書くこととは自分と向き合うことと見つけたり

「読書はアウトプットするまでが読書だ!」ということで、
普段全く文章を書くことに縁がない私が、
元電通のコピーライターで青年失業家の田中泰延さんの著書
『読みたいことを、書けばいい。』を読んで、
泰延さんのライティングメソッドを独断と偏見でまとめてみた。

まずは、本書はこのような流れで構成されている。

第1章 なにを書くのか= WAHT
第2章 だれに書くのか= WHO
第3章 どう書くのか = HOW
第4章 なぜ書くのか = WHY

このnoteでは、実際にどう書くのかという第3章にフォーカスしていく。
他の章が気になる方は下記のURLで本書を購入していただきたい。

くれぐれもこの本を163円で売られている中古品ではなく新品を購入しよう。
電子版ならすぐに読めて紙の本よりもお得に購入できるという。
さらにプライム会員ならなんと翌日には届けてくれるらしい。

どう書くのか その1

まず前提として書かれた文章はおもしろいものでなければ読まれない。
そのために最低限自分がおもしろいと感じることが必要だ。
これは本書のタイトルにもなっているキモとなっている部分だ。

それでは、つまらない人間にはどのような特徴があるか。
泰延さんが定義するには下記のようだ。

つまらない人間とは何か。それは自分の内面を語る人である。

逆におもしろく感じる人とは、

少しでもおもしろく感じる人というのは、その人の外部にあることを語っているのである。

泰延さんが例に挙げる、ブロッコリーが嫌いな女の場合、

つまらない人間:「あたしブロッコリーすっごく嫌い」→ 知らんがな

おもしろく感じる人間:「ブロッコリーのこの嫌な臭いはイソチオシアネートが主成分なんだよね」→ イソチオ・・・・・・もう一回言って?

ここではイソチオシアネート強度の高い事象の役割を担っている。
つまり聞き手が興味を持ってもらえる、
会話に参加したくなるような事象が必要とのことだ。

報告が下手な新入社員が「事実と意見を分けて」と先輩社員に怒られるのは、
まさにこの点をついていたのだ。

どう書くのか その2

物書きは「調べる」が9割9分5厘6毛

ここでの気づきは、厘のあとって毛という単位なんだということと、
5厘6毛って刻みすぎやろ!とツッコミたくなった。
この本にはこのようなツッコミたくなるところが他にも306箇所くらい
散りばめられている。

大阪人であればツッコまなければ死んでしまうので、
気づかないうちに会話に強制参加させられる恐ろしいシステムだったのだ。
ちなみに私は大阪人ではないが、どちらかというと関西よりの三重県出身だ。
なのでツッコミレベルは大阪人の足元にも及ばないので、ご容赦願いたい。

まじめな話に戻ると、なぜブロッコリー嫌いな女のような
内面を語ってしまう人がほとんどなのかというと、
日本の教育現場がその一因を担っていたようだ。

泰延さんは書くことにおいて一番ダメな方法が、
日本の教育現場ではまかり通っているという。
それは、なにかを鑑賞して「ハイ!感じたことを書きましょう」と
感想を書く方法である。
一見、豊かな情操教育だと思わせるが「内面」の吐露に過ぎず、
つまらない人間養成所と化してしまっていたのだ。

書くという行為において最も重要なのはファクトである。
ライターの仕事はまず「調べる」ことから始める。
そして調べた9割を棄て、残った1割にやっと「筆者はこう思う」と書く。
(中略)
調べもせずに「文章を自分の表現をする場だ」と思っている人は、
ライターというフィールドでは仕事をすることができない。

泰延さん曰く、読む人が主役となるような文章構成が必要なのだ。
確かに結婚式で主役の新郎新婦を差しおいて、
ガンガン自分の話をする親友スピーチがあったら興醒めだな。

