『ファイナルファンタジー』について(1)

 『ファイナルファンタジーⅠ』(1987年)を30年ぶりにプレイして、びっくりした。

 これは歴史の虚無にどうやって打ち克つか、すべてがリセットされてしまう歴史修正の輪廻からいかに逃れるか、という物語だった。つまり、いかにして私たち(プレイヤー)は本当の意味での「歴史」に目覚められるか、という物語だった。そう気づいたのだった。

 君たちが「歴史」に目覚めるためには、「ファンタジー」(ポストモダン/ポストトゥルース的な虚構)を終わらせねばならない。それがじつは、ゲーム内のキャラクターからゲーム外のプレイヤーへと向けられた約束、記憶しえない約束だったのだ。

 シリーズの一作目からして、『ファイナルファンタジー』は――タイトル通りに――ポストモダン的なものの究極だった。ポストモダン批判のためのポストモダンの物語。ポストトゥルース批判のための物語。

 古今東西の物語や神話を寄せ集めて、それらをフラットに並べて、同時代の日本的サブカルチャーの想像力をも寄せ集めて(同時期の『ナウシカ』や『ラピュタ』等をすでに取り込み、ジブリ的なものの色が明らかに強い)、それらを土・火・水・風(そして光/闇)の原理によって体系化すること。そして、ファンタジーそのものをファイナル(終り)へと追い込もうとすること。この体系化がほんとうに見事だ。

 主人公のキャラクターたちは、四人の光の戦士であり、予言の戦士である。彼らの冒険とは、光と闇の神話的な戦いである。しかし、本人たちは自分たちの運命の意味を知らない。物語の終盤で明らかになるように、円環し循環する時の中で、四人の戦士たちは記憶を失ってしまっているからだ。

 冒頭、王様のもとから王女が誘拐される。部下のガーランドが裏切ったという。主人公たち四人は、ゲームがはじまってまもなく、ガーランドを倒して、ぶじに王女を救出する。ここでやっと、オープニング画面になる。

 ところが、物語のラスト近くになると、主人公たちは2000年前の過去(過去の浮遊城)へと遡ることになる。するとそこには、なんと、物語の冒頭、オープニングの前にすでに倒したはずのガーランドが再び登場する。

 じつはガーランドは、予言の戦士たちによって倒された瞬間に2000年過去へと遡り、四人のカオスの力を使って死から復活していた。そして主人公たちを始末するために、四人のカオスを2000年後の未来へと送り込むのだが、その後、ガーランド自身も記憶をなくしてしまい、再び未来へと向かっていく。そして彼もまた同じ運命を繰り返してしまう。そうした時の循環と輪廻の中に閉じ込められていたのである。ガーランドが存在する限り、この世界中の人々もまた、2000年の時の循環の中に閉じ込められてしまう。『ファイナルファンタジー』とは、歴史の終りからはじまる物語であり、あらかじめ終わった歴史の物語だったと言える。

 鶏と卵的なことをいえば、主人公たちが冒頭でガーランドを殺してしまったから、この2000年の呪いの輪廻と円環がはじまったのである。

 ファイルファンタジーの世界の人々がぼんやりと「予言」や「伝説」の中身を記憶しているのは、そのためだろう。世界中のあちこちに「かつて存在した高度な科学文明」の痕跡が見つかるのも、そのためである。あたかもオカルト的な超古代文明説のように、同じ歴史がこの世界では何度も何度も反復されているからだ。

 そして最後に、主人公たちは、諸悪の根源であるガーランド(カオス)を倒すことによって、これまでの2000年の歴史の循環を決定的に書き換えることになる。それは何度も何度もリセットされて2000年前の最初の状態に戻ってしまう歴史修正の輪廻から脱出することである。藤崎竜の『封神演戯』のようでもあり、高橋源一郎の『ゴースト・バスターズ』のようでもあり、ゲームの『SIREN』のようでもあり、スティーヴン・キングの『ダークタワー』のようでもある。

