あやふやな心臓

 生前より、結婚に憧れがあった類の人間ではなかった。
 そもそも結婚は書類上の契約であり、その書類一枚で違う血族同士が社会的にパートナー承認される、ということ以外に特に感情が湧かない。親戚は多い方だったのでそれなりに結婚式には行ったけど、どれも遠いおとぎ話のようで、美しい白色のウエディングドレスに身を包んだ花嫁は皆とても綺麗で、眩しくて、それを手に入れる気があるのかと言われれば、それはできないなと諦めていたんだと思う。
 そういえば結婚について30を過ぎても両親は特に何も言わなかった。彼らの望み通り薬剤師になった時も、その仕事を辞めた時も、探偵という180度違う職業に就いた時も、彼らは何も言わなかった。おれが何も言ってほしくないと思っていたから、結果的に世界がそういう風になっていたのかもしれないけれど。

 前にも言ったけど、と日輪さんが前置きをして、「久那くんは、もっと色々考えるんだと思ってた」と、はっきりとした口調で言った。パートナーシップに関する幾つもの書類を眺めていたが伏せていた目を起こして日輪さんを見ると、丸い瞳がじっとこちらを見ていた。いつもこの人は主語がなくて唐突なので意図を汲み取りかねるのだが、多分、おそらく、結婚のことを言っているのだろう。
「……おれ、そんな夢見がちに見えますかね」
「童貞だったから、色々憧れがあるのかと思って」
「まあ、そうなんですけど」
 そうだったんですけど。あなたと付き合う前までは。人間を卒業したと同時に童貞も卒業しちゃったってね。なんて、軽く冗談を言いながら書類にまた目を落とした。
「でも今は違いますよ。童貞じゃないし、それに戸籍も用意したし」
「ふ〜ん」
「なんですか」
「なんでも?」
 何か言いたげなのに何も言わないところ。本心を暴くのに1週間かかる人なので、これ以上追求してもわからないとか知らないとか曖昧な返事をするだけだろう。そうですか、と相づちを打って書類の中身を読むことに集中した。日輪さんはつまらなそうにしているのが目の端でも分かった。
「パートナーシップを結ぶメリットって、賃貸契約が結びやすくなるとか、もし日輪さんがICUに入ったりしたらそこに入れるようになるとか、そういうことだと思うんですけど。でも結局おれって、病気もしなければそもそも心臓とか動いていないしそれってつまりは体況とかを説明できないってことになるので、日輪さんのために死亡保険金とかはかけられないんですよね」
 どこから湧いて出たかわからない知識がポロポロと口から溢れる。日輪さんは久那くんって保険のこととか考えるんだあと少し感心したような声を上げた。もちろんおれが保険のことなんて考えるわけがない、これはおれの知識として本当にあるのかわからない部分。それは例えばサーバーに接続をしている状態のような。曖昧な知識、曖昧な存在。居ても居なくても世界は何も変わらないんだと言われているような。そのことは、もうどうでもいいんだけど。
「だから、」
 子孫を遺すためのものでもなく、パートナーのためにできることが増えるわけでもないでしょう。だから、本当は、おれとパートナーシップを結ぶメリットなんて、ほとんど日輪さんには何もないんだよ。とは、口が裂けても言えなかった。それじゃあまるで自分が居る必要はないって自分自身でそう言ってるみたいだから。この人はおれの為にここに生きて居てくれているのに。自惚れかもしれないけれど、幸せの絶頂の時、死んでもいいって言った人間がそれでも居る理由って、おれには良くわからないけれどそういうものなんじゃないかなと、足りない心でそう察するしかない。
「だから?」
「……やっぱ、いいです」
 忘れてください。今言う話ではなかった。今はこのパートナーシップを結ぶための手続きの確認をしているためであって、選択することはもう終わっている。念押しもしたし一度やんわりと否定したけれど、それでも日輪さんはいいよと言ってくれたからおれは何ももう言うべきではない。あまり人の気持ちがわからないから意味もなくあなたを傷つけてしまうので(しかもそれは本意ではないので)口を噤む。何度目かの沈黙に日輪さんは上ずった声でおれの名前を呼ぶ。
「久那くん」
「……なんでしょうか」
「違うでしょ」
「違う?」
「こういう時は何て言うの」
 そうやって、おれのことを試して。
「……わからないんです」
 わからない。人間だった頃から、何が適切な言葉なのか、わからない。わからないかあ、と日輪さんは残念そうに肩を竦める。何が正しいのかは、今は教えてくれないようだ。
 しょうがないよね、と言わない日輪さんがたまに酷く意地悪に見える。人間じゃないしね、とは日輪さんは口に出さない。死んでるしね、人間じゃないしね、神様だしね。まるで生きてるみたいにおれに接してくれるので、おれは生きているフリをするしかないのだ。

20180327
せさみ

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