2017年、さよなら日記〈前編〉ーソルロンタン経由オースティンゆき


1年ぶりにnoteを書く。仕事部屋の机の前に行ってMacbookをモニターに接続させて、亀田の柿ピー(わさび味。これが正義だ)と、なにか気の利いた飲みものを用意したい。と思って、さっそく年末年始用に今日の昼に買い込んできたグレフィディックをロックにして持ち込み、いそいそしているところだ。ちなみにフィディックを注いだロックグラスは、何かの折に景品的にもらった、グレンリベットのロゴの入ったものだった。そのことに今視線を落として気がついた。

去年も同じような振り返りテキストを書いていたけれど、また今年もびっくりするくらいに全然に思い出せない。Googleカレンダーで当該の月の予定を引っ張り出し、GooglePhotoで同月に携帯で撮って自動的にクラウドにアップされた写真を見ながら、振り返って、という書き方をしている。

記憶の中だけでは、事実はただうたかたのように浮かび、そして都合よく解釈された形で出力されてくるが、写真が(たとえそれがGooglePhotoのサービスとしての戦略から、実にちょうどいい形で圧縮されたものだったとしても)手元にあると、記憶がそのまま現像されてきたかのように召喚されるのだった。風景が記憶を現像するということが、ぼくにとっては確かにある。

そうした写真を月別に眺めていて、ぱっと出てくるのは「今年もまたドトーな1年だったなあ」という感想である。「ROOMIE」と「lute」というジャンルも運営方法も思想もことなる2つ媒体の編集長を兼任するというのは、やっぱり尋常じゃないことだと途中から気づいた。

というか、だ、2つどころじゃなかったの。今気づいたけど。まちづくりギョーカイに咲いた徒花メディア「M.E.A.R.L」と、埼京線沿線のスタイルマガジン「SAIKYO DIALOGUE LINE」も兼任していたので、実質4媒体だ。そのほかにも仕事の関係上つまびらかにはできないクライアントワークも平行していたので
「ああ、武田くん忙しそうだもんね、わざわざ悪いねえ」
なんて酒場で便宜的恐縮をされるたびに
「いやあ、編集長ビッチなんて言われちゃってるんですよー、あははは」
なんて本当は自分では思ってもいないことを、自虐みたいにいっていた。そういうクセがぼくにはあるんだけど、そんなことをしているのは精神に悪いんですよ。というわけで、やっぱりマンマと終盤体調を崩してしまったわけだったのである。

とここで現在の話なんだが、さっき仕込んだ大量のギョーザのたねが冷蔵庫でいまのんびりと休んでいて、それがどうなっているか気になります。早く焼きたいので余談はここまで。振り返ってみます。

※ここまで書いて、気になる度が閾値を越えなさったので、「もうあかんで、やるしかないで、しんぼうたまらん!」という感じで、一気にその愛らしいまるで小ぶりなハムスター、のような下味しっかりめのギョーザを包み倒して、焼き倒し、酢コショーにひたし倒して、食い倒してやったのだった。30年ほど生きたが、間違いなく人生史上最高傑作のそれを、これは売れる、といいながら食べた。白菜の浅漬けを入れるのがミソです。


2017_01:

例年と同じように、1月は普段会わないような、だがしかし常に会いたいよね、といった人たちと新年会と称してよく会っていたようだ。昨年はたかくらや重冨さんと世田谷のはてに共同アトリエを借りて「よし、ぼくはしばらく都会の喧騒から離れて創作活動するんだかんな」というムードでいたのだが、しかしこれがあっけなく崩れて、2017年は基本的に六本木一丁目、神泉、代々木八幡の3ヵ所で仕事をしながら暮らすことになった。

実家で発掘した大量の美術書をサルベージしたり、MOSCOTのまるいメガネを買ったり、ミラノ風カツレツをつくったり、ラグビーの日本選手権を見に行ったりといそがしくしていた。すこし時間があったのか、直近の仕事に必要な知識や体力を補強するためではない、純粋な読書というか、むしろかつての感覚を取り戻すための復習的な読書をしていたようだ。中沢新一『ミクロコスモスⅠ』、桐山襲『パルチザン伝説』、吉田修一『横道世之介』、ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』などを再読していた。

