僕が詩を書く理由

文字を書くことは嫌いじゃありませんでした。
小学校の時に夏休みの宿題に自分で作った詩集を提出するような思い込みの強い子供でした。
中学に入って最初の国語の授業で先生が、突如として言葉について語り出しました。
先生が情熱を以って語ったのは、言葉というのは人間の感情のドロドロを具体化し、抽象して表現するものであること。
だけど言葉は言葉に過ぎず、人を罵倒する「バカ」という言葉も、“正直ものが馬鹿を見る”を地で行くような真面目な働き者に対して「お前バカだなあ」というときの「バカ」は全く違う意味になる。
それを文字上で判断するには文脈を読む以外に無いのだ、と。
12歳の僕はその教えてに衝撃を受けました。
50歳を過ぎて、むしろ60歳に近い今の年齢になってもその衝撃は消えることがありません。

実は僕は話し言葉に関わる仕事をしてきました。
その仕事を通して言葉の恐ろしさを良い意味でも悪い意味でも実体験してきました。
話し言葉は時に人の人生を変えます。
人生の節目で、例えばある少年が事件を起こし、一晩過ごした留置場に置いてあった一台のラジオから流れてきた曲の歌詞を聞いて、自分を反省し、自分が本当にやりたいことへ情熱を注げるようになった、ということが怒る一方で、誰かに対して向けられた非難を自分のことだと受け取り、執拗にクレームしたり、場合によっては自ら命を断つようなこともありました。
そして阪神大震災や東日本大震災の被災地で避難所生活を送る人々がラジオから届けられる言葉に元気付けられたりしたこともまた事実です。
僕はそんな言葉の魔力に魅了されてしまった一人なのです。

そんな僕自身は、これまで言葉を尽くして生きてきましたが、ある時ふと、言葉と言葉の間にある余韻、文章で言えば「行間」が伝えるものに改めて気づきました。
余韻にしか伝えられない何かがある。
言葉では表現できないsomething。
それをどうすれば作れるのか、それを自分で試してみたくなりました。
コロナ禍で行き詰まった気持ちになった時、なかなか表現しにくいそれを言葉にすることで、昇華させることができるんじゃ無いだろうかと思い立ったのです。
その時にある言葉を思い出しました。
「言葉先にありき」
田村隆一さんの「帰途」という詩があります。
この詩で表現されているのは言葉を覚えることで、人間は喜怒哀楽を身につけたのだということ。
言葉無くしては気持ちをかたちには出来ないのだ、と。
そうです。このことを中学に入って出会った国語の教師は伝えたかったのだと気づきました。

僕の旅は始まりました。
僕の人生の残り時間を考えると、とても少ない時間ではあります。
でもその「言葉の旅」を僕は大切にしながら、この場所に書き綴っていこうと思い、このnoteは始まりました。
多くの人に届いて欲しいと思っているわけではありません。
小さな声で呟いた言葉が聞こえた人に何か感じてもらえたら良いなと思っているだけです。
でも誰にも届かない言葉を発しているだけでは、ますます追い込まれてしまうので、誰かに読んでもらえる「可能性」のあるこの場所に僕の人生で生まれた思いと言葉を残そうと思いました。

いつか僕がいなくなった時に自分の娘がこのnoteを発見して、父親像を改めて結ぶ一助になれば良いとだけは思っています。

でも誰かに読んでもらって反応してもらうことは嬉しいものです。
今という時代に生きていられることに感謝して、何かを言葉にしていきたいと思っています。
ありがとうございました。

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