岡田磨里はいかにして「日常」を歪ませたか(※超未完成です、書いた経緯はツイッターをご確認ください、文体模倣です、完成予定はありません)

 

1.
 本論は岡田磨里が書いた「不感症」の概念を通して、10年代におけるオタク像を捉えなおそうとするものである。
 岡田磨里について、まずは基本的な情報を確認しておこう。アニメに詳しい読者はご存じだろうが、岡田は『とらドラ!』『凪のあすから』『心が叫びたがってるんだ』などの代表作を持つ脚本家であり、現在の日本アニメにおいて欠かせない存在となっている。そして彼女の作品の分析を行うことで、日本社会が抱える問題とオタクの現在像とが同時に見えてくるというのが僕の考えだ。
 とはいえ、このように記すことは一部の読者を戸惑わせるのではないかと思う。一般的にはアニメとはオタクが視聴するものであり、それが社会状況と結びついているという主張は、かなり唐突に響くだろうからだ。
 しかし僕は、まさにこの違和感こそが、2011年以降のアニメ、ひいては日本のオタク文化と社会との関係を示す上での鍵になると思っている。2011年とは、言うまでもなく東日本大震災が起こり、日本社会を取り巻く空気が大きく変化した年である。本論ではそれによってオタク文化と、そのメンタリティが変化する様子を追っていく。


2.
 本題に入る前に、2000年以降のオタク文化について簡単に確認しておこう。
 まず、「物語」が持つ社会的機能に注目することから始めたい。大塚英志、東浩紀、宇野常寛、さやわかといった論者が各々の視点から「物語」について語ってきた現在、この言葉はいささか古めかしく聞こえるかもしれない。しかし、彼らが論じてきた「物語」が「二重の機能不全」を起こしているという点にこそ、アクチュアルな問題が潜んでいるというのが僕の考えである。どういうことだろうか。

 上述した論者たちが用いた「物語」という語は、21世紀の人間たちにおけるポストモダン的な生と深く結びついている。「物語」はかつて、人々に対して特定の思想や規範を共有させるための装置(=大きな物語)だった。しかし、ポストモダン的な生が前景化し、相対主義的で多文化主義的な倫理が押し出されるようになると、ある個人が信じる「物語」を他のひとも信じるべきだと考えることができなくなる。その結果、「内容がどのようなものであれ、みんなで特定の物語」を共有すべきだというメタ物語的な含意自体が消え去り、個々人や小さな共同体の中だけで機能する無数の「小さな物語」が氾濫することになった。
 では、以上の内容はオタク文化とどのように関連するのだろうか。それを整理するためにここではまずセカイ系と日常系という言葉を用いることにしよう。

 ひとことで言えば、セカイ系とは、主人公とヒロインを中心とした小さな関係性が、社会や共同体という中間項を挟むことなく、「世界の終わり」などの抽象的な問題に直接繋がってしまうような想像力のことを指す。この語は2002年にインターネット上のウェブサイトで初めて用いられたとされており、『新世紀エヴァンゲリオン』に見られるような個人の内面がそのまま世界の問題として扱われるような作品を代表例として挙げることができる。
 このような構造に対しては、過剰な主人公願望や社会領域の欠如を批判する向きもある。だが重要なのは、「物語」が機能不全を起こした結果、社会そのものから遠ざかりたいとする欲望が消費者たちに産まれていたことだ。自身の生を引き受けてくれる強力な共同体が存在しないからこそ、フィクションの中で個的な「物語」を「世界の終わり」と直結する普遍的なものであるという「フリ」こそが必要とされていたのである。
 ところが、2000年代の中頃になると、京都アニメーションが『らき☆すた』『けいおん!』に代表される日常系と呼ばれる作品群を作り出し、存在感を強めていく。日常系とは、個人の内的な葛藤や「世界の終わり」といった問題系から離れ、学園や家庭を舞台として、キャラクターたちの些細な日常を豊かに描こうとするものである。
 セカイ系が個別化されてしまった生を強引に普遍性に繋げようとする試みだったのに対し、日常系はありふれた生の中に十分な幸福が存在することを証明しようとする作業だったと言えるだろう。

