帰巣

元気だった?と声をかけて、肩の袈裟がずるりと落ちる様子があまりにもチープでおれは思わず笑ってしまった。その時年下の坊主の従兄弟の顔と言ったら、まるで幽霊を見るような顔だったものだから。こういう顔、日輪さんはしてくれなかったなあと残念に思いながらもまああの人は自分のキャパシティを越えてしまう出来事に出会うと思考を停止するきらいがあるから、なんてわかったようなことを頭の端で理論を並べてから、目の前の坊主にニコリと微笑む。多分生きてる間には絶対できなかった顔だろう、こういう笑みを浮かべるのも、もう慣れてきた。
「ほ、誉礼さん」
誉礼さん、と母がおれのことをそう呼ぶので、このかわいい弟分はそうやっておれのことを呼んでいた。親戚の中でも年長の有來のことは有來って呼び捨てのくせに、それより下のおれのことはさんずけなの、なんかちょっと変だとは思うけれど、歳の近い親族同士の馴染みだし、別にそれを気にしたことはなかった。
読経をしているところを邪魔するのは悪かったので、寺院で勉強をしているところを狙って話しかけたらこの様子だ。夜中に枕元に出てたらどうなっていたんだろうか。坊主ではあるけれど、幽霊を見たことがあるかといったらそうでもないと昔聞いたことがあるので、それこそオカルト関係の人間なのであれば、多少の感情は動くのではないだろうか。
宗閑は別段、腰を抜かした、というほど驚いた様子ではなかった。ただ行方不明の人間がいきなり自分の隣に立っていたらびっくりするよね、というような状況。宗閑が一向に口を開かないので、おれの方から語りかける。
「本当は、実家に顔を出そうかなって思ってたんだけど、おれって今行方不明みたいだしこのまま顔を出すわけにはいかない……ていうか職場の人間が死んだって説明したと思うから、一回自分の墓でも見ようと思って来たんだけど」
おれの墓ってあるの?と聴いてはみたものの、頭はいいがおつむが足りないこの坊主の耳にはおれの言葉は入ってきていないようで、ぽかんとおれの顔ばっかり眺めている。
「宗閑。おれの墓は?」
「はか……?」
「おれは死んだって聞かされたでしょう」
「え、でも……」
誉礼さんはそこに居るじゃん、とでも言いたいんだろう。うん、そうなんだよな。おれは死んだのにここに存在してるんだから混乱するのは分かる。当事者のおれだってそう、死んでるのに生きてるように存在しているものだから、いろんな人を惑わしたり、いろんな人に迷惑をかけているなあと思う。でも生きているときも迷惑をかけていなかったかと言われたらそうでもないはずなんだ、人と関わりを持つ限りは、迷惑はかかるもんだろう。そうやって正当化してようやく存在してるものだから、中途半端だと罵られたりするのかもしれない。
しばらくぼうっとしていた宗閑はいきなりはっとしたような表情を浮かべ、そうしたかと思うと太い眉を顰めて誉礼さんはまだ死亡扱いじゃないよ、と言った。
「だから久那家の墓に、誉礼さんはいない」
「そうなんだ」
「行方不明者はね、7年絶たないと死亡扱いにならないんだ。戦争とかじゃない限りは」
へえ、と自分でもわかるくらい無感情な声が出たのが分かった。まだ眉を顰めたままの宗閑は続ける。
「おばさんは、息子が生きてるって信じてるみたいだし、葬式はあげてない」
おばさん、というとおれの母親のことで、息子っていうと、多分おれ自身のことだろう。それは理解できるのに、映画を見ているような感覚に陥った。彼女のことを母親だとは認識しているけれど、それで、それがどうだっていうんだという気持ちの方が大きかった。自分にとっての親はまた別に居ることを知っているし、それが「設定」なのだから、どうしようもない。この動かない感情が、おれの最後の選択の1つの後押しになったのは間違いなかった。だから今もこうして、母親のことを聞いても何の感情も湧かない。だって母親は帰らない息子を待つもの。そういう「設定」だから。
おれがここに来たのも、宗閑が従兄弟の僧侶っていう「設定」だから。
おれは、結構この世界のシステムに関してショックな部分が多かったし、納得出来ることのほうが多かった。自分を正当化するためには、全部なかったことになればいいと思った。結局、この世界を信じている方が勝ってしまったから世界を滅ぼすことはできなかったけれど。それを知りながら生きるのは案外酷なもんだと思った。おれはまだいい方かもしれない。いや、いいも悪いもないんだとおもうけれど、あの場所に居て、普通に生き残ってしまった明松さんや淪さんや清花さんは、これから先どんな思いで生きていくのだろうと思う。それは少し不憫に思う。だって彼らはそれを知ってしまっても、何の力も持てないただの「人間」なのだから。
「今更母親には会えないかなあ」
「どうして。僕には会いに来てくれたのに」
「宗閑はもう"こちら側"の人間じゃないか。瀬尾のときも、草津のときも、恐ろしい化物をみたでしょう? だから宗閑はいいんだよ」
おれは、おれ以外のこういう立場の人間のことを良く知っている。知っているというか情報がよくこちらに流れ込んでくる。だから宗閑が同じようにこの世界のこちら側に足を突っ込んで、それで生きて帰ってきているんだということは、良く知っていることだった。
宗閑は首を横に振った。
「よくわからない」
「わからなくていいよ。わからないままのほうがいいこともある」
そう、知らないままだったらよかったことは、たくさんある。知ってしまって絶望するより知らないまま幸せであるほうが、おれはいいと思う。だから、知らないまま、終わってくれたほうがいいんじゃないかと思う気がするよ。
「今日ここに来たのは、一回全部消してしまおうと思って」
小さなころから変わらない幼い顔面を傾げながら、宗閑は、やっぱりよくわかっていないという顔をした。
「おれね、こういうのを自分の口から言うのはどうかとは思うんだけど、一回死んで、それで神様になったの」
「かみさま、」
「うん。世界を消すことはどうしようもできなかったし、死にきれなかったこともしょうがないことではあるんだけれど。でもこうやって存在してしまったのはしょうがないし、それだったら人これ以上帰らない息子に悩んでも欲しくないし、そもそも久那誉礼の存在を忘れてしまってもらったほうが、これから動きやすいと思うから」
だから全部消してしまおうと思ってやってきたんだ。墓に名前が刻んであるなら、その名前は思い出せない誰かの名前にしたりだとか。そういうことを確認したくてやってきた。世界を終わらせることはできないなら、せめて人間であった頃の久那誉礼は終わらせたら、そうしたら楽かなと思ってさ。
恐る恐る、宗閑が口を開く。
「でもそれって、おばさんの人生を全部否定してるってことだと思うよ」
宗閑のおばさん。おれの母親のこと。
おれは久那雅人と久那由利の間に生まれた子どもで、一人っ子で、勉強には口酸っぱく言われていて、でもそれって植え付けられた記憶で、本当はそうじゃなかったってことだから。
「そうだよ。久那由利の人生は、あってないようなものだ」
「そんなこと、言っちゃいけない」
坊主の眉の皺が濃くなる。
「いくら誉礼さんが神様になったからって、そんなことは言っちゃいけない」
「そんなこと誰が決めたの」
「ここは人の世。誉礼さんがここに居るのならそのルールに従うべきだ」
じゃあその定めたルールを作ったのは一体誰だと思うんだ!と喚き散らしたかったが、別に宗閑を傷つけたいわけじゃなかったので、それはやめた。でもやっぱり心にはもやもやが残っていて、何かしらを言い返すこともできない。ああまた「ニャルラトテップのくせに」とか言われるんだろうか。本当は何もかもをどうでもいいって投げ出してやりたいのに。

