歌い手界隈は滅びます

こんなの、俺が求めた歌い手界隈じゃない!!

……失礼しました。はじめに、僕は歌い手のファンです。それもかなり長い年月を費やした、熟成した害悪オタクです。一番滅ぶべき人種なのは自覚しています。世間一般じゃ人々は家庭を作っては労働に励み、人並みの幸せを繋ぎ合わせて、小さな幸福を感じながらも殺風景な現代社会で自分の形を探し続けていることでしょう。かく言う僕もその一人でありまして、毎日パソコンの前で仕事の連絡に目を通しては仕事をこなし、窮屈になっていく精神を横目に見てみぬふりをしながら、子供の頃に持っていた自由な心が少しずつ錆びていくのを感じつつも、大人としてどういう姿を子どもたちに見せるのが正解なのかを模索している毎日なのです。
大人のフリがすっかり上手になってしまった僕の中にまだ存在している「面白いものが見たい」「楽しいことがしたい」という童心はまだずっと叫び続けておりまして、そのフラストレーションの行き場はインターネットという情報の流刑地に行き着いた次第なのであります。
学生時代にASIAN KUNG-FU GENERATIONやスピッツなどといった、俗に言う”ロキノン系”に傾倒していた僕は影響されてギターとドラムを始めてみたり、アルバムの中にある曲の中で、あえて有名じゃない曲を聞いてみたり歌詞カードと睨めっこする時間を多く過ごしておりました。様々なアーティストが紡ぎ出す言葉やメロディーは多感な時期だった僕の心には刺激が強く、もはやそれが無いと生きていけないんじゃないかと思えるほど心揺さぶられたものです。
その傍らで世間ではニコニコ動画というサイトが静かなブームを起こしておりました。今やYoutubeの一興ではありましたが、世間じゃ光回線も一般家庭に普及して高スペックなPCも安価で購入できるようになった時代で、動画コンテンツを気軽に見ることができるようになったのです。スマートフォンの普及も非常に大きく、当時はまだ3G回線でしたが、それでもPCと遜色ないレベルの映像と画面上に映すことが出来てストレスフリーに外出先で動画コンテンツを楽しむことができる。いわばどんな娯楽も持ち歩くことができる時代がやってきたのです。ボストンバッグみたいな携帯電話を肩からぶら下げていた時代では考えられないような進化ですよね。インターネット検索すればどんなものも見れてしまうし知れてしまうから、人類は(ほぼ)無限の知識と情報を持ち歩く時代になりました。恐ろしいけど、素晴らしい。
そんな時代が生み出した変化はいくつもありましたが、始まりに見られた傾向は「人々は創作意欲の刺激」でした。 人は生まれながらにして創作意欲を持ち合わせているものです。打製石器を見た昔の人が「おい!これ擦りまくったらめっちゃ切れ味良くなるし使いやすいぜ!」「おいマジかよ!じゃあ持つ所に紐とか括り付けて滑りにくくしようぜ!」と磨製石器が出来上がっていったように、人は何かを生み出すことに結果と喜びを求めます。それは現代とて同じことで、インターネットという無限の情報と可能性を秘めた居場所が生まれたそのときは人々の脳を試されているような感覚にすら陥りました。文章を書いて公開したっていい。絵を描いたっていい。音楽も。公開されたものを見て賛辞を送ったり、批判したり、時には慰め合って居場所を探し続けていたのです。そんなカオス宇宙の中で「ボーカロイド」という
彗星が姿を現しました。初音ミクという歌う合成音声ソフトが「みっくみくにしてやんよ」と歌い始めたのです。とうとう機械が歌う時代になったのか、と人々はその進歩に深く関心したことでしょう。しかしそれはまだ赤ちゃんが立ち上がって「やっと立ち上がるようになったのか」と関心するレベルの話で、僕らの脳を破壊してくるレベルの感動までは生まれませんでした。このあと"ある名曲"が誕生したことによって、その赤ちゃんが立ち上がったあとに走りながら空を飛んで「ちょっと大気圏の向こう側に行ってくるわ」と言い放ってくるような衝撃を僕たちに与えたのです。