調べたファクトが主役。
自分の意見は最後にアクセントを加える青のりのような存在でありたい。

どう書くのか その3

泰延さんは、WikipediaやYoutubeを見たのでは調べたことにならないという。

ネットの情報は、また聞きのまた聞きが文字になっていると思って間違いない。

では調べるとはどういうことか。
下記は泰延さんが実際に滋賀県からの依頼で受けた仕事だ。

秒速で1億円稼ぐ武将 石田三成
〜すぐわかる石田三成の生涯〜
https://mitsunari.biwako-visitors.jp/column/

これは2018年度の東京コピーライターズクラブに開催されている
日本広告コピー史上最長の「コピー」である。

これを書くにあたり、下記の参考文献を参考にしているそう。

●参考文献
『大日本古文書. 家わけ十一ノ二』(東京帝国大学文学部史料編纂所編 1927年版)
『常山紀談』湯浅常山(百華書房 1908年版)
『萩藩閥閲録』(山口県文書館編 1986年版)
『日本戦史 関原役』参謀本部編 (元真社 1893年版)
『武功雑記』 松浦鎮信 (1903年版)
『武将感状記』 熊沢淡庵 (三教書院 1935年版)
『明良洪範』 真田増誉 (国書刊行会 1912年版)
『邦文日本外史』 頼山陽 (真之友社 1937年版)
『武功夜話』吉田蒼生雄(訳注)(新人物往来社 1987年版)
『近世日本国民史』 徳富蘇峰(講談社学術文庫 1981年版)
『武将列伝 戦国終末篇』海音寺潮五郎(文藝春秋新社 1963年)
『関ヶ原』司馬遼太郎(新潮社 1966年)
『石田三成』童門冬二(学陽書房 2008年)
『悲劇の智将 石田三成』(宝島社 2009年)
『戦国武将シリーズ 謀反なり!石田三成』(GPミュージアムソフト 2011年)
『新装版 三成伝説 』オンライン三成会編(サンライズ出版 2012年)
『義に生きたもう一人の武将 石田三成』三池純正(宮帯出版社 2014年)
『関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』白峰旬(宮帯出版社 2015年)
『戦国人物伝 石田三成』(ポプラ社 2016年)

これがちゃんと1次情報に立脚した文章で、ちゃんと調べた文章なのだ。

どう書くのか その4

泰延さんは、これがこの本書の中で唯一役に立つ部分と主張している。
しかも秘伝中の秘伝。
その方法とは、

図書館を利用する

さらに図書館にいる司書はこちらが目的を伝えれば、
その目的に沿って、どの程度のものが必要なのかを見繕ってくれるそうだ。

司書は「レファレンス・インタビュー」と呼び、この技量こそが司書ひとりひとりの能力である。こちらの意図に合わせて蔵書を当たってくれるし、ここにない本でも、別の図書館があるということを教えてくれる場合がある

こんな風に図書館を利用できるなんて聞いたことがなかった。
さすがは秘伝である。

どう書くのか その5

巨人の肩に乗るという言葉がある。
巨人の肩には自分の結論を更なる高みに連れていく役割があったのだ。

たとえば映画の話だったら、なぜおもしろいかというのを、巨人の方の視点で見渡せば、評論が形になっていく。「小津安二郎が70年前にこの手法を発明したが、それを発展させている」とか、「このカメラアングルは黒澤明にすごく似ているが、さらにひと工夫ある」などと俯瞰していくのだ。

そもそも小津安二郎が誰なのか黒澤明が誰なのか知らなければ
肩に乗ろうにも乗れるわけがない。
知らないものは存在しないものと同じだ。
だからこそ足を使って図書館に通い、司書に巨人の場所を尋ねるのだ。

前の項で述べた「図書館」で「一次資料」に当たれと言う話は、ひとえに「巨人の肩に乗る」ためである。
巨人の肩に乗る、というのは「ここまでは議論の余地がありませんね。ここから先の話をしますけど」という姿勢なのだ。

人類が積み上げてきたものを、ゼロから自分で頑張る必要はない。
巨人を探して存分に肩を貸してもらおう。

どう書くのか その6

対象に対していかに愛せるポイントを探せるか?
それができないと書くことが辛い。

対象を愛するポイントは2つあるという。

A:資料を当たっていくうちに「ここは愛せる」というポイントが見つかる
B:ざっと見て「ここが愛せそうだ」と思ったポイントの資料を掘る。持論を強化するために良い材料をそろえる。

さらにその心構えとして、

「わたしが愛した部分を、全力で伝える」という気持ちで書く必要があるのだ。愛するポイントさえ見つけられれば、お題は映画でも牛乳でもチクワでも良く、それをそのまま伝えれば記事になる。

それでも愛が生じなかった場合はどうするか。
その場合もちゃんと回答を用意してくださっている。

それでも愛が生じなかったから、
最後のチャンスとして、
どこがどうつまらなかったか、
なにがわからなかったか、
なぜおもしろくなかったかを書くしかない。
「つまらない」「わからない」ことも感動のひとつで、
深掘りしていくと見えてくる世界があり、
正しい意味で文章を「批評」として機能させることができるはずだ。
その場合でも、けなすこと、おとしめること、
ダメ出しに情熱を傾けてはいけない。
文章を書くとき絶対に失ってはいけないのが「敬意」だ。

