23歳くらいの時にダダ・シュルレアリスムについて書いてたメモ

 ※7年以上前に書いた文章です。今の自分と文体が違うなーということを確認するためだけのメモみたいなもんです。多分、塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』を読んでの書評かなんかを書きたかったんだと思います。


 彼らには闘う機会が与えられていた。その事実は我々に嫉妬と羨望に塗れた眼差しを強制する。人類にとって初めての世界大戦、それが彼らにどれほどの衝撃であったのかを現代に生きる我々が肌で知ることはできない。とにかく、彼らは恐れた。何を。おそらくは、訪れるであろう世界の変革を。 
 ダダは明確な形をとって始まったわけではない。戦争によってもたらされたおぼろげな不安と、それまでの世界を象っていた価値観に対する不信、それをただ乗り越えたいという素朴な願望だけがあった。 
 ダダは攻撃を行なうことに決めた。 
 ツァラは言った。 

 DADA NE SIGNIFIE RIEN (ダダは何も意味しない) 

 何かを肯定する、あるいは何かを否定する。ダダはそのいずれにも属さない。否定することと破壊することは異なる。ツァラによるダダが望んだもの、言語の意味作用を破壊すること。言葉が何も意味しないことを言葉によって宣言すること、それはそのまま言葉という存在を揺さぶる、問い直す。 
 ツァラは記した、『帽子のなかの言葉』 

 新聞を用意しろ 
 ハサミを用意しろ 
 つくろうとする詩の長さの記事を選べ 
 記事を切りぬけ 
 記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れろ 
 袋をそっと揺り動かせ 
 切りぬきをひとつずつとりだせ 
 袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写しとれ 
 きみにふさわしい詩ができあがる 
 今やきみはまったく独創的で魅力的な感性をもった作家とい うわけだ 
 まだ俗人には理解されていないが 

できあがってくるものは文学だろうか。文学を文学たらしめる要素は二つだけだ。文字を使う有効性が発揮されていること、いかなる形であれコミュニケーションの手段であること。 
 ならばダダは。 
 ダダは言葉の体系を破壊する、たとえそれが形式の領域において正しいものであろうと、意味のレヴェルにおいて。ならば、成功したダダはすでに文学ではない。それは我々に意味を伝えずただそこに置かれているもの。 
 ダダは宣言以上の何物でもない。文学とは文化の産物であり、闘争とは文化を破壊するものである。ダダは、文学に馴染まない。それでも文学を志向するものにおいてさえも、ダダは宣言なのだ。自分たちが信じる言語、それは不安定な領域であり破壊されうる領域である、その可能性を提示する存在として。 
 だからこそ、ダダが永遠の存在であることは宣言の瞬間からしてありえなかったのだ。ダダの祝祭、それは起源のあり方からして刹那に終わる運命を内包していた。ダダは集会を行なった、新鮮な驚きをもって。しかし、集会は反復される中で観客に自然な形で受け入れられるようになってしまった。それは最早ダダが何物をも攻撃できなくなったことを意味する。何も意味しないはずのダダは、反復の中で見世物としての意味を持つようになってしまった。 

 少なくとも文学史の上ではダダとシュルレアリスムは接続している。シュルレアリスムもまた攻撃を行なった。宣言を行なった。1924年、チューリッヒとパリにおけるダダの終焉のあとに新しい花を望むように。 
 ブルトンは攻撃した、人間の想像力を閉じ込める理性の檻を。 
 ブルトンは求めた、自由を。そして狂気の開放を喜んだ。 
しかし、シュルレアリストたちが自由を求める時、一体彼らは何に束縛されていたというのか。もちろん、シュルレアリスムは単なる文学、芸術上の運動ではなく、全ての解放を謳う運動であったわけだが、まず彼らがなすべきことは、西洋世界を長きに渡って支配し続けた主体という概念からの脱却であった。シュルレアリスムの代名詞的手法ともなっている自動記述もその目的を達成するための手段に過ぎない。主体の理性を離れたところにある存在、すなわち夢であり無意識、限りなくペンを動かす速度を高めることでそこに到達し、理性が認識しえない言葉を現実に書き表す。この時、夢と現実は弁証法的に昇華され、シュルレアリスムが完成し、人間は解放された世界を知ることになる。 
 速度がV``に達するころには、シュルレアリスムにおけるエクリチュールもまたメッセージとしては機能しない。V``の世界ではただペンだけが走るのであり、そこでは書く主体は消滅している。
 だが、ダダにおける主体の不在とシュルレアリスムにおけるそれとは決定的に異なる。塚原の言葉を借りよう。 

【引用開始】ブルトンたちの夢の記述は、結局、外観としての私が、内面に潜むもうひとりの私にとってかわられる「夢の書き取り」だったわけだが、どちらの「私」も主体の一部にはちがいない。だが、ツァラの場合、主体は、文字どおりバラバラに解体されてモノ(=客体)と化した言語の中で、根絶される。自動記述が、深層の「私」を映す鏡であろうとしたとすれば、ダダの「詩」は言語の屍体置場だったのだ。ダダとシュルレアリスムの根源的な差異は、主体と客体をめぐる、この位相の対立のうちに存在している(p.215)【引用終】 

この塚原の解釈にはいささか疑問が残る。彼は夢の中の「私」を主体の一部として捉えているが、意識としての主体がそれを支配することが叶わぬ以上、それは意思を持たぬ機械に過ぎず、デカルト的主体とは異なる存在であるはずだ。ただ、いずれにしてもシュルレアリスムにおいて、ペンを走らせる行為自体は意識を持つ主体によって行なわれるのに対し、『帽子の中の言葉』からも明らかなようにダダはそもそも書くこと自体必要としていない(当然、ツァラも新聞を切ることを実行させるつもりはなかったはずだ)。その点で確かにダダは屍体置場なのである。 
 そしてダダとシュルレアリスムの決定的な差異を明らかにするために、塚原はバタイユを持ち出す。 

