ホットケーキの夜に


 今日も世界は平和だ。平和すぎるくらいに平和。邪神が世界を滅ぼそうと各略する気配もなければ、狂信者が魔王を呼び出そうとすることもない。目的の為に人は死んでいく過程はあれど、それは日常の中。日常の中で、おれは人間のような暮らしを続けている。たとえば、部屋の電気代を気にして暗闇の中に佇む、とか。カッコイイ言い方しても部屋の隅に置かれているベッドの上でじっとしているということには変わりない。

 こんなはずではなかったと思う。おれは一度死んで、新しい概念としてシステムの一部になった。全部捨てたつもりだったけど神様に拾われて神様みたいなことをするようになって、可哀想だからって神様は全部そのままにしてくれた。おかげさまで今何故だか記憶を受け継いだまま、つまり人間の思考回路を持ったまま、神様に成り果てたのだけれど、今やっていることは朝日が登るのを見て、夕方に日が落ちるのを見るくらいだ。こんなの、多分死んでいるのと一緒。いや、まだ死んだほうがマシだったと思うくらい。
人間をやめたはずなのに人間の生活をはじめて1週間くらい経ったが、なんだかどうにもつまらない。生前もあんまり楽しいと思った記憶がないからこれまでと同じといえば同じではあるけれど、それにしったって人間の生活はつまらないものだ。
 京都で寝込んでいるという南方先生に会いに行っても面会拒絶って感じだし、ていうかむしろ最近はあんまり快く迎えてくれないし、仕事は物語を進めるゲームマスターは忙しいからっていっておれを放っといて別のシナリオ回してるし。結局逃げ出したかったのに物語の一部に組み込まれているなんて、お笑い草だ。結局望みは叶わなかった。これがその罰か。だったら痛いほど効いてるってね。こうかはばつぐんだ。
 罰にしてはとてもぬるま湯だとは思う。もっとハードなものかと思っていた仕事は、これから先ハードになっていく過程を差し引いても、今のところ大したことはない。邪神として人を殺したい!という衝動が無いとは言い切れないが、これじゃあ肩透かしだ。結局おれは、一体何のためにニャルラトホテプになったっていうんだ。
 夕闇の落ちていく頃合い、あの日みたいに雪がちらつく。あの異常気象が終わってまた雪がつもり始めた。また世界がどこかで終わるのかもしれない。別の音無が、あの日のおれ達と同じ結末を迎えているのかもしれない。終わらせるなら終わらせてみろよ、その物語には介入できないが、おれはおれの世界を——

