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バスにのってお茶と映画へ

バスにのって渋谷に向かう。
世田谷通りを抜けて、246に入り、渋谷駅へと向かうこのバスのルートのことがぼくは好きで、時間に余裕がある時は私鉄を乗り換えるルートではなくこちらを選ぶようにしている。ここを通ると、沢木耕太郎さんのエッセイ『246』と、田中小実昌さん『バスにのって』という2冊の本のことが思い出されて心地がいい。

運転手の斜め後ろの席がバスを乗るときにもっとも高いUXを与えてくれることは、世の多くの人が知るところだろう。

小学校の低学年のとき、ぼくは子どもの足で徒歩30分ほどの学校に通っていたものだから、バス通学をしていた(3年生あたりから徒歩になった)。そんな時分にこの席のすばらしさを知った。この席に座ると、まるで自分のためだけにバスが走っているように感じた。そうして自分のためだけのバスだという実感を想像力によって最大限高め、そのエンジンの挙動と自分の心拍の具合を調整すると広大なフロントガラスは、スクリーンになった。渋滞にはまったときに前方に見えた車の中で空けられた缶コーヒー、並木道にツツジが咲いた日、決まった時間に駅に向かうサラリーマンのネクタイの色の変化、ぼくにはそれらがひとつの映画のように見えた。見えたというより映画そのものだった。暴風雨の日は、世界全体がパニック映画になるから、いつだって台風を待っていた。

運よくその特等席が空いていたので乗り込む。
大人になったぼくはその「フロントガラスのスクリーンへの変換能力」が落ちてしまっており、かわりに移動時に音楽を聞くようになっていた。Spotifyで適当に選ばれたのは、NONAMEの『Telephone』だった。これは確か去年か一昨年にluteの誰かに教わったアーティストで、それをきっかけとしてぼくは彼女の音楽がとても好きになったので、特等席でこれが選ばれた事実に心がよろこんだ。
計画的偶発性。
Netflixで『私立探偵ダークジェントリー』を見てから、計画的偶発性と舞城王太郎のことを考えてしまっているせいで、偶然が引き起こす運命的な出会いに過敏になっていて、ひょっとするとこれは他人からみたら気味の悪い関係妄想にみえるかもしれないが、ぼくにとっては心地よいので問題ないということにしよう。そういう風に考えた。

これはなんというの?メロウ? なトラックにのせて少しくぐもってくすぐったいようなラップが入り込む。その声からなぜか木漏れ日を連想する。バスは世田谷通りに入り、松陰神社の前を通過していた。暖気でおしりがあたたかい。この時すでに音楽にのせて見ていたフロントガラスは、徐々にスクリーンへと変化しはじめていた。そのことに気がつかないまま、今日は先週の大雪の日から比べてずいぶんと暖かいなあと振り返り、そして光、と思った。唐突に差し込んだ光芒、その粒子のやわらかさに、季節外れの春を感じた時に、あ、バスのこの席は世界を映画にしてくれるんだった、という前段のエピソードが急に思い出されて、ふいに涙がこぼれそうになった。花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに、が思い出された。そのとおり、そのとおりだよな、と思ってシートに腰を沈め直した。

今日は仕事とは関係なく、アーティストな後輩たちとただお茶をしようという予定だった。13時に喫茶店につき、たかくら(最近1日おきに会っている。それは2年前のこの時期とだいたい相似形で、そのことをうれしく思っている)とけいたくんとコーヒーを飲む。ぼくはタマゴサンドを頼んだ。タマゴサンドについては、それがオムレツ形式であったり、ゆで卵マッシュ形式であったり、さて胡椒がどうだ、セロリのみじん切りが入っているか、など様々なタイプが存在するが、それらのバリエーションすべてを肯定したいと思っている。これが愛だ。ただひとつ強い思いとしてあるのは、「タマゴサンド」とすべてカタカナで表記されているメニュー表がぼくは好きだ、ということだ。そのことについて改めてここに記しておきたい。これはごく個人的で大切なよろこばしいテキストパターンのひとつなのだ。

