アクアリウム

 水面の光が薄く入り込んで海藻の影を揺らしていた。ぼくは目を瞑って風のように走り去る波動をうけて、ゆっくりとたゆたう。銀色に光る魚たちがぼくの頭上を泳いでいて、通りすがりに、こんにちはと挨拶をしてくる。
 こんにちは、元気ですか?
 うん、元気です。死んでるけどね。
 ぼくは死んだ。死んでここにたどり着いた。ここに来るまでいくつかの夢を見たのだけどあまり良くは覚えていない。それはここに来てから覚えていないのか、来る前に忘れてしまったのかはわからないけれど、ぼくはずっと夢のなかに居るように思えていた。醒めない夢をずっと見てるみたいだと。空には魚が泳いでいて、海藻は風に揺れる木々みたいに茂っている。
 海の底の底の方にもう一つ世界があって、そこには生きている人間はひとりとしていなかった。死んだら天国に行けるって、一体誰が言っていたかな。多分おばあちゃんだった気がするけど、残念ながらおばあちゃんはそちらに行けても、ぼくは辿り着けなかったみたいだった。だってここにはおばあちゃんはいないし、ぼくが生きている間に死んだひとは、どこにも居なかった。ひとの姿はどこにもない。ぼくも、ここの住人と同じようにもしかしたらもう人間の姿ではなくなっていたのかもしれないけれど、それも、どうだってよかった。ぼくはぼくの姿であることに執着はない。
 だって、もう死んでるからね。
 海底の生活はおもったより不便で、水圧とか波とかに慣れるのに時間がかかった。特に嵐の日なんかは特別すごくて、ぼくは「家」と称している海藻の影から動くことができない。それでも、地上よりも遥かに、ぼくはこの海の底の生活に適していた。
 しばらくすると、酸素のない生活というのにも慣れてくる。ごはんのない生活、足のない生活、ただそこに留まるということを繰り返していくうちに、ぼくは何故ここに居るのか分からなくなってきた。死んだことは知っている。けれど何故ぼくはここに居るんだろう。


「エマヌエルさん、手紙がきたよ」
 海の中は重力がないので、その潮の流れに身をまかせていると、誰かが声をかけてきた。振り向くと、それはタコの郵便屋さんの声だった。8本足に手紙をいくつも持っていて、その1つを伸ばしてぼくに伸ばしてくる。エマヌエルというのは、ぼくの名前だ。
「手紙? ぼくに?」
「君宛だ。良い報せだといいね」
 海の中にも手紙は届くらしい。白い封筒に、白い便箋が入っている。受け取った手紙を拡げると、見慣れた言語の角ばった丁寧な文字が並んでいる。
『エマ、そちらはどうですか。こちらは今日曇りだ。頭が痛いのはきっと天気のせいだけじゃないと思う。あの2人がまた喧嘩をしたみたいで、その度に機嫌が最悪になるのは本当に止めてくれないかなって思うけれど、仲が良ければなんとやら、という感じなのかな。エマが生きていたら、また喧嘩したのかな。なんて、考えても仕方ないんだけど』
「……なんだこれ」
 差出人の名前はなかった。誰だっけ。ただ、この手紙の言語はドイツ語であり、それはぼくの故郷の言葉と同じだということは思い出せる。けれど、わからない。この優しく話かけるような文章を書いたのは、一体誰だっけ。


「エマヌエルさん、手紙がきたよ」
 しばらくしてから、またタコの郵便屋さんから手紙が届いた。前と同じような白い封筒に、同じように故郷と同じドイツ語で、見慣れた角ばって丁寧な字。
『エマ、そちらはどうですか。今日は天気がいいので布団を干してみたんだけど、ベランダから布団を落としてしまってアリスがわざわざ持ってきてくれたんだ。アリスはああみえて神経質だし世話をやきたがるところあるよな。そういえばもうエマと寝た布団からは君の匂いはしなくなった。また会いたいよ』
「——アリスって誰だ」
 アリス。アリスというと不思議の国のアリスを連想するけれど、神経質で世話焼きなアリスって、なんだか少しイメージと違う気がする。なんだか妙に腹が立ってくるのは何でだろう。それに、ぼくの匂いと書いてある。もしかしてこの手紙の主はぼくと一緒に生活していたのだろうか。


