見出し画像

2023/01/08

ひどく冷え込んだ朝に目を覚まし、黙々と顔を洗って歯を磨きながらスマートフォンを見ていると昨夜打ち合わせがあったようで、完全にすっぽかした。やらかした。穴埋めとはいかないけど、今日の夜の打ち合わせには参加するために放送をお休みすることにする。日に日に自分がすべきことと僕の身体のスピードが追いついていないことに気付かされて、焦燥感を覚える。
Youtubeで朝のニュースを流しながら朝食を作り、食べながら引き続きメールや連絡のチェック。ニュースに軽く目を通したり、その日に聞く音楽を決めたりする。そのあとはひたすら仕事。MacBookとの長い睨めっこが始まる。集中力が無いから1時間に1回ぐらい立ち上がって意味なく歩いて「あー」って声を出してみたり、ストレッチをしたりして気を紛らわす。昼食は大体食べ忘れる。
気づいたら夕方になっていたので、活動に関する作業を開始。来月から投稿するYoutubeの動画のフォーマットを作り直した。有名なYoutuberグループに所属している友達に有り難すぎるアドバイスをたくさん頂いたので、メモを見ながら反映させていき、完成。来月の投稿が楽しみでもあり、不安でもある。
このあとはライブの演出や案内などに関する打ち合わせを行うが、準備を進めていけば行くほど不安が強くなるかと思いきや、思いのほか心は落ち着いている。きっとすべきことだという実感が強いから迷いがないのだと思う。以下、仕事中に思ったことの書き殴り。


僕と関わるネット活動者に活気がない。生気を感じないと言ってもいいかもしれない。良くも悪くも安定期に入った印象を受ける。安定はマンネリズムの始まりだから当然のことかもしれないけど、心寂しい気持ちを覚える。面白いことを想像して勢いで行動し、興奮するような感覚は時代の波にさらわれてしまって消えてしまったのだろうか。今は右も左も数字主義で、いかにしてビジネスを成立させるかのマーケティング思考の人がエンタメの基礎を忘れつつあると痛感している。人が何かを見るときには2つの理由があって、「見たい」と「見ざるをえない」だ。「見たい」場合は良い。自分の自由意志の上で肯定的判断をして、見るという行動に至るのだから。しかし後者となれば話は変わってくる。例えば悲しいニュースや、恐怖など。見なければ自分、もしくは自分以外の誰かに害をもたらす可能性がある状況の場合、それは「見ざるを得ない」に類する。僕は、断言するけど、後者は好きではない。しかし利用しなければ見てもらえすらしないジレンマにも苦しんでいる。まずは知ってもらう必要があるからだ。知ってもらうためにキャッチーなことを行い、コンテンツの質を判断してもらって、リピーターとなってもらう。これが基本構造だと思う。ある程度の勢いや煽り的な要素がないと、この膨大な情報量が溢れている世の中において見向きもされないことは珍しくないのである。しかし知ってもらうがために躍起になって質を蔑ろにするのは、男性に振り向いてほしいから借金してでも貢ぐ女性のような滑稽さと道化を感じてしまってならない。最近のバナー広告業界においてもそうで、ひたすらに刺激的なキャッチコピーを見せるが為だけに内容の信憑性や広告センスを度外視している企業は日に日に増えてきている気がする。本当の意味で人を動かすということは、手を引かなくても動くものだし、そうあるべきだと僕は思っている。無理やり引っ張ってもいつかは限界が来る。瞬間的なものになってしまえばそれは文化ではなく一瞬の娯楽になってしまうのだ。数年後や数十年後に振り返って「あぁそんなのあったね」で終わってしまい、いつか語られすらしなくなる。現にコンテンツの良さをアピールしきれなかったSNSは語られすらしない。Clubhouseなんて良い例だと思う。見せる側ではなく、顧客側が「こういうところが良い」と説明出来るのがベターだ。そうすることで伝達していくし、残り続ける。質を無視したコンテンツなんて来月の食費にしかならなく、人生に何も残さない。それに薄ら薄らと気づき始めた人々が魂の温度を失いつつあるのかもしれない。ならば答えは明確で、質が高いものを見つけて学べばいいだけの話だ。映画でも小説でも詩でもいい。漫画でもアニメでもなんでもいい。人の心を動かして今も語り継がれるものを見て、吸収すればいい。今やサブスクで映画なんて安価で見られるし、本だって中古で安く買える。これだけ膨大な情報量の世の中で何にも触れないのは勿体ないと言わざるを得ない。なぜ、それらを手にしないのか。これは憶測だけど、世の中を信じなくなったのだと思う。暗いニュースや陰鬱とした空気感に飲まれて、ならば傷つかないようにと行動を最小限にしたことが起因していると考えられる。気持ちは痛いほどわかるし、僕だって普通に暮らすだけで心が溶解しそうになることはあるけれど、それでも決意がなければ何も変わらないし、生活も心も脳も錆びる一方なのである。強い決意が本当に大切だと言うことは、年齢を重ねていくうちに実感する。生産性や理論ではない、それらを力でねじ伏せるような圧倒的な決意がいつだって人や見える景色を変えるのだということに、大人になって気がつく。そしてそれはいつでも遅くないのだということに、決意を持ってから気づく。飢えて求めて脳を焼き尽くすような決意ですべて燃やし尽くすような情熱が今の活動者の方々には必要なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?