「ただいまー」

 闇の中に、明るい声が鳴っておれはすぐに身体を起こす。まるで主人の帰りを待っていた犬みたいで間抜けだなと頭の端で思っても、身体は勝手に動いてしまうのだ。
 寝室から飛び出して玄関を見ると、ダウンコートをフードまでかぶって鼻を赤くした、日輪さんがそこに居た。抱きしめそうになる衝動をぐっとこらえておかえりなさい、と伝える。日輪さんはちょっと呆れた様子で言い放つ。
「もう、また電気消しっぱなし? 別に気にしなくていいのに」
 赤くなった頬に手をあてると、氷を触っているみたいに冷たかった。
「冷たい」
「雪降ってたしね」
 久那くんはあったかいね。おれの手をとって頬に引き寄せると、いよいよ自分の体温が日輪さんの方に流れていくのがわかる。少し触れ合っただけなのに暗闇に埋め尽くされていた心がほんのりと赤く、色づく。死んでるのにあったかいなんて面白いジョークだ。
 日輪さんは買い物から帰ってきたのか、スーパーの白いビニール袋をいくつか抱えていた。鶏肉、長ネギ、豆腐。鍋かなんかをするつもりなのかもしれない。鍋ですか、と問いかけると冷蔵庫に食材を突っ込みながらそうだよと日輪さんが答えた。
「ちなみに久那くん何食べたい?」
「ほ、ホットケーキ」
「は? 夜に?」
「だって今日はホットケーキの日なんですよ。Twitterで言ってたんですけど」
 久那誉礼の頃に使っていたiPhoneを顕現させ(ニャルラトホテプって本当になんでも有りだな)気まぐれに登録したTwitterのトレンドにそう書いてあった。史上最も日本で寒い日が1月25日だったから、とかなんとか。
 この間食べたあのふわふわのホットケーキが忘れられなかった。あんなに美味しい食べ物、本当にはじめて食べたんだ。
「じゃあ、作ろっか。ホットケーキ」
「えっいいんですか」
「夜ご飯にホットケーキって、足りるかわかんないけど。まあサラダとかスープとか目玉焼きとか載せてもいっか。久那くんも手伝ってね」
「もちろんですよ」
 生まれ持って不器用なので、そんなに手伝えることは少ないけれど。
 神々にとって、料理は嗜好品のひとつだ。何を食べなくとも腹は減らない。死んでるし、そりゃ当たり前か。でも美味しいものを食べるのはいいことだと思う。人間をひとつ理解するのに必要な行為なのだと、ニャルラトホテプのシステムはそう言っている。
 幸いなことに、日輪さんは料理が上手だった。料理だけじゃない、てきぱきと家のことをする。女子力が高いというか、そうやって生きてきた処世術というか。すごいなあ。おれにはとてもできない。
 この間作ったホットケーキ、実は3回目で大成功しただけであとのふたつは焦げまくってた。けれどその3回目でコツを掴んでいたようで、今日は一度も失敗することもなくきれいな日の丸が4つ分。サラダを切って、スープを作って。ものの数十分で夕飯ができあがる。
「すごいなあ、日輪さんは、なんでもできて」
「そんなことないよ」
「タルトタタンも上手に作れてた」
「時間がいっぱいあったからね」
 ホットケーキはホットケーキの味なんだけど、日輪さんが作ってくれたという事実が嬉しくて何倍も美味しく感じる。今日は上手くできたと日輪さんも満足しているようだった。
 今日は何があったとか、今日の仕事の依頼人のこういうところが気になったとか、そういう他愛もない話を日輪さんはしてくれる。おれに何も求めてこない。求めてこられても、今日は部屋に舞ってる埃の数を数えるくらいしかできなかったし。
 一通り食べ終わって、手を合わせる。日輪さんは何も言わずに二人分の皿を下げキッチンに運ぶ。おれもあわてて残されたコップとフォークを流しに運んだ。ただえさえ一人暮らしのキッチンに男2人立つとギュウギュウ詰めになるのに、おれは図体がでかいのでそれが顕著に現れる。日輪さんが小さくてよかった。慣れた手つきで皿を洗うのを見ていると、久那くんはソファに座っときなよ、なんて言ってくる。
「どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
 元々は仕事の同僚で、何度か顔を合わせて、一度クトゥルフの世界に一緒に行ったことがあるくらいだ。そんなに関わりがあったわけじゃない。当時別に付き合っている人も居たらしいし、おれなんかよりふさわしいひとってきっとたくさん居たはずなのに。なんでおれなんですか。そんなのきまっているだろうという顔をして、日輪さんは答える。
「好きだからだよ。久那くんみたいに真面目なひと、おれはけっこう好きなの」
「真面目……南方先生とかも?」
「なあんでここで他の人間の話が出るかなあ」
「あー。すいません」
「いーよ別に」
 日輪さんはううんと小さく唸ったあと、眉を顰めながら答える。
「睦実さんも、まあ好きだよ。真面目だしね」
「ふうん」
「好きな人には優しくするもんじゃん」
「そうなんですかね」
「久那くんが聞いたんでしょうが」
 なんじゃそら、と煮え切らない返事に日輪さんは笑う。だって好きだから優しくしたいっていうのと愛があるかないかはまた別問題だと思うんですよね。と、この間もタルトタタンが焼きあがる時にこういう討論をした覚えがある。結局押し負けて言いよどんだことはいっぱいあるけれども。
 ニャルラトホテプになってから、そんな気持ちは消えてしまったらしい。おれは別に思わない。好きだから優しくしたいとは全く思わないんだ。わからない、おれが人間だった頃からそういう性格だったのかもしれないけれど。好きだから、好きだからこそ。執着のようなものに、もしかしたら近いのかもしれない。おれがおれとして居る理由はそれしか思いつかない。