 重要なのは、このゲームをクリアしたときに、ゲーム内のキャラクターたちが、ゲーム内の虚構的歴史を根本的に書き換えた結果として、はじめてプレイヤーである「私たち」の「この現実」が実在するようになったのだ――という「真実」が、ゲーム内のキャラクターたちから、ゲーム外にいるプレイヤーである「君」に告げられる、ということである。
 このあたりには異様なねじれがあり、かなりややこしい。
 つまりゲーム内のキャラクターがいわばゲーム外のプレイヤーに語りかけるのである。じつは、この物語の主人公たち(キャラクター)は、ほかならぬ「君」(プレイヤー)だったんだ、画面の外でゲームをプレイしている現実の君たちなんだ、と。しかし君はそれを忘れていて、かすかな記憶として覚えているだけだ……。

 つまり私たちが生活する「この現実」(プレイヤーの現実)は、循環し輪廻するファンタジーの歴史(キャラクターの現実)を消し去ったあとの世界なのである。ここでは、ファンタジーの現実とプレイヤーの現実とが奇妙にねじれていく。

 永遠の歴史修正(今の言葉でいえばポストトゥルース)を終わらせろ。ポストモダンの冒険はこれで最後(ファイナル)にしろ。そして君たちはその先にある歴史を生きろ。
 ポストモダン批判。ポストトゥルース批判。本物の「歴史」を取り返すこと。それが「ファイナル」の意味なのだ。『ファイナルファンタジー』とは、そういうゲームだったのだ。終わったところからはじまる、ポストモダン・ファンタジーの究極なのである。

 エンディングでは、メッセージが自動的に流れる。それによると、ガーランドは「ささいなこと」で悪にそまったという。そのくわしい理由や動機は最後まではっきりしない。本当にささいなことだったのかもしれない。ささいなことで、ガーランドは悪に落ちた。
 逆にいえば、主人公たちの四つの力もまた、ちょっとしたことで光にもなりうるし、闇にもなりうるということだろう。だから、忘れないでほしい(と、メッセージは続く)。力を正しい方向へと導くように努力することを。すべてのものに光があるように……。

 ガーランドの「ささいな」悪は、永遠にループする非歴史的な輪廻を作り出した。四人の戦士がそれをあらためて歴史修正し、実在する歴史を回復した。そこでは、姫も、ガーランドも(!)、仲良く暮らしているという。そして四人の戦いの記憶自体がなかったことになり、世界中の人々の記憶からも消えていく。しかしファンタジー世界の記憶はかすかに「君」の無意識にも残っている。これまでゲーム内で戦ってきた四人の戦士とは、ゲーム外の実在のプレイヤーである「君」なのだから……。

 人知を超えた神や悪魔ではなく、あるいは邪悪な大神官や悪の帝国でもなく、あくまでも普通の人間としてのガーランドの「ちょっとしたこと」としての「悪」によって、空虚で非歴史的な輪廻が作り出され、人間の歴史と進歩を失敗させ続けてしまう、この世界を永遠に腐らせ続けていく、という点が絶妙に面白い。

 シリーズとしてのファイナルファンタジーの世界には、おそらく、次のような「思想」がある。
 光と闇はじつは敵対しない。光と闇は相補的なものである。闇が恐ろしいのではない。むしろ、光も闇も、そのどちらをも等しく飲みこんでいく「虚無」こそが、本当に恐ろしい。
 人間たちはそうした「虚無」と戦い続けなければならない。……それがファイナルファンタジーシリーズの根本的な「思想」である。

 それは歴史の善悪や真偽を永遠に無意味化していく「虚無」であり、歴史を不可能にする「虚無」でもあるだろう。では、シリーズの中で虚無との戦いはどのように展開していくのか。

 (以上は、一年半くらい前に書こうとして挫折したファイナルファンタジー論の序章に、少し手を入れたものです。)

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