それは「メルト」という曲。完全に脳が破壊されました。楽曲としての完成度が今までの比ではなかったのです。初音ミクが歌うどころか、歌詞の中にある感情さえ声で表現している。それはもう、"音"ではなく"声"だったのです。機械が命を持ったのかもしれない、とアイザック・アシモフのような恐怖を感じるほどの感動に人々は行動せざるを得ませんでした。
こういう状況で人間が行う行動は単純です。「人間が歌ったほうがもっと良いものになるぞ」と歌い始めるのです。「メルト歌ってみた」という言葉が、ランキングページに羅列したきっかけでした。その手口は様々で、歌唱力が高い人がひたすらハイレベルに歌う場合もあったし、歌詞をオリジナルで変えてみたり、ラップアレンジをしてみたりなど。まさに人間の想像力と機械の技術の戦争でした。
そうなると当然、技術側の人間もその戦争に応酬する形になります。新しいボーカロイドの曲が次々と誕生していきました。「ワールドエンド・ダンスホール」「メランコリック」「ハッピーシンセサイザ」「モザイクロール」……。特に「モザイクロール」や「メランコリック」などはボーカロイドであることを忘れさせるほどの完成度でした。曲が増えると、歌う人も増えていく。「歌ってみた」の文化は飛ぶ鳥を落とす勢いで加速していったのです。それが歌ってみた文化の始まりでした。
次第に、人が増えるたびに単なる自己表現や承認欲求だったものは競争へと変わっていきます。ランキングの上位を狙い、ブームや客層の好みを考え、ひたすらに歌ってみたを上げる人たち。競争をすれば当然トップ層の人間というものが誕生していくようになり、その代表格が「まふまふ」さんなど今も名を轟かす大手歌い手たちでした。自分たちもいつかはそうなろうと、歌い手たちは夢を見続けていたのです。
次第にその規模はとてつもなく大きいものになり、とうとう歌い手はライブイベントを行うようになりました。おそらく、僕の記憶が正しければ事務員Gさんの「事務員Gのニコニコ音楽寅さん」というイベントが2008年ぐらいに行われたのが歌い手一番最初のライブだったかと思います(違ったらごめんなさい)。3000円ぐらいで1000人規模(絶対赤字)。当時はえっぐいぐらい叩かれてました。「ネットで歌うならまだしも、趣味で金取るってどういうことだ!」と。当時はスパチャとかお金を投げる習慣が無かったし、嫌儲民と呼ばれるネット上で金稼ぎをする人を叩く人種もいたので、残念ながら当然です。しかしこのイベントは成功を収め、第2弾もあったと思います。たぶん。この行動はいわば歌い手たちの価値観に革命を与え、「そうか、俺達は表現者として生きていいのか」と続々とライブイベントが開催されました。当時はオフ会など限られた人間たちしか行っていなかったし慣れていなかったから、動員も非常に大変だったと思われます。
それでも多くの歌い手たちがバーなどで弾き語りイベントを行ったり、トークと歌を混ぜたエンタメ寄りのイベントを行ったり、それぞれが持っている持ち味をいかに活かすか工夫しあっていたのです。批判し続ける層はいましたが、それでも歌い手たちは人前で歌い続けました。理由は簡単です。"歌う人とそれを聞く人がいるという空間"が好きだったからです。歌ってみたというコミュニティや文化が好きだったから、お金にならなくてもライブをして人々の心に歌声を残し続けていました。
現代に至るまでインターネットの文化も少しずつ変化を遂げて、金銭が発生しても文句を言う人はかなり減ったし、イベントを行う敷居も低くなったように感じます。だからこそ自由は増した側面、様々な視点が生まれたことも事実です。そんな時代の推移を見てきた僕だからこそ、今の歌い手界隈に思うことがあるので書かせてください。長くなったね。ごめんね(いいよ)。

今の歌い手界隈は結論から言うと、ゴミです。

