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上海の生活で学び心がけていたこと

四海兄弟(しかいけいてい)
→ 礼儀と真心をもって人に接すれば、世の人々は兄弟のように親しくなれるということ。

礼儀と真心をもって接することで、親しくなれるということは本当にそのとおりだと思う。

私は20代の後半で上海で生活をするという選択をしたのだが、当時を振り返ると思い出したくない経験もたくさんしたが、今ではやはり行ってよかったと心から思える。

といっても、私が本格的に上海にいたのは、2011年3月あたりから2013年5月の2年と少しの期間だ。

そのときにどんな経験をして、なぜ親しくなれるということに対して肯定的なのかを想い出を振り返りながら書いていこう。

上海進出を決めた理由

私の社会人生活は某ベンチャー企業からのスタートだった。

何度か書いているが、今や貸会議室業界の圧倒的最大手となってきる企業だ。

そこで、子会社の社長をやらせてもらったり、新規事業の立ち上げなど、なにもなかった私に多くのチャンスをくれた企業で、今の私があるのは、間違いなくそこで得た経験が活きている。

ヨイショでもなんでもなく、本当に感謝している。

そんな様々な経験を積ませてもらった中で、3本の指に入るのが冒頭に書いた上海進出を任せてもらったことだろう。

なぜ、上海だったのか。

それは、私の上海に拠点をつくりたいというワガママを許可してくれたことから始まった。

もちろん、そんな絶対的な権限があったわけではないが、アジア圏の進出において、他の都市でやりたいと熱量を持って説得すれば、上海以外のエリアへの進出もできたと思っている。

