黄色い線の内側にお下がりください

「え」
「よっ」
 夜の帳は下り切って、街灯も少なくなってきた最終電車を待つ郊外の駅。ベンチに座って缶コーヒーを飲んで夜風にあたっていると、どこで買ってきたのか分からないクラゲ柄の黒いシャツにベージュのトレンチコートを着用し伸ばした髪を括っている丸い眼鏡をかけた男が驚愕の表情でこちらを見ている。
「なんでヨリくんがここに居るの?」
「何でだと思う?」
「……しごと?」
「せいか〜い」
「なんだよ〜ちょっとびっくりしたじゃん」
 何をびっくりしたのかは知らないが、おんなじ街でお仕事なんて中々ないもんね、なんて軽口を叩いているお前に、実はお前がここに来ることを俺が知っていたんだと言ったらどんな顔をするんだろう。多分困るんだろうな。困るのは嫌なのでそれを想像するだけにしておく。でも困ったお前の顔って面白いんだよな。くつくつとこみ上げてくる笑いを噛み締めながら、平静を装ってそうだな、と答えてから、そういえばこいつ今日は帰らない、みたいなことを連絡してこなかったっけと思い至った。
「めずらしいじゃん。一ヶ谷、今日帰らないって言ってたのに」
「う〜ん。遅くなったし、そのつもりだったんだけど」
「なに、フラれたの?」
「フラれてませ〜ん」
 この男はバカみたいに顔が綺麗で、高校から友人をやっているけどバカみたいに女からモテているし、おれの家に居ない時は多分いろんな女のところに居座っているんだろうというのは知っている。戻ってくるときに変な香水の匂いがしたり、女が使ってそうなシャンプーの匂いがするから。
 このまま乗り換えをせずに10駅くらい進むとおれの住むアパートの最寄りの駅に着くものだから、そりゃあここに来るだろうなと思ってた。だって今日お前ははこの街でネタになる情報を集めていたんだろう。あの事件のこととか、あの事件のこととか。それともあの事件のこともあるかもしれない。一ヶ谷はヤクザの情報屋としては優秀だし結構真面目なところもあるからなあ。何をしているのかは、あんまり知りたくはないけど。
「やっぱ夜は寒いねえ」
 首に手を回しながら一ヶ谷がぽつりと言った。スマホの画面からタップして今の気温を見ると8度。冬の寒さよりはだいぶマシにはなったけれど、トレンチコートだけでは流石に冷えるかもしれない。近くの自販機に歩み寄ってホットココアを買う、ガタンと静かなホームに機械音が響く、熱いくらいの缶を一ヶ谷に渡す。一ヶ谷はありがとうと素直にそれを受け取った。
「片付けないほうがよかったかな、ヒーター」
「寒いけど、ヒーターはいらない気がする」
「また寒くなりそうだけど。まあ、そうだよなあ」
「お昼すごく邪魔だから片付けて正解」
「寒かったら風呂入って寝ればいいしね」
 布団の中はあったかいので、とても良く眠れます。お酒を飲んでものまなくても。最近歓送迎会ばっかりでジムに行っていないからお腹がまただらしなくなってしまったから、そろそろちゃんと運動しないとなあと考えを巡らせていると、それを感じ取ったのか「ヨリくんお酒飲んだ?」と一ヶ谷が俺の顔を覗き込む。
「実は電車1本逃して、待ってる間に缶ビールを1本飲みました」
「飲んだくれ〜。太るぞ〜」
「1本だから。1本だけだから」
「明日お休みなら、帰って飲みなおしするんじゃないんですか〜?」
「しないしない。今日はさすがに疲れた」
 ──本当は。別件の捜査に一ヶ谷の名前がリストの中に乗ってて、慌てて周辺を調べ上げて捜査員を誘導して、結局関係ないことがわかってそのリストは破棄されたんだけど、とにかく俺は肝が冷えた。一ヶ谷の名前が捜査に載るのは一度や二度のことではないけれど(その度にどうにか関連性を調べ上げて関連性がないことを提示するし)それでもその度に、どうしようって思うんだ。自分が出来る限りのことはするけれど、でも今の立場じゃ難しい部分が多い。早く立場がほしいって思うけど今の上司の下じゃ到底無理な話だし、でも地道にやっていくしかないから。
「最近ヨリくんちょっと元気ないね」
「そう? 飲み会疲れかな」
「いや、あの。事故の時くらいからなんかぼうってしてる」
 あの事件。どの事件?クロノスの時から、いろんなことがあったけれど。そのこと?もしかしておれが入院していた時のこと?一ヶ谷が考えてることは、良くわかるけれど、時々わかんなくなる時がある。近づきすぎると見えないってやつなのかもしれない。
「それは単に体調が戻ってないからっていうのもあるんじゃないか」
「そうなの?」
「そうだよ」
「それなのにビールを飲んだの?」
「……1本だけな」
「よくやるよね〜」
 社会人としての嗜み。コミュニティが広ければ広いほど、情報は手に入りやすい。円滑に、素早く、好意的にもらうためにはまずは色んな場所に顔を出す。とびきり交渉技能が上手いわけでも顔が良いわけでもないから、こういう努力をしないと渡っていけないから。
「イチ、」
「うん?」
「——おまえさあ」
 カンカンカン、と近くの踏切の音が聞こえる。それは冷たい空気に良く響いていて、ゆっくりと遠くの方から2つの明かりが近づいてくる。
 今までのことを振り返ると、何もかもお前のことを考えていたような気がする。どこまでいってもお前の影があって、おれが光に当たる度にその色が強くなる。近づこうってすると逃げていくから、ここから見守るしかないんだ。隣に居ることだけ許してくれる。
 アナウンスが聞こえる。黄色い線の内側にお下がりください。
「俺のこと好きなの」
 電車が来る、冷たい風が吹く。悲鳴のようなブレーキ音が構内にこだました。
 一ヶ谷は何も答えやしなかった。聞こえなかったのかもしれない。本当は聞こえていたのかもしれないけど、あえて答えなかったのかもしれない。答えがほしいわけじゃないから、いいんだけど。
 一ヶ谷は何も言わずに電車に乗った。おれもそれに続いて電車に乗った。

20180406
せさみ

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