こんなこと言うとすごく叩かれそうですし、これを読んでいたあなたも「なんだと」と拳をグーにしたことと存じます。まぁ一度、その握った拳を開いて、深呼吸して僕の言い分も聞いてください。殴るのはその後でも遅くはないはずです。
最初に申し上げた通り、僕は面倒なタイプの歌い手オタクです。時代の推移も見てきたし、文化がどう変化をしていくのかを見続けてきました。しかし「昔は良かったなぁ」と懐古主義になっているわけでもありません。ぶっちゃけ、技術とか取っつきやすさで言ったら現代のほうが優秀です。中高生でもライブができるし、お金さえ払えば動画やMIXを他人に丸投げして簡単に創作物を制作することができる。いわば誰でも歌い手になれてしまうわけです。だからこそ歌い手という存在の希少価値が低くなってしまったとも言えますが、これは競争の激化も意味しています。
簡単に言えば、これを読んでいるあなたが歌い手じゃないとして、「好きな歌ってみたを上げてみよう」とYoutubeに動画をアップしても、再生されないんです。埋もれてしまうんですよ。膨大な数の歌い手たちの中に一人だけ増えても、誰も気づいてくれないんです。大豆がたくさん入ったツボに大豆をひとつ追加して混ぜて、「どれが追加した大豆かわかる?」って聞かれてもわからないでしょう。そのような状態です。とんでもねぇ市場規模になってるんです。
その状況が生み出す結果は「歌い手は見てもらう方法を考える」というものになります。その方法は様々で、心理効果に訴える場合だってありますし、卑怯な手を使うことだってあります。ちょっと前までメジャーだった方法は「カタマリになって、見て貰いやすくする」って方法です。さっきの大豆のツボの例えで言うと、大きい大豆は目に止まりやすいですが小さい大豆は気づいて貰いにくいです。「ならば小さい大豆同士でくっついて大きく見せればいいじゃん!」という発想です。噛み砕いて言えば"歌い手のグループ化"ですね。
これは最初の方は功を奏しました。「歌い手グループを組む」って言うだけで注目してもらえたし、ある程度見てもらえたのです。しかし、他の歌い手たちもそれを見て「俺もやるー!」と言った結果、カタマリだらけのツボになってしまったためグループを組んでも注目されなくなってしまったのです。そりゃ、でかい大豆がたくさん入ったツボになっただけですからね。当然ですね。
じゃあここでどうすればいいのか?という具体的な話をしましょう。「サイズだけで勝負することを辞めること」です。もっとわかりやすく言うのであれば「戦い方を考えること」です。「僕はしょっぱい大豆ですよ」とアピールする大豆があったら、しょっぱいものが好きな人はそれを手に取るでしょう。歌い手グループでいうのであれば、「自分たちはどういう歌い手グループか?」ということを外部にアピールする必要があるのです。「ただ組んだだけの歌い手グループ」になってしまったら、人々はもう手に取る理由などありません。「私達は楽しませることに比重を置いたグループですよ」「私達は世界観を大事にしたドラマチックなグループですよ」など。ただ、それを言葉でただ伝えるだけでは説得力がありません。現代の例で言うなら「正統派」「実力派」のイメージで勝負している「いれいす」などが良い例ですね。あそこは自分たちを正統派や実力派と言いながら動画をコンスタントにずっと上げ続けていますし、配信だってほぼ毎日誰かしらが行っております。そこのタスク管理も徹底したうえでちゃんとリスナーに行動で示し続けています。だから強いのだと思います。言葉で伝えることなんて忘れてしまうから、心に訴えることが大切だということですね。心に残ったものを人は簡単に忘れないし、それぐらいの存在感を持ったカリスマを今の時代は求められているのだと思います。僕たちは大豆じゃなくて人間なんだから、できることは無限にあるはずです。だからこそ歌い手の方々はただビジネス的にAIでもできることをして動くのではなく、人間としてアイディアとセンスを磨いてほしいなと思う次第です。