ロンドン在住の友人の写真家・雨宮透貴の写真連載を「lute」でやろうと思いたち、SkypeでMTGをした。実際はappear inなんだけどふたりとも「じゃあSkypeで話そうね」といって打ち合わせをして、あとから、あ、サービス名が行為そのものを形容するやつになってる、でもSkypeってもうまったく使ってないな、せつねー、となった。


2018_02:

自分のまわりには、自分よりも身体知、もしくは単純に知性が高い友人しか基本的にいないのだが、その中でもとくに俊英であるインディペンデントキュレーター・長谷川新(通称・ろばと)がしかけた展示「クロニクル・クロニクル」を見に行き、また京都でトークをやるために関西遠征に出かけた。

ろばとは、2015年の下北沢時代、つまりぼくの家に基本的にいろんな他人が常にいすわって毎晩なにやら議論をしていた時期に、たかくらが連れてきた。そんなオトコたちの血湧き肉躍る無鉄砲なある夜、劇団・範宙遊泳の山本卓卓、ろばと、たかくら、前述の雨宮透貴などと何軒も飲み歩いた帰りに、ぼくの部屋に立ち寄って、まあまあもう一杯と買い置きのサントリーオールドを空けていた。オトコたちで家で飲むときには、ニッカとかオールドとかがとても似合うような気がかねてからぼくはしていた。というか、それが似合う平成のオトコでいたいものだ、と思っていたのでオールドを買い置きしていたのだ。トリスではすこしさびしい。

たしか後から女の子たちが何人か合流して、混沌としながらも華やかな場になって、ともすればちょっとリア充(死語)的なフンイキすら感じられる光景が自宅に表出していることにぼくは満足な気持ちになりながら、しかしひどく酔った時にありがちな、エモーションダダ漏れな状態でみんなと話していた。確か大きな音で、the xxをかけたりしていた。

先ほどまで独特なステップを踏みながら、後に小田急線の南西口ができあがる箇所にかかっていた歩道橋を渡りながら「ちんこ、ぴーぴーぴー!」と叫んでいた山本が、ベッドと柱のあいまに絶妙な体制でヘッドスライディングをキメてやりましたよ、といった体制で入り込みまず寝た。

オトコたちはゲラゲラ笑いながら、バカ話の中に時折真面目な議論をぶつといったアクロバティックな会話を楽しんでいた。ぼくはといえば、ひたすらに感動していた。こんなことってあるんだ!って思っていたのは、20代も後半になっても、あいも変わらず誰かの部屋で安酒さえあれば、ぼくらは芸術やゲームや文学、女の子とのできごとなどにちて時空を越えて語り合えるのだ。そういう風に語り合える仲間には、大人になってからもこうして出会えるものだったんだ、社会、なかなかやるじゃねーかよ、という感慨に浸っていたのだった。そう、いまここ、ここに生きてんだよ、おれたちとなっていた。気分はエレカシ、もしくは eastern youth、あるいはBRAHMANといった感じで、つまり午前2時を迎えたオトコたちだけのカラオケに似ている精神状態だったのだ。そんな時、しばらく聞き上手をかましていたろばとが口を開いた。

「そう、今ここ、なんだよな。now hereだ。そうなんだよ。そんなとき、now hereはnowhereに接続される。どこでもない、今ここなんだよなおれたち」

おおお、と場がざわめいて、オトコたちは「オメースゲーな!オラびっくりしたぞ」となってぱちぱちぱちと喝采した。ぼくも完全に同意だったのだが、エモーショナルメルトダウンしたその口から出てきた一言は「ずるい!それぼくがいいたかった」だった。そのあとすぐぼくは寝た。後にヌケメとはじめてカラオケに行って、X『紅』を絶唱された時に感じた圧倒的敗北妬み憧れ感と相似形の感情を、はじめて食らったのである。これをろばと事変と名付けたのだった(今つけた)。


展示もトークも京都も大阪もさいこうだったな。
川沿いの町というのが、生まれがそうだからかぼくには郷愁のような歯がゆさと甘さがあって、次に住む町は川沿いにしようとか思ったのだった。

他にもこの月にはエポックな邂逅にあふれていて、まず10年ぶりに開かれた大学時代のサークルの寄り合いがあった。雑司が谷でやっているトークイベントに真利子哲也監督に出てもらい久々に会ったことを引き倒すかのように、この日も真利子さんといろいろ話せたりし、またluteではカルチャートで展示もやった。

