人は見た目に翻弄される。

僕が大学受験のとき、K塾に通っていた。理由は家から近かっただけなのだが、それは結果的によかったかもしれない。
講師陣がやさしいのもあったが、なによりもテキストがとてもシンプルにまとまっていたことだった。

1ページに1問。とてもシンプルな数式が並んでいる。実践的な問題を解いていく時期のなか、自分の目にはかなりシンプルに映った。しかしいざ挑戦するも、解けそうで解けない。観念して答えをみると、コロっと重要な公式を忘れていた。見た目の簡単さとは裏腹に、重要なエッセンスがかなりシンプルにまとまっている。というか、エッセンスは非常にシンプルであることも同時に実感した。こんなことが、K塾のテキストにはたくさんあった。

このテキストのからくりというか、なぜそうなるかといえば、1つは5人の数学講師で共著をしていることだ。このテキストはそんなに分厚くない上、1ページに1問しか載っていない。よってたかって癖のつよい数学の講師がいろいろ議論を交わしてできたのだろう。数学では構造がシンプルに見えてくることもとても大事なので、問題がシンプルであることは大事なものも見えてきて、とても理にかなっているのである。

受験もすぐそこまで迫っているなか、そのテキストを学校でひらいていると、となりのやつが馬鹿にしてきたことをよく思い出す。「そんな簡単そうな問題、だれでも解けるわ!」と。彼はS予備校のテキストをもっていて、なにやら異常にむずかしそうな数式が自ら難しいと説得するかのように並んでいた。
たまたまK塾のテキストを持っていたのが僕のほかにいたので、二人して「これがけっこう本質をおさえているのだ」と言ってみると彼は引っ込んだが、納得はしていなかったことだろう。しかし、場面が違えば、自分がK塾のテキストを馬鹿にする立場になっているかもしれなかった。

難しい簡単だけの話ではない。あらゆる現実の場面で、見た目や、拙い今までの経験だけで、良し悪しや、面白い面白くないを判断しているかもしれない。

私たちへの自分ごと化がされてないってだけで、面白いものを無視していないか。現状、広告屋である自分に、自戒をこめて。

※自分ゴト化…当事者意識をもたせること。どこかの会社員であれば、俺たちがこの会社を支えている!という意識のこと。広告では、商品を売るとき、ターゲットに「私に関係あるかも!」と思ってもらうことがなによりも重要視される。ともだちとポッキーを11月11日に買うか買わないかを議論していたとしたら、それはもうすでに自分ゴトとして捉えてしまっている。