さて、そろそろ歌い手界隈をゴミと言った理由についてお話します。簡単に言うと、さっき言った外部イメージが甘いから、「ただ無駄に歌い手グループが増えて個性がなくなった」んですよ。蓋を開けたら面白い人はたくさんいるのですが、いかんせんアピールが甘い。結局アピールとイメージの戦いなんです。ただライブをしてグッズを捌くだけの商売人になったらおしまいですよ。そういう活動をする中で、どうやって人を楽しませるか?満足してもらえるか?という部分に着目しない理由が、僕にはわかりません(いや、やってる方もいるんですけどね)。
フライヤーの作り方からグッズの素材、ライブ会場の音響など、細部に至るまでこだわりを持ったクリエイティブ精神が今の歌い手界隈には圧倒的に足りません。理由は簡単です。みんな超疲れてるんです。これガチです。みんんな3ヶ月ぐらい休んでいいよって言って休ませたらガンガンにイカしたアイディアを出してくることでしょう。しかし疲労は精神と脳の自由を奪うから「とりあえず必要なこと」に縛られてしまう。だからみんな「ライブするならチケットを売らなきゃ」「グッズ出すならいっぱい売らなきゃ」「告知のフライヤーを出さなきゃ」と最低限の行動だけしてしまうんです。
なんでそんなことになってしまうの?という部分ですが、これは各活動者様の事情や環境などもあると思うので一口に言えませんが、活動ペースとリソースとスタミナのセルフマネジメントが甘いというところに尽きると思います(メンバー同士の人間関係とか、会社とのトラブルとかもありますけどね)。一度、体制を立て直していつでも戦える状況を作れるように環境を整理したほうが良いと思うんですよね。でもみんな出来ないんですよ。ちょっと休めばいいのに、落ち込んでメンタルが地獄になるまで無理やり行動して変なタイミングで休止とかしちゃうんです。でも出来ない。なぜか。休んでる間にフォロワーが減ったりファンが減るのが怖いからです。バカめ。あえてバカだと言わせてもらいましょう。そんな発想でいる人はバカです。だってボロボロの状態で動き続けるより、いったん休憩を挟んでベストパフォーマンスで後々動いたほうが結果的にプラスになるに決まってるじゃないですか。長い目で見たらそっちのほうが絶対に良いはずです。なのにみんな休止するというのがイメージを悪くすると思ったりして出来ないわけです。でもそれってアマチュアの発想ですよね。本当のプロは休めるときに全力で休んで英気を養うものです。そして戦えるときに全力で戦うんです。だめなときはだめで、一度引くんですよ。「止まりさえしなければ、どんなにゆっくりでも進めばよい」と孔子も言ったものです。孔子ですらそう言ってんですよ。まぁ孔子は「死んだら休めるんだし今は全力で動けや」っていうクソブラックな発言もしましたけど。そっちは無視しましょう。あいつ昔の人間だからわかってないんですよきっと。

ボロボロでマーケティングに参加し続けている歌い手たちは今どうなってるかと言うと、凄惨たる結果になっております。騎士Aのまひと君の休止から始まり、めろんぱーかーののっき君の脱退など。次第に歌い手やネット活動は金稼ぎの道具になり、楽しさを共有する手段ではなくなってきたのです。忘れているんですよ、最初の頃の楽しさを。好きな音楽について語り合ったり、同じ情熱を燃やし合っていた界隈はもう完全に冷え切っていて、ただマンネリの中をだらだらと生きています。ファンも心の中にある迷いや疑問や不満を押し殺したり、ただ求められることだけをしようとアイデンティティを捨ててついていくだけになってしまってる子すらもいます。脳死と熱中は現象的には似てますが、全く異なるものです。思考を放棄したうえで心を震わせるほどの感動や安心を本当に得られているんですか。心が宙に浮かず、すとんと地面に鎮座しているような安心感を本当に得ていますか。ただ言われたことをやっておけばいいと思いこんでませんか。そんなの、家畜ですよ家畜。