いたように、今回から僕が北海道ヒト大学の学長という道を選んだ経緯を、過去の人生を遡り3回に分けて投稿しようと思います。

かなり長編になってしまいましたが、過去の経験がヒト大学の魅力に引き込まれた理由と結びつくので、最後まで読んでいただけると嬉しいです。



3つの小学校を渡り歩いた小学時代


札幌の幼稚園を卒園し、そのまま札幌市西区の小学校に入学しますが、その学校には1年間だけしか通いませんでした。

転勤族だった自分の家族は僕が小学校2年生に上がるタイミングで東京へと引っ越します。

東京の小学校に転校してからは特別な出来事もなく子どもらしく楽しく遊んで過ごしていた気がしますが、小学校4年生に上がるタイミングで通っていた小学校の野球チームに入ることになります。

当時は父が野球チームのコーチを務めてくれていたこともあり、下手なりに成長していったと思います。

しかし、色々な事情が重なり、小学校5年生に上がるタイミングでその少年野球チームも辞めることになってしまい、すぐに東京の別の少年野球チームに入り直します。

当時弱小チームだったそのチームは、コーチや監督にも恵まれ、東京都世田谷区の大会で準優勝するまでに強くなりました。

区の大きな大会で準優勝をした余韻に浸る間もなく、今度は札幌への転校が決まります。

転校前の最後の試合は、色んな感情が混じって試合中にグラウンドで密かに泣いてしまったのを今でも覚えています。

(ちなみにその試合のウィニングボールは今でも部屋に飾っています。)

そんなこんなで、小学校6年生に上がるタイミングで札幌の北区の学校(小1の時とは別の学校)に転校してくるわけです。

と同時に、札幌の少年野球チームに入り直すので、3年間で3つの野球チーム6年間で3校の小学校に所属したことになります。

転校してきたくせに最後の学芸会の主役をやってしまうという生意気な一面もありましたが、基本的には新しく出会う友達や先生に嫌われないようにすごく気をつかって過ごしていました。


小学生の頃の思い出話をしたい訳ではなく、この話は北海道ヒト大学の設立にちゃんと繋がります。


転校するタイミングで友達とお別れするのは悲しいけど、仲の良い友達とは電話しようねと約束していたし、新しい友達と出会えることが好きだったので、特に転校に対して嫌だと感じたことはありませんでした。


卒業式の前日までは・・・


卒業式の前日といえば学校生活の中でも一大イベントが起こります。

卒業生を送る会

ではなく、

卒業アルバムの配布 です。

ここで初めて、僕は転校生であった小学校での日々にショックを受けます。

最後に通った小学校には1年しか在籍していなかった僕は、卒業アルバムの「思い出」のページに写っていないんです。

入学式から小学校5年生までのみんなの愛くるしい姿が所狭しと敷き詰められた「思い出」のページに自分がいない。

懐かしがって過去の自分たちを眺めて盛り上がる友達を見てすごく羨ましかった僕は、小学校4年間を過ごした東京の小学校の卒業アルバムを親に取り寄せてもらって買ってもらうという行為に出ます。笑

当然、届いた東京の卒業アルバムにはほとんど自分の姿はなく、今度は逆に辛うじて「思い出」のページに2年生〜5年生の時の写真が数枚あったくらいです。

転校する時に悲しんでくれた友達が多かった分、6年生になったみんながすごく楽しそうにアルバムに写っている姿を見て、自分がいなくなっても何も変わらないのか・・・なんて感じてたりもしてしまいました。

転校を繰り返したおかげで得たことや学んだことも沢山ありますが、一つのコミュニティに長く属せない、思い出を共有できないということに関して、きっとこの頃から嫌だと感じ始めたのだと思います。

とはいっても毎日友達と遊んで家に帰ってきてゲームして寝る生活で、週に数回の野球も楽しかったので、卒業までは本当にどこにでもいる無邪気な小学生だったんですが。

ネガティブに書きすぎてしまいましたが、そこは安心してください。


苦労が少なかった中学時代


というわけで僕は地元の中学校に進学します。

中学校は転校することもなく、無事に入学した中学校を卒業できました。

幼なじみとか、クラスがずっと一緒、みたいな関係性に憧れがあった僕は、中学1年から3年まで同じクラスだった友達や3年間同じ野球部で過ごした友達ができたことがものすごく嬉しかったです。

今でも中学校の頃の友達は一番仲が良く、毎年年越しを一緒にしています。

野球部の人数が少なかったこともあり、キャプテンをやらせてもらえたおかげで内申点も悪くはなく、テストの点数もそこそこだったので、高校選びにはあまり苦労しませんでした。