今はすでに改築工事に入ってしまった世田谷美術館での花森安治展に出かけたのもこの月だ。会場に来ていた小学4年生くらいの女の子が、「こうやって昔は暮らしていたんだねー」と父親に話しかけた時に盗み見た、その大人びたアルカイックスマイルに西日がさしこんでいた光景を、たぶん忘れないと思う。忘れないような大人でいたい。原宿とんちゃん通りのひでちゃんで、最も地獄に近い天国、のようなカラオケもした。いなみちゃんがアンディーと手をつないでモノマネで長渕を歌っていた。悪夢的に楽しかった。

2018_03:

多田ちゃんが『美術手帖』に同梱されていた「この若手アーティストがすごい」的なブックインブックに掲載されたのがこのくらいの時期だった。多田ちゃんというのは、おそらく最も小学校時代に遊んだ友人のひとりで、ある種の神童的な画力をもったその年齢にしてはかなり背丈の大きな子どもとして知られていた。小学1年生の時に、何かの折で描いたカマキリのスケッチが、教室の背面黒板横の小さなギャラリー的スペースに掲出された時以降、同級生はもちろん、むしろ多くの保護者がファンになってしまったのだ。同じ時に同じカマキリを描いたぼくの絵とくらべてみると、それは同じ野球選手だとしても『プロ野球スピリッツ』と初期のSFC版の「パワプロ」くらいの解像度のひらきがあった。

多田ちゃんは夫婦ともども現代美術家として活躍する、ナゾに魅力的な家族を形成していて、そのことも含めてこの普段たまに見開いたりする雑誌への掲載は、ぼくにとってグッとくるできごとだった。大人になって、仕事が忙しいというあまりに現実的な一言によって、こうした喜ばしい機会に直接顔をあわせ祝福することがかなわない。

そのことに、ぼくは妙にいらだっていた。もちろんそれはぼく自身が、社会と向き合う中で選んだ仕事の仕方が影響している以上自業自得なのだが、それが叶わない世の中というものは、唾棄すべきもののように思えてしまうのだった。忙しいアピールにしか見えないFacebookでの「お仕事告知」ポストを熱心にしているのは、古い友人の中でぼくくらいだし、でも、会うことが叶わなくても、誰より彼の手仕事の成果としてのメディア掲出をよろこんでいるのも、またぼくである、というような怒りをベースにした自負で、ふんばっていた。ふんばっていたよなあ。

年度末予算消化のクライアントワークと、編集長をしている媒体の仕事の佳境がかさなって、打ち合わせ、ランチミーティング、会食→終わりなきアルコールで洗い合う血反吐の夜、みたいな沙汰が続いていた。そうなると「もうどうにでもな~れ☆」みたいな気分も高まるもので、夜毎最後のオアシスとして定宿になっているスナックにタクシーで立ち寄る。70代の長崎出身のおかーさんが一人でまわしてるそこで、話を聞いてもらったり、よく世田谷近辺で見る「TOKYO IS YOURS」という文字列からなるタグを追って一人おおお、となったりしながらミッドナイトゾンビ状態で過ごしていたものだった。

この時期の救いになったのが、草間彌生「わが永遠の魂」の会場入り口に掲載されていたステイトメントと、大童澄瞳『映像研には手を出すな!』。まだ未読だというマンガ好きのマセに「おまえはまずこれを読んでくれ!吹き出しがな、パースに沿って描かれてんだよ。さいこうなんだぜ」と何度もいったけど、彼は「ふうん、まあね、ママある手法だよな」とあまりカンドーしてはくれなかったのである。このことはまだ根に持っている☆

っていうか、これ終わんないんじゃないw
こっから雑に加速させますけど、この月には他に敬愛するアレハンドロ・ホドロフスキー『エンドレス・ポエトリー』のジャパンプレミアに行って号泣。luteのビジュアル監修を担当するいすさんにも会えてうれしかった。その他のカンドー的だったイベントは、笹八の柿の葉寿司を食べたことと、その裏蓋の図のワードアート感や、崩壊した前述のマセの家のアウトサイダーアート感、年度末生き残ったな会での香妃園のトリソバとカレーの至福感、などである。めしって尊いな。


2018_03:

なんといってもテキサスはオースティンだった。SXSWにlutet役員チーム+高木さんで出かけたことは、ぼくの人生においてもこれまたエポックなできごととして記述された。