 このような日常系の表現は、それ自体が「小さな世界で我慢するしかない」という窮屈な感性に見えてしまうかもしれないが、このような姿勢はアニメに限らず、ゼロ年代のオタク文化における消費構造全体に広がっていったということを忘れるべきではない。その最も顕著な例が2006年にドワンゴがサービスを開始したニコニコ動画の存在だ。いまでこそ、ドワンゴという企業の在り方や法的な問題に対する意識の変化からかつての勢いはなくなってしまったが、最初期のニコニコ動画の熱狂は紛れもなく日常系をベースとした精神によって支えられていた。
 簡単に言うと、それは日常の中にあるありとあらゆるものをネタとして消費していくような行動規範である。『テニスの王子様』のミュージカルがあれば替え歌をコメントとして動画に流し、『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるハルヒダンスがあれば国内外を問わずそれを踊っている集団が動画を投稿して人気を博す。言い換えればそれは、「物語」を個的に消費するしかない時代において、すべてのコンテンツをネタとしながら、動画上のコメントで大量の人間と繋がっているという疑似共同性がオタク文化の中心になったということである。

3.
 以上を踏まえた上で、ようやく僕たちは2011年以降のオタク文化という本題に入ることになるが、その前に前述した内容を簡単に整理しておこう。
 ポストモダンの時代においては、誰もが共有できる幻想としての「物語」が機能しなくなり、無数に乱立する「小さな物語」を消費していくことになる。その前提の上で、巨大なものと繋がりたいという欲望からセカイ系の作品が生まれ、その後、より近しく狭い日常の中で充足しようとする欲望から日常系の作品が作られていった。そうしてニコニコ動画の登場以降、すべてをネタ化するという消費行動がより目立つようになっていった。
 言うなればそれは、ゼロ年代という時代がオタク文化にとって極めて「お気楽」なものであったということでもある。すべてをネタ化するということは、言い換えれば単なるネタとして消耗しきれないもの(=代替不可能なもの)が最早残されていないというアイロニカルな感性に支えられているという事実を示しているからだ。さらに言えば、それはネタとして消費できるフィクションの領域と、身体性や生活と結びついた現実社会の領域が分断された時代ということでもある。
 だが、その「お気楽さ」は東日本大震災を契機として、行き詰まりを見せることになる。すべてをネタにするアイロニカルな態度よりも、社会の成員として経験した現実的悲劇を思考することが重視されるようになったのである。このように述べると、すべてを震災に結びつけるのは短絡的過ぎるのではないかという反論が寄せられることも多い。しかし、東日本大震災のみならず、憲法改正の議論、都知事の交代、さらに国外に目を向けた際のテロの脅威、イギリスのEU離脱、アメリカ大統領選挙におけるトランプの台頭といった社会的問題があまりに多く噴出している状況では、「お気楽」な消費が敬遠されるのはむしろ自然なことだろう。

 近年、「オタクのカジュアル化」が叫ばれるのもこうした時代状況と無縁ではない。いささか一般化しておけば、オタクとはマイナーな趣味を共有する共同体であり、必然的に通常の社会的コミュニケーションとは異なる作法が求められる。しかし、マイナーな趣味に耽溺するためには、社会がある程度安定していることが必要だ。したがって、社会的不安がせり上がってきた状態では、人々はもはや自身をオタクという枠の中に押し込めるだけではなく、現実の社会に向き合わざるを得ない。「オタクのカジュアル化」とは、その軽薄な響きとは裏腹に、分断された生の中で疑似的な繋がりを確保しようとしていたオタクたちが、社会不安に後押しされる形で再び個的な生へ投げ出されたという深刻な事態を表しているのだ。

 上述した「物語」における「二重の機能不全」とはこのような事態を指している。まず「大きな物語」が機能不全を起こし、人々は「小さな物語」が乱立する世界を生きることになった。ところが、現実の生における不安や問題が2011年以降にせり上がった結果、「お気楽」な物語消費もまた機能しなくなってしまったのだ。
 つまるところ問題は、そもそもが社会性や政治性と無縁だと一般的に思われてきたオタク文化が、時代の変化によって一定の政治的コミットを必要とし始めたという点にある。ただしそれは、オタクがコンテンツ消費から離れ、唐突に政治活動に参加するような転向を意味しない。そうではなく、虚構に片足を置いたまま、政治と非―政治の分割線を揺るがし、文化の閉塞状況を内側から切り崩す作法が必要なのだ。
 ここから僕たちは、冒頭で述べた岡田磨里の作品分析に入っていく。前置きが必要だったのは、岡田の作品が単にテーマやモチーフを提供するだけでなく、アニメというジャンルそのものが持つパフォーマティヴィティを示すものになっていたからだ。そしてそれは、岡田が持つ時代への鋭敏さによって、少なからず社会的・政治的機能を有しているというのが僕の考えである。