中学の野球部の顧問の出身校でもあった野球部の強い公立高校へと学校見学へ行き、良い感じの進学校でもあったことから、なんとなく高校受験をして合格します。


挫折を味わう高校時代


高校でも僕は野球部に入部しました。

僕らがちょうど入れ違いになる3つ上の先輩の代が北海道大会でベスト4になり、春のセンバツの候補校にもなったくらいなので、厳しい環境で成長しようと15歳の自分は意気込みます。

先輩も同期も自分にとってはレベルが高く、上手くいかないし怒られてばかりの生活が繰り返される中、高校1年から2年に上がるタイミングで僕は肩の怪我をしてしまいます。

1ヶ月くらいで治るでしょうと言われた初診から3ヶ月経っても治らず、いつ完治するのかわからないままリハビリは永遠と続き、結局3年生になって部活を引退するまで肩の怪我は治りませんでいた。

自分たちがメインとなる代になってからの間は最初から最後までリハビリをしていたので、一試合も公式戦に出ていない。

それどころが公式戦では戦力にならないので当然スタンドで応援です。

チームが札幌のブロック決勝にも3度進みましたが、そうすると全校応援になってクラスメイトが応援に来るため、自分がスタンドにいる姿がバレてしまう・・

と思い、試合に勝つことを心から応援できなかった時期もありました。

恥ずかしい話ですが、当時の正直な思いです。

ただ、途中で辞めることもなく3年間厳しい環境で続けられたことは後の自信にも繋がりました。

こういった経緯で野球では大きな挫折を味わい、周りの部員にもクラスメイトにも劣等感しかなかった自分は、部活を引退した後、せめて大学くらいはいいところに行ってやろうと意気込みます。

が、3年生の夏に部活を引退した直後に受けたセンター試験模試の点数は7教科合計で290点ほど。。

大学進学なんて言葉にするのがあり得ないくらい頭が悪かったです。

というのも毎日部活の朝練があって、授業中は寝て、放課後に部活をして帰って、疲れ果てて宿題もせずに寝る生活を2年半繰り返していたので当然の結果です。

せめて受験ではみんなに勝ちたいという変なプライドからか、そこから半年間予備校に通わせてもらい、毎日10時間くらい勉強しました。

結果的にセンター試験当日の点数は半年前の模試の290点から倍近くまで上がり、現代文だけ異常に得意だったのでセンターでも満点をとります。(北大生や樽商生と比べると到底敵わない点数ですが)

国公立の前期受験はC判定であった本州の大学へチャレンジで受験し、後期は道内の教育大でA判定の学部があったので滑り止めで受験をします。

前期受験した大学は二次試験に英語でこけてしまい不合格になりますが、後期受験の教育大はA判定だし筆記がなく面接だけだからまず落ちることはないだろうという高校の先生の言葉を鵜呑みにしたまま面接当日を迎えます。

とは言っても、もちろん面接練習も何度もしていたのでそれなりに本番も受け答えはしっかりとできていたのですが、結果的に僕はA判定だったその大学も不合格になってしまいます。(野球部の卒業旅行中に定山渓の温泉に併設してあるプールの中で遊んでいる最中に不合格の結果を知りました)

それもそのはず、部活で何の結果も残していない自分は面接官との会話の受け答えは問題ないけど、アピールポイントがとにかく弱い。

厳しい環境で頑張りました。怪我をしてチームとの関わり方を考えました。くらいしか言うことがない。

なので部活単位で学外のボランティアに参加していたり、何かのプロジェクトに参加していたような人が合格した姿を見て(もちろん合格の理由は様々だと理解しています)、自分の意思で出した結果じゃなくて顧問の意思でとれた行動でしょ。。

なんていうことも考えたりしてしまいます。

このあたりの時期から、だったら一人で行動した方が悪い結果でも良い結果でも自分のせいにできる、と感じ始めました。

もう一年勉強する気にもなれず、とりあえず現役で進学する道を選びますが、滑り止めの滑り止めで受験して絶対に行くことはないと思っていたし、消去法で学部を選んだ大学が、現在通っている大学です。


しかし、この大学に入学してから自分の人生は大きく変わっていきます。


長くなってしまいましたが、これが小学校〜高校時代の僕の経験です。

この経験が北海道ヒト大学の学長になった理由に繋がっていきます。


ここからどヒト大学にどう繋がっていくのか、自分の人生がどよのうに変わっていったかは、【2. 大学入学〜就職活動編】で投稿します!




最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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