 優しくしたいとは思っている。これは優しさではない。優しさというのは与えることだと、おれはずっと思っていた。おれは何も与えていない。ニャルラトホテプになって、たくさんの力を手に入れたけれど、何一つ、誰一人に何も与えていない。むしろ与えられてばかり、もらってばかりで申し訳無さを感じてしまう。情けない。こんな化身史上初だ。
 ソファに戻ってきた日輪さんは当然のようにおれの隣に座ってテレビを見る。おれはまた問いかける。
「なんでおれのこと好きになれるんですか」
 まるで女みたいだと思う。女がどういう生き物かは知らないけれど、おれの知っている書物や知識などでは女はたいていこう言うんだ、仕事と私、どっちが好き?って。女々しいのは重々承知だが、立ち込めたこの憂鬱は自分でどう料理すればいいのかわかんないんだ。
 日輪さんはちょっと面倒くさそうな顔をして答えてくれる。
「好きに理由なんている?」
「必要ですよ。少なくともおれには」
 おれは一体誰なんだろうって、思う時がある。音無音無のオリジナルがそうだったように、自分の中にニャルラトホテプを取り込んでいる状態に近いんだろう。自我があるのにけれど力はある。それが逆に苦しい原因なのかもしれない。いっそニャルラトホテプのシステムとして、もう形も何もかもを消してしまえばよかったのかもしれない。神様なのにそれらしくなくて、自我を失えばそりゃいいのかもしれない。けれどおれはもう一度、この人たちを傷つける勇気はない。
 勇気がないんだ、いつだって。だってそれは。
 それじゃあ、おれの罪は。
「めんどくさいなあ。どうした? 今日はオセンチな気持ち? セックスする?」
 この人はほんとうに、気持ちを察するのが上手だ。2人で居ることが多くなって、それは更に強度を増したというか。それでずるずる夜になって朝になって、朝焼けと一緒に有耶無耶になる。
 男にしてはすこし柔らかいその手が、おれの髪を撫ぜる。
「またそうやって、はぐらかして」
「はぐらかしてないよ。久那くんが可哀想だなと思ったから、慰めてあげようと思って」
「今日はそんな気分じゃないです」
「またまた〜〜」
 そりゃ、二日に一度は身体を重ねますけども。あなたとのセックスはそりゃ最高ですけれども。それとこれとは話が別なんですよ。おれがあまりに浮かない顔をしているのが気に食わないのだろう、日輪さんははあ、と一度見せつけるようにため息をこぼした。
「……じゃあ聞くけど。聞いてほしそうだから聞くけど。なんで久那くんはおれのこと好きになったの」
「なんで、ってそりゃあ……」
 色々ある。本当に色々。一番はキスされたから。でもそんなこと言ったら笑われるに決まってるので絶対いってやらない。
「……理由はいくつかありますけど。あなたが、おれを知りたいと言ってくれたから」
「あんなに大口叩いてるんだから、おれは逆にのせられたと思ってるけどね」
「本当は興味本位だったけど、きちんとおれのことを知ってくれた時、あなたがどんな顔をするのかとても興味がある。大事なものから目を逸し続けてるあなたが、真実を知った時になんて言うのか」
「怖いこと言うなよなあ」
「日輪さんはもうわかってるでしょ。おれが『何』なのか」
 これ以上踏み込むと、本当に日輪さんが危ないかもしれない。とは思いつつも煽る気持ちが抑えられない。生きている人間も確かに怖いけど、そんな些細なものと比べるのもおこがましいくらいに。ねえ、あなたの目の前で笑っているのは邪神と言われる存在なんですよ? なんでそんなに平気なフリができるんですか。どうして『おれ』を見てくれないんですか。知りたくないんですか、こんなにおもしろいのに。——でも、何を言ったって届かない。だって彼はきっと、おれが何もかもを拒絶して生きてきたようになにもかもを受け入れて、そうやって生きてきた。
「別にいいよ。久那くんは、久那くんだから」
 ほら。そうやって瞳を綴じて何も知らないってふりをしたままおれの身体に身を寄せる。そうやって見ないふりをして生きてきたんでしょ。知らないふりをして、それでいいって思ってたんでしょ。
「——じゃあ、見てみますか? おれの本当の姿」
 おれの姿ではない、本当の姿。システムとしての姿。おおよそ、邪神と呼ばれるのにふさわしい、見るものが見ると壊れてしまうという恐ろしい姿。ニャルラトホテプに本当の姿なんてないけれど、姿がないということはなんでもあるということ。この身一つで人間一人狂わせるなんて容易い。——そう、日輪さんを殺すのだって、皆方探偵事務所のみんなを殺すのだって容易いことなんだ。
 なのに、そうしないのは。やっぱり好きだからなんですよ。
「なんてね。今の日輪さんには刺激が強すぎますから、またの機会に」
 今日はもう寝ましょうと促すと、彼は頷く。ほっとしたような顔をしていた気がするけど、もうなんだかよくわからなくなってきた。
 この苦しみから解放されるのは簡単だ、いっそ自我をなくしてしまえばいい。ニャルラトホテプというシステムにのまれればいい。でもそうしたくないのは、あなたを傷つけたくないから。
 人間だった頃からの悪い癖だ。つまらないと投げ捨てたいくせに何かが欲しくてすがりつく。ようやく手に入れた「何か」をおれは手放したくない。この気持ちを手に入れられたからこそ、おれは死んでよかったなって思うんだ。ねえ、日輪さん。おれと一緒に生きてよ、なんて口が裂けてもいえないけれど。その時。その時が来たら、あなたはきっと、「いいよ」と言うんだろう。ねえ、言ってよ。お願いだから。

20180126
せさみ

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