見出し画像

ドミノ・ピザが日本で成功した理由

光芒一閃(こうぼういっせん)
→ 事態が急激に変化すること。

事態が急激に変化することは往々にしてあり得る。

それは良い方向にも悪い方向にもである。

とはいえ、ネガティブな悪い方向に急激に変化する話をするよりも、ポジティブに良い方向に急激に変化する話の方が、モチベーションのアップに繋がるだろう。

ということで、最近聞いた話を紹介しよう。

日本のフードデリバリー文化のパイオニア

タイトルにドミノ・ピザの名前を出しているので、ネタバレしているのだが、日本にフードデリバリー文化の基礎を構築したのは、ドミノ・ピザだということは意外と知られていない。

今や誰もが一度は利用したことがあるであろう、ピザのデリバリーサービスだが、日本で始まったのは1985年9月に遡る。

ドミノ・ピザが東京の恵比寿に1号店を誕生させたことがきっかけだ。

当時の日本は、1人あたりのチーズ消費量がヨーロッパの20分の1程度で、ピザも今ほど人気の料理ではなかった。

そんな状況から、ピザは日本では受け入れられないという見方が大多数だったという。

そんな周囲の声をよそに、ドミノ・ピザは焼きたてのピザを30分以内に届けるというサービスを打ち出し、またたく間に消費者のハートを掴んだのである。

まさに良い方向に急激に変化した事例に最適といえる、急成長をしたビジネスに着目していこう。

ドミノ・ピザを日本に持ってきた男

上述した書き方だと、日本に初めてピザを持ち込んだのがドミノ・ピザだと思う人もいるかもしれないが、そうではないことは明記しておこう。

ドミノ・ピザが1号店を開店したときには、大手商社がすでにいくつかのピザ業態を展開していた。

三菱商事とキリンホールディングスがシェーキーズを、住友商事とアサヒビールがピザハットをといった具合だ。

すでにマクドナルドやKFC(ケンタッキーフライドチキン)は日本でも成功を収めており、ファストフード文化であるピザを通じてビールを売ろうという意図が見て取れる。

そんな状況の中、ドミノ・ピザを日本に持ってきた1人の男がいる。

その男の名は、アーネスト・M・比嘉という。

以下、比嘉氏と書いていくことにするが、彼がドミノ・ピザに関わった理由は至って単純だった。

あるとき、ビジネス誌でトーマス・モナハンという人物の記事を読んだそうだ。

彼はドミノ・ピザという宅配ピザのチェーン店を立ち上げ、1983年に野球チームである、デトロイト・タイガースを当時史上最高額の5,300万ドル(約71.5億円)で買収したという。

比嘉氏は、ドミノ・ピザなんて聞いたこともなかったのだが、上述したとおり、マクドナルドやKFCがすでに成功を収めている日本で展開できたら面白いと考えたのである。

そして、ドミノ・ピザの本社のあるアナーバーに行く機会が訪れた。

比嘉氏とトーマス・モナハンはデトロイトの中心地にあるタイガー・スタジアムで落ち合うことになっていたのだが、そこはあまり治安の良い場所ではないので、ちょっと心配していたという。

そんな中、車で迎えに来てくれると思っていたところ、空からドミノ・ピザのロゴが入ったヘリコプターが来たそうだ。

そのヘリコプターでアナーバーの郊外にあるドミノ・ピザの本社に連れて行かれたときに、このビジネスはなにか特別なものがあると胸が踊ったと比嘉氏は語っている。

ドミノ・ピザの規格外の成功

どのくらいドミノ・ピザが成功していたかというと、トーマス・モナハンはクラシックカーのコレクターで、本社には400台のクラシックカーを飾っていたという。

1,400万ドル(約18.9億円)のブガッティなどが並んでいて、トーマス・モナハンは比嘉氏に宅配ピザでこれだけのものを手に入れたと語ったそうだ。

他にも、トーマス・モナハンはフランク・ロイド・ライトの作品の世界有数のコレクターで、本社の周りにはフランク・ロイド・ライトが建築した家が数軒保有していた。

さらに、個人所有の島やドミノのロゴが入った社用ジェット機、社用ヨットも当たり前のように保有していて、これらはすべてドミノ・ピザの宅配ビジネスのおかげだという。

比嘉氏がモナハンと話したその年に、ドミノ・ピザは1年間で1,000店舗をオープンしていた。

この出店スピードは外食産業では記録的なことなのだが、モナハンは40代にも関わらず、経営陣の平均年齢は27歳だったという驚愕の事実もある。

比嘉氏には、若い経営陣たちは毎日パーティを開催しているようだったが、それでも事業は成長し成功しているように見えた。

それで、私もこの事業を日本に持ってきたいと心から思ったという。

正直、あまり深く考えずに、そういう理由からやろうと思ったと比嘉氏は当時を振り返っている。

日本のピザ事情

意気揚々と日本に帰ってからピザの市場について比嘉氏は調査を行った。

アメリカでのドミノ・ピザの成功に興奮していたものの、日本は全く異なる市場なので、いかがなものかと調べていくうちに既存のピザチェーンは成功していないことがわかったという。