「エマヌエルさん、手紙がきたよ」
 それからまたしばらくたって、タコの郵便屋さんから手紙が届いた。前と同じような白い封筒に、同じように故郷と同じドイツ語で、見慣れた角ばって丁寧な字。同じ文字。ぼくの名前とそちらはどうですか、という書き出し。封を開いて中身を読む。
『エマ、そちらはどうですか。今日、同僚と一緒に調査に行ったら——君の幻影を見た。偽物だとわかっているのに抗えなかった。本当に、君は居なくなってしまったのか。ねえエマ、俺はエマが(ぐちゃぐちゃになって読めない)』
 ぼくは少し恐ろしさを感じていた。いや、思い出せないことに焦りを覚えているのかもしれない。こんなに僕のことを想っていてくれてるのに、僕は貴方のことを思い出せない。ごめんね。僕はきっと、君にとって大切な人だったのかもしれない。ごめん、ごめんね。何もできなくて。
 だって僕は死んでしまっている。


「エマヌエルさん、手紙がきたよ」
 タコの郵便屋さんは、8つある手紙のうちの1つをぼくに差し出す。
「ねえ。これはどこから届く手紙なの?」
 受け取りながら尋ねると、タコは首をかしげた。
「——さあ? 私はあなた宛の手紙を届けるように言われただけですから」
「誰から?」
「さあ?」
「なんで疑問形なの……」
「いやあ、だって私もわかりませんから……」
 ここに居る人はみんな記憶をなくしてしまったのか、あるいはそういう風に動くよう、AIのようにインプットされているのだろうか。届く手紙はどこから来るか、知る必要がないので知らない、ということだろう。確かに、これはぼく宛の手紙だから、ぼくが思い出すしかないんだろうけれど。
 白い封筒、白い便箋。同じように故郷と同じドイツ語で、見慣れた角ばって丁寧な字。ぼくの名前。
『エマ、そちらはどうですか。最近冷えてきた、夜はとても寒い。寒いよ、エマ』
 ぴり、とこめかみが痛む。
 脳みそがあったであろう部分に電撃が送られて、映像が映った。それはぼくの部屋で、ぼくのベッドで身を縮めて眠っている男の姿。青い髪、すらりとした四肢。隣で寝息をたてている君は、夏なのにクーラーをかけすぎるぼくの部屋ではいつも寒そうにしていた。故郷はここより寒いけれど、この寒さには慣れないんだと笑っていた。
 ねえ、君は誰だっけ。