結局、年下に言い負かされて、おれは誰の記憶も消さないまま宗閑の元を離れてしまった。

春先の朗らかな風を受けながら、日輪さんの待つ部屋へ歩みを進める。おれはどこにでもいてどこにも居ないから、どこにでも存在をすることができるし存在を消すことができる。だから用意に姿を別の空間から現れることは可能なんだけど、『人間のフリをする』ことを決めた時から、(長距離の時以外は)なるべく人間らしく足を使って歩いてみたりしてる。歩けば歩くほど身体は重たくて、人間の身体ってこんな感じだったっけ、なんてもうよくわからない思考を繰り返している。
一歩一歩進む度に、一秒一秒進む度に、人間らしさを取り入れる度に自分の存在があやふやになっていく。もう考えるのはやめよう。ニャルラトテップらしく人間の醜い部分を愛していけばいいじゃないか!と誰かがおれに語りかけてくる。それもいいかもしれない。でもそうするとおれは日輪さんの隣に居ることはできないような気がして。自分を見失いながら自分を見つけないといけない。

もしかしたら、本当はあの時にこんな姿になるのではなくて、あのまま死んでいればこんな思いはしなくて済んだのかもしれない。おれだけの問題とは別に、恐らく不幸の最大数は少なくて済んだのだろう。別におれは、人を幸せにするための神様ではないから、それでいいんだけれど。でもそれで、なんでおれが心が痛くならなくてはいけないんだと思う時がある。なんで設定上の母親のことを思わなくてはいけないのか。何で設定上の彼らのことを思わなくてはいけないのか。何もかもが嫌になって捨てようと思った世界にどうして存在しているのかって、そんなこと。

「ひのわさん、」

おれが存在しているのは、設定だとしてもあなたが居るからだ。
あなたを殺せないのは、おれがひとりになるからだ。
世界を滅ぼせないのは、おれが負けてしまったからだ。
鳴らない心臓の痛みを抱えながら、生きてるように今日も死んでいく。

20180315
せさみ

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