4.
 本論で岡田磨里を取り上げるのは、ゼロ年代から10年代へと時代が映る際、彼女が日常系を歪ませることで時代精神を作中に取り入れたと考えられるからだ。しかし、それは現実の社会問題をアニメのモチーフにしたというような単純な話ではない。そうした作品としては、SNS社会におけるトラブルを描いた「ガッチャマン クラウズ」(2013年)やテロをモチーフにした『残響のテロル』(2014年)があるが、どちらの試みも成功したとは言い難い。
 これについては、記号的な世界に対して、強引に現実の身体感覚を持ち込もうとしたということを失敗の理由として挙げることができる。
 どういうことだろうか。アニメの消費者としてのオタクは、コンテンツを記号的に消費することに慣れており、そこには身体を持った現実とはまったく異なるロジックが存在している。したがって、現実の社会における不安のモチーフとしてテロやSNSを直接的に用いたところで、それは消費者に追体験をもたらすのではなく、安直な記号として処理されてしまうのだ。
 問題点を絞り込もう。僕たちに必要とされているのは、直接的な社会問題・政治的問題の取り込みではなく、アニメという記号的ジャンルの性質を理解した上で、メタ的に外部の問題へアクセスするような技法である。そして、まさに岡田磨里は「凪のあすから」(2013年)と「キズナイーバー」(2016年)においてそれを達成した。端的に述べれば、岡田は人と人の密接な関係性ではなく、むしろそれが切断される状態を肯定的に捉えたのである。

 上述したように、ゼロ年代から10年代当初の岡田磨里を代表する「true tears」「とらドラ!」「花咲くいろは」「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」は、いずれもメインキャラクターたちの絆を重視した物語であり、日常系に属するものとして考えられる。そこで、絆という言葉は常に肯定的な意味を持つものとなっている。
 しかし、震災を経て作られた「凪のあすから」は、逆にその絆を切断することで、人と人の関係の多様性を提示する作品だった。簡単に内容を確認しておこう。

【※以下、凪のあすからとキズナイーバーの作品論、省略。5000字くらいかかりそうなので。とりあえず過剰な絆をよしとするのではなく、それを適度に切断するのが重要だみたいな論旨だと思ってください】

5.
 すでに大塚や東が論じてきたように、日本におけるオタク文化の特徴は、アメリカから輸入された表現の技法を肯定的に捉えていく点にあった。それは少なからず、敗戦以降のアメリカに対する劣等感とも結びついている。
 しかし問題は、すでに僕たちの生きる社会において、アメリカ的なものの比重が小さくなっていることにある。僕たちはグローバル化した世界における問題と、日本国内独自の問題との二重性を抱えており、すでに特定の国家だけを強く意識しているわけにはいかない。
 僕たちはいま、強力な「物語」によってではなく、マイナンバーや検索履歴といったデータベース(=大きな非物語)によって結合されている。しかし、データベースによる結合がオートマティックに行われる社会では、その複雑なシステムを十分に理解しなければ、主体的な生を確立することは難しい。
 かつてマルティン・ハイデガーは科学の飛躍的な発展によって世界が複雑化し、人間が世界像と自己を見失っていく様を「存在忘却」と呼んだ。現在、インターネットが普及し、多量の情報が流れ込んでくる環境において、僕たちの「存在忘却」は一層危機的なものとなっている。

 しかし繰り返すが、オタク的な生にとって、「存在忘却」は社会・政治的実存とだけ結びついているわけではない。むしろ、複雑化する社会・政治的領域に転向することを容易には許さない、記号的実存こそが問題なのである。
 すでに岡田磨里のいくつかの作品で確認したように、そのような生にとっては一種の不感症化や思考停止が求められる。それは様々なサービスを通じてコミュニケーションを行い、絆を深めることを良しとするのではなく、情報や関係を自らの生から適宜切断し、自身にとっての世界の形を再構築することで「存在忘却」に抗うような姿勢である。
 僕はここで、45年から70年までを「理想の時代」、70年から95年までを「虚構の時代」とした大澤真幸と、95年以降を「動物の時代」とした東浩紀の議論を引き受けつつ、2011年以降を「不感症の時代」と名付けたいと思う。
 当然ながら、この「不感症」はネガティヴな意味ではない。むしろ、引きこもりや不登校、SNSの削除といったコミュニケーションからの離脱を肯定的に捉えようとする試みである。「動物の時代」において、オタクたちは自分たちに有益な情報が得られる限りで社交性を発揮し、そうでない場面ではコミュニケーションを拒絶していた。だが、あまりに複雑化しすぎた現代社会においては、有益だと思っていた情報や共同体内のコミュニケーションが致命的な事故として生を傷つける局面も少なくない。そうした中で、意図的な「不感症」となって、選択の失敗におけるリスクを減らすことには大きな意義があるように思われる。
 あるいは、現代における「不感症」とは、自身にとって真にかけがえのないものを守ろうとするからこそ起こる、最も誠実な態度なのかもしれない。

 

 

 

 

 

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