「エマヌエルさん、手紙がきたよ」
 時間の感覚のない海の生活は、いつだって普遍で、たまの嵐の時だけ気をつければいい。手紙も何度も何度も届いてしまうとそれもまた日常に溶け込んでしまう。でも、ぼくはこの手紙を楽しみにしていたところがあった。名前を思い出せない君が、ぼくの名前を呼ぶ度に全身が震えてしまう感覚が忘れられない。タコの郵便屋さんから同じように受け取って、そうして手紙を開く。
『エマ、そちらはどうですか。今日はエマの夢を見た。俺が熱を出して、エマが看病に来てくれる夢だ。いや、あれは夢なんかじゃなかった。きちんとした、君の偽物だった。わかってる、あれはエマじゃない。エマじゃないんだ』
 ぼくは、いよいよ焦りを感じていた。
 死んだ時のことを、ぼくはもう思い出していた。痛くて苦しくて熱くて。誰かがぼくの名前を一生懸命呼んでいた。ただ、もうなんだか戻るのも申し訳なくて、本当は戻れたかもしれないけど、ぼくは諦めてしまったんだ。ところであの選択をしていたらぼくは生きて帰れたのだろうか。けれどぼくはそれをしなかった。会いたい人はいたけれど、ぼくの勝手で迷惑をかけたのだから、それ相応のことをしないと、今度はそれ以上のことになると思ったから。
 死んだら天国に行くものだと思っていた。地上は苦しくて辛いものだから罰なんだと何かの本で読んだことがあったけれど、ぼくはそういう概念上のことはよくわからなくて、辛くて苦しいのは嫌、楽しいことだけを楽しみたいし、天国はきっとそういうところなんだって。けれどぼくが死んで、魂が辿り着いたのは空の上でも地下でもなくて海の中だった。どうしてぼくはここに居るんだろう。どうして手紙が届くんだろう。どうしてぼくは君の名前を思い出せないんだろう。
 それからずっと待っても、手紙がくることはなかった。手紙が来ないので、ぼくは居ても立ってもいられなくなって、海藻の影から身を乗り出す。すると、通りがかったタコの郵便屋さんがぼくに声をかけてきた。どうしたんだ、そんなに慌てて。
「どこに行くんだい」
「迎えに行く。彼が迷わないように」
「誰かがこちらにくるのかい?」
「うん」
「何故そう言い切れる?」
「だって、あいつはぼくのことが好きだから」
 迎えに行ってやらなきゃ。
 泳ぐという感覚はなかった。ただ前に前に進む。夜の海をかき分けて、恐らく自分が来たであろう道を。何かから声がかかったけれど、ぼくにはそんなもの聞こえなかった。ぼくが聞こえているのは、彼の声だけだった。
 できればこちらに来てほしくないとは思っていた。ぼくは君の幸せを願っていた。だから本当は忘れてほしかったんだ。先にぼくが忘れてしまったようだけど。君からの手紙は、きっと君の祈りの声、本来は届かなかったその欠片を、神様が気まぐれに届けてくれただけだろう。だからぼくは、こちらに来てからぼくがしてきた選択が間違っていたことに気がついた。だってこんなにも、君がぼくを求めてくれているなんて知らなかった。死んでも尚、そこに居ない人間を求めることなんて、ぼくはそういう価値はないんだって思ってた。だけど君は、ぼくのことが好きだから。
「ベネディクト」
 うん。君は本当にぼくのことが、好きなんだね。


 星が振っているみたいに、泡がぶくぶくと水面へ浮かんでいく。月明かりが照らしている貝殻の上に君がそこに居た。青色は水の中ではすこし紫がかって見えて、なんだか違う人のように思えた。
「ベネ」
 声をかけると驚いたような顔で、ベネがこちらを見ていた。ぼくはもう、この人物がベネディクトという名前で、ぼくが一番会いたかった人物で、手紙の主だということがわかっていた。
「エマ、」
「来ると思ってたんだよ」
 ぼくに会いにくるって。本当はそんなことしてほしくなかったけど。でも、寂しいのに嬉しい。
 ベネは申し訳なさそうな顔をしていた。
「怒らない?」
「ぼくが怒れる立場じゃないよ」
「そうだね」
「ぼくが先に死んじゃったからね。怒ってるのはベネの方でしょ」
「——ねえ、エマは何で死んじゃったの」
 死因は多分、出血多量によるショック死だろうけれど。戻ってこれたのに戻らなかったのは、多分、君に
「……怒られると思って」
「怒らないよ。怒らないから戻ってきてほしかった」
「でも、ベネはこちらに来たじゃない」

それもそうだ、と言っているように、ベネディクトは口角を上げて笑った。ぼくらの間には最早壁はない。肉も、空気も、思考も、誰も邪魔をするものは居ない。
 手をのばす、手がふれる。じんわりと、熱が伝わる。こんなものはイメージだ。けれどぼくらはひとつになれる。

 ぼくらはようやくやっと藻屑と一緒に泡となって海の中に、解けて消えた。




 

おやすみベネ。
180418
せさみ



知識とアイディアを振って話を進めたけど、本当に人物に関しての記憶が曖昧で(特にベネディクトに関してのアイディアでファンブル出したのに)わたしは震えてしまった。

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