正しいとは。正解とは。

友人の相談に乗っていて言葉化せずにはいられなくて。ここに記しておこうと思います。

世の中に正解、正しいと言われるものはないのだろう。そう思います。

私はこれまで、世の中に「白」と「黒」をはっきりとつけ、「白」を貫き続けてきました。ただ、私が「白」と呼ぶものの中に他人にとっての「黒」があったのだろうし、またその逆もあるのだろうと、最近身をもって体感しています。特に人の人生における重要な選択、ましてや私の大切な存在にとっての決断であると、相談にのっていてより思い知らされるのです。

大学までの生活の中では、多くの場合「解」が存在し、それに外れるものは「間違い」として扱われてきました。かつ、「間違う」ことは「悪」に近く、「解」を容易に導ければ導けるほど周囲から称賛されてきました。

私は幸か不幸か、「解」を導ける人間であったわけですが、社会に出ようとする今、社会の「解」がないことに圧倒されているのです。これまで、「解」を必死に追い求めてきた私にとって、それは苦しみでしかありませんでした。

冒頭でもあげたように、おそらくきっと、社会には犯罪でなければ「正しい」「解」など振り分けられるものはありません。しかし、「ない」ことを証明するのは大変に難しい。だからこそ、正解を求めてずっともがいていたのです。形として、言葉として、目の前で、頭の中で「正解」を探し出そうと必死でした。

そんなとき、ある言葉をもらいました。

「グレーを広く持ちなさい」

これは、自分にとっての白黒では物事を判断できず、他人には他人の白黒があり、その中間色のグレーを持っていることで、かつ、それを広くすることで、多視点で物事を見ることができるというアドバイスでした。

私はその言葉を、自分なりに解釈し直し、これまでの白黒2色展開ではなく、「グラデーションを作る」ことにしました。これは単純に3色で物事は分けられないという短絡的な理由と、もう一つ。同じグレーであっても自身の意見を強く持ちたいところとそうでないところがある、そう感じたからです。この「~たい」というのが、私の中のポイントで、「~べき」というのはそこに「白」が含まれていて、それとは離れて、自身の価値観にのっとった欲に従おうという思いを反映してみました。

その姿勢を意識してから、少し物事が変わって見えるようになりました。これまで、いやだと切り捨ててきたこと、人。そこに実はたくさんのチャンスが眠っていたのかもしれないとまで、考えるようになりました。

そんな捉え方を始めてから、社会はもちろん、それを構成する人間一人ひとりにも「解」がないのだろうなと、自分の中で何かが浄化できるようになりました。

画一された解がないのは当然です。誰も自分と同じ人生を歩んでいないのだから。自分自身もきっと生まれ変わって、違う身体に生まれても、同じ人生なんてないのでしょう。だから、今自分が抱いている感情、思考またそれの根源を成す価値観は人それぞれで違っていて、それが「個性」でありその人そのものであると思うのです。(だからこそ、社会にでるまでの”画一された”教育と、”個性が求められる”社会とのギャップに課題を感じ、何とかしたいと常に考えているわけですが。。。このことはまたいずれかのタイミングで、決意表明としてかこうと思います)

なんだか、当初言語化しようと思ったこととちがうところに帰着したような気がしますが…なんだか気持ち的にすっきりしたのでこのあたりで。

最後に……他人のグラデーションを尊重できる人間でありたい。そう思います。



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しまやん

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