その理由を突き詰めると、単純に日本人はピザが嫌いということだった。

1人当たりのチーズの年間消費量がアメリカでは11〜12kg、ヨーロッパでは20kg台であるのに対し、日本は1kg以下だったことが大きなポイントだった。

ただし、成功のポイントも見えていたという。

日本のシェーキーズやピザハットのような既存のピザチェーンとドミノ・ピザが決定的に違っていたのは、デリバリーだった。

ドミノ・ピザが日本で成功した理由

ドミノ・ピザがなぜアメリカで急成長できたのかを分析した結果、宅配ピザの会社ということにたどり着き、デリバリーの部分が重要だと思い直したそうだ。

日本には伝統的に出前という文化があり、ラーメンでも寿司でもなんでも出前を取ることはできる。

だから、比嘉氏は日本人はピザは好きではなくても、宅配の部分は問題ないと感じたという。

そして、宅配ピザを日本で成功させるカギはローカライズだと考えた。

既存のピザチェーンの問題は、日本市場向けにローカライズされていないことをオーナーのトーマス・モナハンに訴えた。

ところが、トーマス・モナハンはローカライズの重要性をよく理解していなかった。

そんな中、比嘉氏はこれまでのやり方を変えてローカライズに注力したという。

まず、馴染みのあるトッピングを用意すれば、ピザが好きではない日本人の消費者にも注文してもらえるのではないかと考えた。

それで、イカ、照り焼きチキン、ナスなど、アメリカでは思いつかないようなものを用意し、ドミノ・ピザを成功させるために日本市場向けに変えたのである。

他にも3つ徹底したことがあるという。

  1. 品質を重視

  2. カスタマーサービス

  3. 常に商品を新しくし種類を増やすこと

アメリカでは顧客満足度を高めるためにサイズを大きくするが、日本ではそんなことは求められていない。

また、アメリカではお客様は王様ということわざに対して、日本ではお客様は神様という言葉がある。

それに対して、配達ドライバーがピザを配達するときにお辞儀するといったことをサービスマニュアルに加えた。

加えて日本の消費者は飽きっぽいので、定期的に新商品を出すことを徹底したそうだ。

ドミノ・ピザから学んだ信条

1985年9月30日に東京の恵比寿にドミノ・ピザ1号店がオープンした。

デリバリー専門店なのでお店は裏通りにあって、面積は19坪ほどで家賃も安かったという。

ドミノ・ピザがどれくらい成功していたかをわかりやすく数字で表してみる。

駅前の好立地にあるファストフード業界の平均売上は、マクドナルドでもKFCでも600〜700万円/月くらいだった。

これらのファストフード店は座席が必要なので、店舗は大きく当然家賃も高くなる。

一方で、ドミノ・ピザには席がない。

それにも関わらず、平均3,000万円/月の売り上げがあったそうだ。

ところが、バブルが崩壊すると、チラシを配って集客していたビジネスモデルに限界を感じたという。

そこで、Webサイトを開設するといった具合にチラシやテレビCMからデジタルマーケティングにいちはやく乗り出した。

それが功を奏して、アプリ展開もはやかった。

そんな成功を収めた比嘉氏の信条は下記のとおりだ。

グローバルに考え、ローカルに行動する。ただしネイティブにはなるな

まとめ

こういった話を聞くと、モチベーションが上がるという人も多いだろう。

けれども、だからといって再現性は著しく低いことに気づかなければいけない。

自己啓発系の話につきものなのだが、時代背景や環境が今と40年近く前では全く異なるから、同じやり方を採用しても意味がない。

けれども、マインドの部分では参考になるところはある。

また、歴史を学ぶことから得られる大切なこともある。

ドミノ・ピザが日本で成功した理由も知っているのと知らないのでは、どちらがいいかは明白である。


【Twitterのフォローをお願いします】

植田 振一郎 Twitter

株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。