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なんかちょっとアンフェアに語られる「マルチタレント」朝倉未来

賛否両論は、注目の証である。

かの小林製薬は、新商品に関する社内会議の際、商品化に”全員が賛成”だと逆に商品化しないらしい。「反対意見が出ない商品はヒットしないから」というのが、その理由だそうだ。小林製薬が実際にそうかはさておき、ここで言いたいのは「賛否両論は、注目の証である」ということである。

今(2023年8月時点で)、賛否両論の称号を欲しいままにしているのは、朝倉未来である。その賛否両論っぷりたるや、一時期のホリエモンほどの勢いがある。最近では、敗戦した朝倉未来について魔裟斗が「色んなことやってたら勝てない」と述べたことに対し、ダルビッシュが「古臭い発言をするOBたちがキモい」とコメントするなど、賛否両論の場外乱闘(賛否は常に場外で行われている気もするが)が行われているほどである。

しかし、私は彼に対する賛否を述べる前に、彼が「稀代のマルチタレント」であるという点を、いったん皆で共有すべきではないかと思うのだ。なんというか、星野源、大泉洋、朝倉未来、みたいな。

で、例えば星野源についていうなら、「星野源が好きか嫌いか」は、あまり争点にならない。いや、「星野源が好き(あるいは嫌い)」という人は、実際のところ一定数いるのだが、しかしそれよりも、彼が関わっている”楽曲”だったり”ドラマ”だったりが評価の対象になっている気がする。「星野源そのもの」が評価の対象になることは、あまりない気がするのだ(うん、なんだか大泉洋については雲行きが怪しいのであえて割愛)。

そう考えたら、朝倉未来も同じマルチタレントなのに、彼についてだけ「朝倉未来が好きか嫌いか」を論じるのは、アンフェアというものではないだろうか(彼の過去がアングラだったからといって、彼をアンフェアに語っていい、ということはないだろう)。朝倉未来のマルチタレントっぷりは、ぱっと思い浮かぶだけでも、「格闘家としての朝倉未来」「YouTuberとしての朝倉未来」「ブレイキングダウン運営者としての朝倉未来」である。せめてそこは分けて論じようじゃないか。

いや待てよ。星野源について、「歌手としての星野源が好き」とか「俳優としての星野源が好き」という人がいるだろうか。たぶん一定数いるとは思うが、それよりも「星野源の『恋』が好き」とか「星野源が出ている『逃げ恥』が好き」みたいな形で語られることの方が多いのではないか。であれば、朝倉未来についてだけ、「格闘家としての朝倉未来が好き」って感じで語るのは、まだアンフェアな気がする。

うん。たぶんこうだ。

マルチタレント朝倉未来については、「朝倉未来のあの試合が好き」、「朝倉未来のYouTubeのこの企画が好き」、「ブレイキングダウンの、あの小競り合いが好き」(あんなに”とっぽい”人が沢山出るのに、なぜかあの場には「朝倉未来がムカつきます」って人は出ないのだが)という形で語ろうではないか。

待てよ。当の朝倉未来本人は、「自分をフェアに語ってもらいたい」と思っているのか?この世の中がそもそもアンフェアなことなんぞ、朝倉未来にしてみたらとっくの昔(彼が少年院に入ったときくらい)から分かっていることでは。むしろ彼は既に、そんなアンフェアな評価の”向こう側”で生きていたりして。だとすると、彼にとっては自分に向けられる今の賛否両論なんて、「あー、またっすか(笑)」くらいの感覚なのかも。

彼の独特なあのハニカミ笑いは、「平等平等」言いながら、その実、全く不平等なこの人間社会について「笑うしかない」という心境の表れなのかも知れない。…って、考えすぎか。

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