それでもいいなんて言葉、疲れてるから出るだけであって、本当は脳が弾けるような刺激と感動と、自分の心が前に進むような感覚を求めているはずなのに、見ている側すら諦め始めている。腐った界隈ですよ。そんな子たちを量産して金稼ぎしたり、知名度に利用したり、くそったれです。ついてきてくれる子たちに対して本当の意味で感謝できて深い礼儀を持ち合わせた歌い手さんや歌い手グループさんが、今どれだけいるんですか。なんで「もっと俺達とワクワクすることしようぜ!」と胸を張ってファンを安心させられないんですか。猫背で玄関を開けるサラリーマンみたいにトボトボと界隈で衰弱していく活動者なんて誰が見たいんですか。もっと、頭の中が弾けていて地獄の中で不幸を笑い飛ばすようなものを求めているんですよ。知識や技術なんて二の次なんです。時代の憂鬱を吹き飛ばすような情熱と、情勢に左右されないセンスを人々は求めているんです。言葉じゃないんですよ。背中に見せるんですよ。ファンの方々は言葉でついていくわけじゃないんです。ハーメルンの笛吹き男みたいに「はぁいこっちですよー」って誘導し続けてる。失っても壊れてもそれでも自分の骨を埋める場所はここだという狂気を帯びた情熱がなければ、インターネット活動で人々の心を動かすことなんて出来ないんです。心の奥底に情熱と狂気、そして頭には真摯に向き合い続けた経験と知識。そして環境と周囲の人間に対する感謝。その集大成を表現出来ないで何が活動者ですか。もっと原点に帰って考えないとだめだと思うんですよ、僕。こんなの趣味だとか、遊びだとか、バカにする人もきっと世界にはたくさんいるんでしょうけど、遊び半分の遊びなんて僕からしたら時間の無駄でしか無いんですよ。なんでそんなことに時間と情熱を費やしているのと思える人がどんな時代も何かを変えてきたんです。漫然と時代の流れに身を任せて流行に乗っかるだけ乗っかって、なんとなく歳を取って死にたくないんです。配信界隈という宇宙に身を投じた若い子たちだって、ただ暇つぶしの道具として使われてほしくないんです。絶対に活動を始めるぞと思ったときに思い浮かべたものがあるはずなんですよ。情熱もあったでしょうし、ワクワクしたと思うんです。最初にちょっと数字が伸びたときとかすっげぇ嬉しかったと思うんですよ。それ、忘れちゃだめですよ。その頃のあなたが今のあなたに早く気づいてくれって叫んでいるんですよ。環境や時代が変わってやり方が変わっても、時代の先に向かおうとしていた心構えを忘れたら絶対にだめなんです。そういう姿勢をファンに見せて、前を向かせてあげるんです。ライブとかイベントって本来そういうものであるべきでしょう。もちろん現実問題かかるコストもあるからお金も発生するでしょうけど、お金が発生するならお金以上のものを与えるだけの情熱さえ持てば僕はいくらでもやっていいと思うんです。僕だって、去年の1月に人生で初めてライブをやりましたよ。やろうかすっげぇ悩みました。だって人の時間をもらって交通費かけてライブ会場まで来てもらうんですもの。そんな恐れ多いことしていいのかって。それでもライブでしか表現できないものがあるんじゃないかとか、そういう状況でしか伝えられないものがあるんじゃないかと思って信じてやったんです。結果的に、本当にやってよかったですよ。今後ライブするかどうかはわかりませんけど、ネット活動で伝えられない部分とか空気でしか伝えられないものが出てきたらまたやると思います。断じて誓いますが、僕は金目当てだけのイベントやライブやグッズ販売など死んでもやりません。そんなことするのなら、死んだほうがマシです。その覚悟を持って遊んでます。17年間活動しているけど、その情熱だけはずっと持ち続けています。そりゃ、お金儲けに逃げようと思ったことなんで何億回もありますよ。そのたびに考えるんですよ。それをやって、未来の僕は過去の僕を褒めるかって。平たく言うなら「それカッコいいか?」って。僕は見栄っ張りなんでカッコつけたいし、人に「こういうことやったんですよぉ」って言って「すごい!」