様々な話を、まじめに、少しカジュアルにした。それぞれの最近の活動のこと、coincheckと貨幣という仕組み、デヴィッド・グレーバー『負債論』、モンハンと労働。Minecraftを進めていくと、資本家と労働者という古典的な構造にどうしても陥ってしまい、造物主である自分はやることがなくヒマになる、という話に心が動いた。コーヒーが足りなくなったのでおかわりをする。大人になってぼくたちは1軒の喫茶店でコーヒーの追加注文をするようになった。そのオーダーの仕方は、この会話の時間に対しての延長希望宣言といった雰囲気を帯びるので、好きなことのひとつになっていた。

ところで、ダイナミックに展開された会話の飛び石的なつながり方や、話者が途中で論理的な構造に再編集する担当者と、それをさらに脱構築するように思いつきでしゃべる担当者に振り分けられるタイミング、そのあいまをつなぐ緩慢なおもしろ話などについて、すべてを記憶していたいという欲望がある。そのため日記で試みるのだが、うまくいった例がない。だからいつも忘れさられてしまう会話たちで、それが静かに悲しかったりする。ここにも瞬間と永遠についての問題がある。

2時間以上話してもハルヤくんがこないので、ここにずっといるのに飽きたよ、とぼくが宣言して一同はジュンク堂に向かった。気のしれた友人と書店に出かけることは、想像より楽しいものだ。たまにやって、いつもそのことを思い出す。それぞれてんてんバラバラに棚の間を回遊するもよし、一緒に連れ立って歩くのもいい。相手が手に取った本についてコメントしたり、それにリンクする本を勧めあうのもいい。唯一難点があるとすると、興奮しすぎてしまって、つい声が大きくなりがちなことくらいだろう。ハルヤくんが現れて、順番に棚をめぐり他の2人と合流して、ぼくたちは4人になった。人文思想や心理学の棚の斜向いは精神世界の棚で、その間を行き来すればアセンション可能、と話して大きな声で笑った。注意されないか少し不安だった。ぼくはそこでブレディみかこさんの『花の命はノーフューチャー』と、マリリン・バーンズとマーサ・ウェストンによる『考える練習をしよう』をもとめた。

河岸を変えて神泉の喫茶店に入り、また色々な話をする。
具体的なアーティストや展示について話していたときに、ふいにマッピングの話題になった。表現のジャンルを4象限のマトリクスでわけるとする。仮にX軸をアート、サブカル。Y軸をおしゃれ、オタクとわけた場合に……といったところで、たかくらが「Z軸にポエジーというのを置こう」といった。この思いつきにぼくは強く賛成した。感情の深度は奥行きに設定するべきだ、と思った。

また2時間ほど話して、ぼくとたかくらは恵比寿ガーデンシネマに向かう。諏訪敦彦さんの『ライオンは今夜死ぬ』を見ることにしたのだった。なにげに、ガーデンシネマに行った記憶がなく、たぶん行ったはずだが行ったことがないのかもしれない、という話をし、席間が広いことに喜んだ。カシスのシロップをアイスティーで割ったものを450円で売っていたのでもとめてみた。思ったよりも酸味が強かったが、次第に舌はその刺激を許していった。

映画はすばらしく、コートダジュールに行ってみたいという思いが強くなった。老練たるジャン=ピエール・レオーの演技と、ワークショップで参加した子どもたちとのリレーションシップ。その噛み合うような噛み合わないような対話のほほえましさと、それを成立させる魔術的な映像美に、感想がのどの手前で引っかかって即座に取り出すことが不可能に思われた。のどに確かにある感想の形状を想像しながら、あれはなんていうの、平行に流れるエスカレーターの歩道を歩いてぼくたちは帰路についた。非常にヘルシーで本日もシアワセな1日として、今日が幕を閉じた。


最後までありがとうございます。また読んでね。