杉田俊介

批評家。 sssugita@hotmail.com

杉田俊介

批評家。 sssugita@hotmail.com

最近の記事

  • 固定された記事

松本人志についてのノート

(約27500字)  (注1)有料記事になる前に、投げ銭を頂いた方で、その後記事が読めなくなってしまった場合、ご連絡下さい。個別にテクストをお送りします。お手数をかけます。sssugita@hotmail.com (注2)この文章を大幅に加筆修正して、また北野武/ビートたけし論を加え、三本の対談座談を行って、一冊の本として『人志とたけし』(晶文社)を刊行しました。よければ手に取ってみてください。    1  以前、渋谷のシネコンで実写版『ジョジョの奇妙な冒険』を観たあと

有料
500
    • 鬱病虚無日記(随時修正)

      2023年12月11日 心療内科に通院を始める。 12月25日 今の自分の状態が典型的なパニック障害(発作)そのものなんだなと(今さら)知った。自分の場合、糖尿病の低血糖や脱水症状とパニック発作の症状がかなりよく似ているために、自覚が遅れてしまった。二週間前から心療内科で薬はもらっている。ちなみにセルフ認知行動療法というのがあるという。 https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_978.html 12月25日 今まさに「発作への恐怖や不安で行

      • 宮崎駿の神と革命(ノート)――『君たちはどう生きるか』から『風の谷のナウシカ』へ

         ★以下は、学習院大学での講演@二〇二三年十一月二五日のために事前に準備したノートです(ディスカッションを受けて、後日の加筆修正あり)。いつか書かれるべき『ナウシカ論』のための助走用のノートでもあります。ご批判を受けながら時間をかけて書き進めていくつもりです。よろしくどうぞ。(現状約32,000字)  こんにちは。本日はお招き頂き、ありがとうございます。在野で、独学で批評を書いて生業にしている杉田俊介と言います。  まずは個人的な話からはじめます。私はこれまでに『宮崎駿論

        • 徳の低い生について

           二年ほど前(二〇二二年一月)に糖尿病の悪化でダウンし、生活改善のための療養・治療生活を送ってきた。色々と浮き沈みはあったものの、その後はそれなりに安定した生活・仕事もできるようになっていたように思う。マイペースで物書きの仕事も続けてこれていた。むしろ身体的には健康になったかも、と楽観さえしていた(ちなみに、次の著作は『糖尿病の哲学(仮題)』という本になる予定である)。  ところが、今年の九月一〇日、家族と外出中に、脱水症状で倒れて、救急車で運ばれるということがあった。点滴

        • 固定された記事

        松本人志についてのノート

          白石晃士小論

           Jホラー的な恐怖の中心には、陰翳礼讃の「日本的」な恐怖演出や、メディアやテクノロジーを媒介して呪いが感染していく、という無差別性があった。それに対し、一般的にはJホラーの衰退期とされている二〇〇〇年代後半以降の、黒沢清『叫』、清水崇『輪廻』『戦慄迷宮3D』『ラビット・ホラー』、高橋洋『恐怖』などは、Jホラーの「もう一つの臨界点」の可能性を示していた。そこでは「過去のトラウマという迷宮」と「ホラーというジャンルの迷宮」と「映画を観るという欲望の迷宮」の三つの次元が絡み合いなが

          白石晃士小論

          小峰ひずみさんに応えて(せめて、人間らしく)

           小峰ひずみ様  「批評F運動」(https://note.com/bungakuplus/n/n2297cf0e32ef)の中で僕への言及がありましたので、以下、応答します。ちなみに、僕は「群像」二〇二三年三月号の小峰さんの文章(「「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」)を入手出来ておらず、読めていません。あらかじめその点をお断りしておきます。    小峰さんは、資本主義的な剥奪や搾取よりも「からかい」の方が自分にとっては暴力的に感じられる、というようなことを何度か仰

          小峰ひずみさんに応えて(せめて、人間らしく)

          『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(限界研)刊行に寄せて――井上真偽論助走

           *以下は、限界研編『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(南雲堂)の拙稿「唯物論的な奇蹟としての推理――井上真偽論」の助走となる部分である。本来は、以下の二つの章のあと、第三章として井上真偽論の本論を配置する、という予定だった。しかし、助走部分がむだに長くなり過ぎた上に、筆者が本格ミステリ小説のアマチュアだったために、議論を十分に論理的に整理し、展開することができなかった。そもそも規定枚数に圧縮することができなかった。『現代ミステリとは何か』が無事に完成した今、ひ

          『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(限界研)刊行に寄せて――井上真偽論助走

          ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』その他についてのメモ

          (Netflixで『デューン』を観たので、以前Facebookに書いたヴィルヌーヴについての短いノートをこちらにも転送します) 作風が一作ごとにかなり異なるがヴィルヌーヴの作品には次のようなモチーフがあるように思える。「こちら」(人間)と「あちら」(非人間)の交錯と切り返しがあり、そして「あちら」の浸食と雑じり合いによって「こちら」に内的革命が生じる(かもしれない)ということ。 たとえば『ボーダーライン』は、米国とメキシコの国境線のみならず、敵味方や善悪や真偽のボーダーが

          ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』その他についてのメモ

          男性性/ケア/アナーキー(1)

           わたしは20代半ばから10数年ほど、川崎市のNPОで障害者介助の仕事をしていました。また結婚して、子どもが生まれたことを機に、主夫的なことをしながら、在宅でも可能な物書きの仕事をはじめました。障害者介助の仕事から徐々に離れてしまったのは、もちろん色々な要因が絡み合っていますけれども、その理由の半ばまでは、ケアの仕事にバーンアウトした、という感じだったと思います。  たとえば、介助者という主体になることは、ある意味で、主体性を「去勢」されることでした。  去勢とは、次のよ

          男性性/ケア/アナーキー(1)

          村上春樹『女のいない男たち』論の補足(加害と悪について)

          (*)以下の文章は、すでに「現代ビジネス」に公開した二つの文章  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92526(『ドライブ・マイ・カー』について)  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93699(『女のいない男たち』について)  の続きです。  正確に言えば、上の二つの文章の流れから若干逸脱してしまったために、削除した部分です。  なお、映画『ドライブ・マイ・カー』論、小説『女のいない男たち』論の

          村上春樹『女のいない男たち』論の補足(加害と悪について)

          ある被害

          自分の暴力について加害と被害が重層する場所から当事者的に内省していくこと。ずいぶん前から、そういうものを書かねば、と考えていました。二〇一六年刊行の『非モテの品格――男にとって弱さとは何か』の「あとがき」にも書いたのですが、本当はあの本には性暴力論が入るはずでした。しかし、書けませんでした。それから六年近くが経ち、続編の『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』という本も刊行しましたが、そこでもやはり性暴力については書けませんでした。 とはいえそろそろ、さすがに向き合う

          ある被害

          ピクサー試論(二〇一〇年頃執筆)

           ピクサー試論(二〇一〇年ごろ執筆)  ピクサー・アニメーション・スタジオ(以下「ピクサー」)は、これまで、「夢みるオタク的技術者の集団による、革新的な起業の成功」という神話的な企業イメージ(物語)を、戦略的に打ち出してきた(エド・キャットマル『ピクサー流マネジメント術 天才集団はいかにしてヒットを生み出してきたか』、小西未来訳、ランダムハウス講談社、二〇〇九年(原著二〇〇八年)。デイヴィッド・A・プライス『メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々』、櫻井祐子訳、早

          ピクサー試論(二〇一〇年頃執筆)

          ケイン樹里安さん論文読書会用資料

          第2回「対抗言論」読書会を開催します。5月4日(火)の午後2時から4時頃まで(延長あり、途中退出可)、ZOOMを使って行います。今回の課題図書は、ケイン樹里安さんの論考「帝国のタイムライン――「ひろしまタイムライン」とポストコロニアル・メランコリア」です。 https://twitter.com/sssugita/status/1385076285248925698 (NIKEに日本社会の人種差別を批判する「資格」はあるのか?) (【追記あり】いつまで「ブラック企業」と呼

          ケイン樹里安さん論文読書会用資料

          柄谷行人論 1章

           柄谷行人論 1章  人間はどうしてこんなに無力で、こんなに無知なのか。柄谷行人の出発点には、おそらく、そうした問いがある。  無知と無力とは、必要な情報や知識を持っていない、ということではない。十分な地位や仕事や金銭を所有していない、というのでもない。資本主義的な競争を生き延びるための能力が足りない、という意味でもない。この世界の中にこの私が存在していること、存在そのものから無限に強いられる無力と無知である。あたかも自然そのもののような無力と無知。柄谷の批評的な問いがは

          有料
          500

          柄谷行人論 1章

          江藤淳論のためのノート――オトナコドモたちの成熟と喪失

           西村紗知氏が「すばるクリティーク賞」を受賞した椎名林檎論がすでに各所で話題になっているようで、よかった。しかし「よかった」と安心する資格が自分にあるわけでもなく、むしろ自分の姿勢を問われたし、自分の問いを触発された。同賞の最終選考に残った五本の評論のうち、三本が江藤淳の『成熟と喪失――母の崩壊――』(一九六七年)を参照し、母性的なもの、母的なものとの闘争を課題にしていた。男性権力に対するPC的な批判が全盛の今、それはなぜだろう。  twitterでの発言を振り返ってみて気

          江藤淳論のためのノート――オトナコドモたちの成熟と喪失

          庵野秀明についてのノート

           ★以下の未完結の庵野論は、『シン・ゴジラ』公開以前に書いたものです。自分でも書いたことを忘れていたのですが、過去のファイルをサルベージしていて発見しました。約19,000字です。ものすごく実存的な庵野論で、われながら笑ってしまったのですけれども、今どきこういう姿勢でアニメーション作品の評論を書く人間は絶滅危惧種だろう、かえって貴重な面もあるかもしれない、とも思いました。この試論が終ったところから、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』についての批評を書くつもりでした。『シン』公開後に

          有料
          500

          庵野秀明についてのノート