って言われたいんです。ただの金儲けをしたらその時は救われるかもしれないけど、未来の僕は救われません。本当の意味で価値を与えないといけないと思うんです。それでくたばってしまったとしても、きっとそれまでの運命だったんです。嫌な運命が来るかもしれないと、嫌な未来が待ってるかもしれないと、そう思い続けても腹の奥底で覚悟を決めて狂気を抱えて突っ込むんですよ。失うことを恐れていても仕方ないんです。そこらじゅう壊して何もなくなったとしても僕がボロボロになって世界中から嫌われても、僕が僕であり続けるという覚悟が必要なんです。周りの環境なんて、どうでもいいんです。時代なんて流行に左右されるし、流行なんて文字通り流れ行くものですから。僕は流れ行くものじゃなくってそこにあり続けるものでありたいんです。機械的な記録ではなくて人々の記憶に残り続けて、いつか誰かが僕をふと思い出してくれるような存在になりたいんです。いつか寿命とか事故とか病気で死んだときに僕を思い出してくれる人がたくさんいてくれたら、それ不老不死と同じじゃないですか。めっちゃ凄くないですか。それができるかもしれないってネット活動とか創作活動ってめちゃくちゃ凄くないですか。もちろん世の中うまくいかないし、時代は便利になって面倒くさがりな世の中になっちゃいました。僕も毒されて、面倒くさがりです。ただでさえ面倒くさがりなのに、余計にそうなってしまったから、病気ぐらいの怠惰が僕です。だからこそ情熱を持ち続けるにしても心がどうしても前を向かないこともあるし、脳が正しく良い電気信号を出してくれないときだってあります。それでも、自分はなるべく自分の求める姿でいたいという低俗な意地で続けていくんです。プロだからこそ休むときは休むし、常に自由な心で周りに左右されずに自分の中の正しさを求めていく。ネット活動ってその一環だと思うんですよ。だからこそ、ネット活動をしている人たち、歌い手の人たちで辛い気持ちになってしまっているのならば今いかに自分が時代に毒されてしまっていて冷静じゃないか気付いたほうが良いと思います。時代に飲み込まれたらそりゃあ辛いですよ。暗いし、不景気だし。でも新しい世界を作るのがネット活動だし、創作の世界です。自分から始めていけばいいんだと思います。失敗に終わったって、それを見て何か感銘を受けた人が引き継いでくれるかもしれないし、人々の記憶に残って自分という存在の粒子みたいなものが世の中のどこかに残るかもしれないと思ったら素晴らしいことじゃないですか。だからこそ今を全力で生きて、休むときは全力で休むんです。「知るかもう!アホ!」ぐらいの勢いでアイス食って風呂入って寝るんです。「気に食わねぇ!知らん!」ぐらい心の中でわがままになっていいと思うんですよ。面白いことを求めて何もなくて虚無感に苦しんでいるのであれば、「じゃあもうええわ!知らん!」ってふて寝したっていいと思います。だって人間って自由ですし。仕事があったりやるべきことがあって時間は圧迫されますけど、心はどうあろうと自由なはずです。僕は忙しいときでも「もう知らん!世界滅べ!!まともに働いているように見えるかもしれないけど世界征服できるなら速攻でする心構えです!!」ぐらいの気持ちで生きてます。僕もいい歳だから、そろそろまともな考え方を持たないといけないんですけどね。たぶん死ぬまでこうなのかもしれませんね。歌い手界隈の話からすっげぇ脱線しちゃいました。結論から言うと、みんな頑張ろうねってこと。同じ時代で、同じものを楽しんでる仲間なんだからさ。なるべくイカしたことやって、褒め合ったり批判しあったりしようぜ。ところでこの記事10000文字ぐらい書いちゃったんだけど、さっきから後ろでスマホが鳴り続けてる。たぶん仕事の連絡。怖い。文章書き終わりたくない。まぁいいや!もう知らん!!世界滅べ!!!

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