当時の私は、20代半ばで子会社の社長も経験させてもらい、イケイケだった。

今振り返ると、急成長しているベンチャー企業の中にいて少々勘違いした本当にイタいヤツだったと思う。

自分の力ではないのに、いきがっている状態なのは手のつけようがなく、海外でもいくらでも活躍できると考えていた。

そして、そのころに海外経験をしたことがある人たちの中で、中国でのビジネス展開は本当に難しいと聞くことが圧倒的に多かった。

そんな中、中国の中でも有数の大都市である上海での話を頻繁に聞くことがあったので、だったら私がやってやろうじゃないかという気持ちが芽生えていった。

なんの根拠もないのに、私ならできるというよくわからない自信のもと、飛び込んでいくことを決めたわけだ。

上海へ行くにあたって準備したこと

イケイケとはいえ、言葉も話せない私が1人で上海へ行くほど無謀ではない。

ということで、一緒に行ってくれる人を集めることから始めた。

採用を始めると、ありがたいことに多くの人たちからの応募があった。

中国人が圧倒的に多かったが、日本人で中国語がネイティブでといった人たちもいて、そんな中から1人だけ採用をさせてもらった。

それが2010年の年の瀬にかけてのことだった。

そこから、一緒に少しずつ上海へ行くようになるのだが、最初はウィークリーマンションのようなところを借りて、1週間程度行っては日本に戻るという生活が始まった。

というのも、中国は就労ビザがなければ14日間しかいることができなかった。

今はどうか知らないが、おそらく変わっていないと思うのだが、いわゆる観光で行く場合などは、2週間程度しかいられないということだ。

と書いていて思い出したのだが、一度だけ空港でヒヤヒヤした経験がある。

それは、確か10日前後の滞在だったと思うのだが、アポイントが増えたり悪天候が重なって14日ギリギリの滞在になったときのことだ。

上海は、虹橋空港と浦東空港という2つの空港があり、虹橋空港は日本でいうところの羽田空港、浦東空港は成田空港といったイメージだ。

私は浦東空港を使うことが圧倒的に多かったのだが、そのときも浦東空港から日本へ戻るスケジュールだった。

なんとなく慣れてきた浦東空港のイミグレを通過するときに、止められたことなど全くないのに、空港職員に止められた。

私のパスポートを見ながら言われたのが、Over stay.(オーバーステイ)の一言だった。

一瞬頭が真っ白になって、いやそんなはずはないと必死にジェスチャーをしたと記憶している。

ギリギリだということを主張していると、3人、4人と空港職員が増えてくる。

まだ日本の往復も数回目だったこともあり、別室に来るように言われたその状況にとても動揺したことを覚えている。

結局、別室に連れて行かれたのだが、話をしているうちに大丈夫だということになって開放されたのだが、肝を冷やした経験だ。

そんな感じで、上海での生活が始まっていった。

上海生活が始まった当初のスタンス

上述したとおり、2011年3月中旬くらいまでは、ホテルに宿泊したり、ウィークリーマンションを借りたりといった状況だった。

そして、貸会議室事業のブランチをつくりに行っているので、出店する物件を探しているのだが、なかなか見つからない。

何度も往復しているうちに、本当に出店できるのだろうかという不安も募っていく中、ようやくいい感じの物件が出てきた。

その物件の契約を進めると同時に、自分たちが住む家も決めた。

本格的に上海での生活が始まるのだが、当初の私は本当に勘違いをそのまま上海に持ってきていた。

なにをやるにも日本ではという基準が邪魔していて、それが態度に出ていただろうし、もしかすると言葉にも出ていたのかもしれない。

そんな私の態度を見かねて、採用して上海に一緒に来てくれた中国人に言われた一言は今でも鮮明覚えている。

ここは上海なので、上海のやり方を受け入れてください。

日本のことわざの中に、郷に入れば郷に従えというものがあるが、まさにそれと同じことを言われたのである。

私はどこか自分で日本での成功体験をそのまま持ってきていて、それがどこでも通用すると勝手に思っているというのである。

中国語も話せないし、文化もよくわかっていない人が、どうやって上海で順応していけるのかを問われたときに返す言葉がなかった。

というのも、採用してついて来てくれた中国人は、日本人と言われても遜色ないくらいのキレイな日本語を話し、日本での生活も全く問題なく順応できていた。

どこか上手くいっていない私がイライラしていたことも見透かしていたのだろう。

そこから、私は態度を改めることにした。

彼女がいなければ、私の上海での生活が2年ももたなかったのは言うまでもない。

自分は何者でもないというスタンス

こうして、いきがっていた植田 振一郎の態度は一変した。

自分中心で考えていた態度を改めて、人の話をよく聞くようにした。

それも日本人ではなく、中国人のいうことをしっかり聞くようにして、もちろん聞き取れないので、なんと言っているのかをその都度聞くようにした。

当たり前なのだが、私の考え方や基準が通じる世界ではない。

そして、いくら私がそんなワガママを主張したところで、なにも変わらない。

となると、私自身が変化していくしかないのである。

これが順応していくということで、私がプライドを全く持たなくなったところにも通ずるかもしれない。

自分が合わせることで物事が上手く進んでいくのであれば、そうすればいいだけだ。

それなのに、アイツの言うことを聞くくらいならとか、中国人はといった具合いに、なぜか外国人を下に見るような傾向がある人が多い。

偉そうに書いているが、かくいう私も、以前は完全にそっちの立場の人間だったことは素直に認めようと思う。

自分は何者でもないというスタンスに変えてから、急速に上手くいくことが増えた。

今の私が、いついかなるときにどこでも順応できるという自信があるのは、この上海での経験はとても大きいと言い切れる。

まとめ

小さなプライドを捨てていくことで、物事は円滑に進んでいく。

このことはくり返し伝えているが、郷に入れば郷に従えというスタンスもしっかりと頭の片隅に入れておいたほうがいい。

自分の物差しがいつでも正しいと思うのではなく、柔軟に構えておくことで、それが礼儀に繋がることがあるということだ。

なんども同じことをくり返し主張するが、私にとっての最低限のマナーが、この小さなプライドを捨てることと郷に入れば郷に従えというスタンスだ。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。