愛と敬意があればなんでも書ける。

調べることは、愛することだ。
自分の感動を探り、根拠を明らかにし、根拠を明らかにし、
感動に根を張り、枝を生やすために、調べる。
愛と敬意。これが文章の中心にあれば、あなたが書くものには意味がある。

最近なにか愛すべきものあったかな。
そう思うのは、これまで調べてこなかったからだし、
書くということをしてこなかったからだ。
たくさんの文章を書いてきた泰延さんは、
きっといくつもの愛を持っている人なのだろう。

どう書くのか その7

泰延さんの文章が一般的に長いと思われる。
しかし、なぜこれほどまでに反響があり、
人の気持ちを動かすことができたのか。
そのポイントがこのパートで書かれている。

結論の重さは過程に支えられる。

一言でいえばこうだが、なにを言っているかわからない。
または、そうなのかで終わってしまう。

順を追って考え、順を追って書き記していくことが自分自身の理解への道のりそのものであり、結果として人の気持ちを動かす文章となる。「思考の過程に相手が共感してくれるかどうか」が、長い文章を書く意味である。

風が吹けば桶屋が儲かるまでのストーリーに対して、
読者が納得すればそれが人の気持ちを動かすのであろう。
自分と向き合い続け、
最初の読者である自分が過不足ないなと思えるくらい、
過不足ない過程が人の気持ちを動かすのだな。

どう書くのか その8

では、実際に23年間プロのコピーライターとして書き続けてきた人は、
具体的にどのようにして文章を書いているのか。
その答えがこちらだ。

どう書くもなにも、書く形式は起承転結でいい。

そして、泰延さんは起承転結を下記のように捉えている。

起:実際の経験だという前置き
承:具体的になにがあったか
転:その意味はなにか。テーゼ化
結:感想と提言。ちょっとだけ
つまり、起承転結とは、
①発見 ②帰納 ③演繹 ④詠嘆
というコード進行で記述されるのである。
(中略)
ともかく重要なことは、「事象に触れて論理展開し心象を述べる」と言う随筆に、起承転結ほどよく使えるコード進行はないと言うことだ。

なお、泰延さんはTwitterでこの起承転結をいつも意識しているようだ。

このツイートなどまさに、起承転結だ。
①「今日たまたま死ぬかもしれない」と仮定することは大切です。
② 嫌われてもしかたないけど好きな相手を押し倒す、とか。
 「死ぬかもしれない」と思わないと出ない勇気です。
③しかし、「死なないかもしれない」と言う可能性を考慮しておくことで、
 犯罪者にならない押し倒しかたを考える。
④これが人生です。

基本だからこそ、しっかり身につける。
ここで、ゴリラに似た4番を付けた男の言葉を思い出した。

キサマはスポーツというもんが全然わかっとらん‼︎
基本がどれほど大事かわからんのか‼︎
ダンクができようが何だろうが
基本を知らん奴は試合になったら何もできやしねーんだ‼︎

基本こそが、そのものごとの本質に一番近い部分なのかもしれない。

おわりに

本書でとても印象に残っているのが、下記の一節である。

深夜、暗い部屋で腰の痛みに耐えながらキーボードを打って、自分で書いたものに自分で少し笑う、それが「書く人」の生活である。

巷ではバズるライティング技術、SNSウケする文章術など、
まるで魔法の書き方があるかのように煽ってくる本より誠実であると感じた。
書くことは自分と向き合わなければならないことを学んだ。

今回生まれて初めてnoteを使用して書いた。
このnoteは自分が何度も読み返して自分の血肉にしようと書いた。
そもそも本当にこの本を読んだのかと思えるくらい、
この本のエッセンスを活かせてない書き方かもしれない。
だが、書くことによって書く人しか味わえない体験ができた。

今回のこのnoteを書くに至った理由は、
マーケ放送室の西村マサヤさんが自身のオンラインサロンで
田中泰延さんをゲストとしてお呼びしたことがきっかけだ。

そして、それを機に田中泰延さんとお話をし、
この本に対しての愛が持てなければ、
きっとこのnoteを書くことはただの辛い作業になったのかも知れない。
このような機会を頂けたことに感謝します。

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