【引用開始】バタイユは、シュルレアリスム(つまりブルトン)と自分との関係を明らかに意識しながらも鷲とモグラ、高いもの(太陽)と低いもの(地下)を対立させてこう書いている。 
  
 ――鷲という概念は、もっとも男らしいものだ。鷲は太陽の輝く空の晴れやかな地帯にまでかけあがるだけでなく、そこに支配者の威信を体現しつつ、永久に位置するのである。 
 ――天空をつらぬいて、天空とその雷火への挑発的敵意をあふれさせて語るブルトン、あまりにも低いところにあるこの現世への嫌悪にあふれて発言するブルトン(……)。 

 いささか図式的になるが、ブルトンは光と太陽へ、あの至高点にむかって上昇する鷲であり、自分は低いもの、汚れたものに、地下の闇にむかおうとするモグラだ、とバタイユは言いたかったのだ。「シュルレアリスムは、しかし、夜と夢の世界をめざすのではないのか」と反論する人がいるだろうが、ブルトンにとって「夜」とは虚無の「闇」ではなく、『宣言』で美しくも語られている「稲妻のきらめく夜」であり、「夢」にしても、無意識の世界を分析するための生産的な装置だったけれども、バタイユの「夜」は、のちに触れるように「死の暗闇」であり、稲妻という言葉も、彼にとっては、たとえば「雨の日に田舎の洗濯場のトタン屋根の上に置き忘れられていた素焼きの便器」(眼球譚)を想い出させるだけなのだ。(p.274)【引用終】 

 この塚原の解釈は新鮮であり、かつひどく刺戟的なものである。バタイユはシュルレアリスムを時期によって肯定も否定もしているが、実際の彼の作品が持つ暴力性や薄暗い屍体にも似た臭いは、ブルトンの目指した華やかな世界とは親和性を持たないように思える。 

【引用開始】考えるのだった。「中に入れば、皆んなは裸の私を見るだろう」壁に寄りかからねばならなかった。コートをひろげて、割れ目に長い指を差し込んだ。苦悩に凍てつきながら彼女は耳をすますのだった。指についたよく洗っていない性器の匂いを嗅いだ。居酒屋の中では騒ぎがつづいていた、それでもやがて静かになった。雨はやまなかった。洞窟のような暗がりの中で、生ぬるい風が雨を横なぐりに吹きつけていた。娼婦の声がもの悲しげな場末の唄を歌っていた。戸外の夜の中で聞くとき、壁でぼかされた重苦しいその声は悲痛な調子を帯びるのだった。声がとだえた。喝采と足で床を踏み鳴らす音があとにつづいた、次いで手拍子のひびき。 
 マリーは闇の中でむせび泣いた。手の甲を歯に押しあて、なすすべもなく泣きくずれるのだった。(ジョルジュ・バタイユ『死者』)【引用終】 

【引用開始】かつて火は、このあやしげな舟からはなれて、色のある指環たちに魔法をかけようとしたことなどなかった。海上の捜査はお香の波間でつづけられている。そのとき人間の意志が生まれたとしても、それはもちろん不意の出来事だとあなたに誓おう。どんなに高い岩礁もそこでは意味のないものではない。星々への道のりは起伏にとんでいる。青い玉にかわっておなじような性質の環がひとつあらわれ、女たち全員をウェストの高さのところでとりかこみ、不幸にして彼女たちを蒼ざめさせてしまう。舟はこのとき、夜の集中する視線から生まれる思いもよらない潮流にのってななめにすすむ。幻想はその手首に手錠をはめられ、それでも理性と狂気とをのがれながら、鐘楼の上を通りすぎる。そして、私の追っている男である私は、大地の筵の上に足をとめてきたことの記憶を、どんなとるにたりない部分まで消しさってしまう。赦し言葉の弦をはって私とつれあうすばらしい美女のかたわらで、テーブルの音楽にあわせて、これからもなんとか生きてゆくために。(アンドレ・ブルトン『溶ける魚』)【引用終】 

剥き出しのダダと夢に浮かぶシュルレアリスム、いずれが優れたものであるかなどという議論はまったく愚かしいものだ。にもかかわらず、現在を生きる我々にこうしたダダがやけに馴染むのは何故なのか。 

【引用開始】「ダダはぼくらの強烈さだ」と叫んだツァラの試みのうちに、われわれが「偽りの豊かさ」を世界と言語から剥ぎとろうとする意思を見出すことが可能だとすれば、神話化と屍体解剖のあらゆる企てに抗して、今こそツァラの真の復権が叫ばれなければならないだろう。(p.196)【引用終】 

 おそらく、この言葉はボードリヤールを通り、現代における消費活動の「偽りの豊かさ」を知った塚原だからこそ紡ぎ出せたものだと私は考える。先進国にとって、今ほど平和で吐き気のする時代はない。正論でありながらどこかうさんくさい言説がメディアを徘徊し、産業資本主義の弊害は欺瞞を纏って市民の群れに身をかくす。言葉はいま砂漠に立っている。文学にしても批評にしても、真っ当であればあるほどそれは郵便的な不安に苛まされることになる。砂漠の中に夢は落ちていない、だからこそ、我々は時に激しい衝動にかられるのだ。欺瞞に満ちた言葉から全ての意味を剥ぎとり、世界を全て屍体置場に変えてやりたいとする欲望は常に我々の横で時を望んでいる。我々もまた闘う彼らなのだ。 

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