行きの飛行機が遅れて、乗り継ぎのヒューストンで待ちぼうけをくらったこと。気分はすでにテキサスだったので、そこでムダにナチョスなど食べたら量が多くて途方に暮れたこと。CHAIのこのMVを筋書きなしで撮ったこと。TARGETで敬愛するfalloutのでっかいTシャツと、いまも愛用しているキーチェーンをもとめたこと。すてきなアメリカンブレックファストと、目抜き通りに鳴り響くキック音を頼りにたどりついたベニューで、フードをかぶったまんま踊り明かしたこと。そこの店の四つ角には、やたらオーガニックな甘い煙が香っていたこと。町外れのテックスメックス的なダイナーに入ってみたら、テックスではなくガチなメキシカンしかいなくてレアな東洋人の我々は凝視されたこと。なのに店員はにこにこと優しい。

五十嵐さんと千歳船橋に帰って、きのこのでしめ鯖をきざんだものにみょうがを和えたものをがっつき「やっぱ日本食じゃーん」と嬌声をあげたこと。「帰国。長芋、塩辛、ありがとうございます。。」と書いていたことなどを、これもまたぼくは忘れないだろう。豆、チーズ、肉、たまごもいいが、長芋、塩辛、しめ鯖、ミョウガなのである。そうありたい。

銀座「EDIT TOKYO」で、鈴木竜馬さん、THCツバメさんを迎えてトークイベントもした。luteにとって、はじめてのリアル施策だった。

一方中旬には佐賀県武雄市にこんどは作家として出向き、たかくらと地元の民話や神話を手繰り寄せて、それを8bitに落とし込んでゲームとし、地元民にプレイしてもらうという作品もつくった。昨年から携わっているレジデンスのプロジェクトに、作り手側として参入するのは、まあそぼくにいって素敵なできごとであった。物語は、いつでも本当にすぐすばにあった。そのことを忘れがちだ。気づいたら、記述すればそれは人にとって作品になる。DNAよりミームを愛すべきだ、と思った。

雑司が谷のイベントでは、姫乃たまさんをゲストに迎えて、おじさんたちがきゃあきゃあ司会をするというこれまでにないスタイルで行われた。孤独な魂みたいなものは、どんな場所にも点在していて、それが町を媒介として伝わるなあと思いながら早口で司会をした。


2018_04

野方のコーヒーショップ・DAILY COFFEE STANDのゆうくんと、初台の本の読める店・fuzkueの阿久津さん(くん)とのほぼ月例定例会というのが、このところの楽しみで、この月は野方の名店・秋元屋でへろへろに飲んだ。同世代で飲食店を経営している「店主」のふたりとここまでグルーヴするのは、なんでだろうといつも思うが、それはぼくもふたりも小商いだと思って自分の仕事をしているからだろう。インディペンデントでもなんでもいいかたはいいのだが、組織をベースとするのではなく、個を前景化させ遊撃する!となると、世界の見方も変わるものである。だが、その中において、ぼくだけ様々な組織に属するメリットを暫時まとっているという矛盾が、いくばくか毎回帰り道に心苦しい気持ちにさせるのだった。

新宿の水炊き玄海、松見坂のエアリー天ぷら・味げん、赤坂のコンビニエントなソルロンタン・一龍、上原のdish、池尻大橋・コーラ、六本木・黒猫夜、名古屋大須の名前を失念してしまったが2階の座敷で民謡を楽しんだ居酒屋などに、ギリギリのところを救ってもらい続けた。ギリギリだというのはいつもわからず、その場で全力投球してしまうわけだが、振り返ってみればまあだいたいギリギリなんだよなあ。

地元名古屋市の案件として、高橋さん、青木さんからの推挙をもらい文芸賞の審査員などすることになる。これもうれしかったですね。しかし日本中どこにいっても、ぼくの仕事を説明すると、その媒体のすてきなファンになってくださる方たちばっかりだった。ありがたいことですね。ステッカーをまいたりして過ごした。


2017_05

この頃、いよいよluteの正式オフィス候補地が定まり、やはりな、それがいいよなという感じで代々木八幡を見定めはじめた。住環境とオフィスが近いにこしたことはないギョーカイなので、引っ越しを検討した結果、代々木八幡付近をやたらと遊歩するようになる。ある時代々木公園を歩いていたら偶然にもアースデイの日で、「もしや、これはもしかしたら、アレやってんじゃないの」と出向いてみるとやはり野外ステージで渋さ知らズが演奏をしていった。やったね、と思ってぐんぐん前にでると、学生時代にキャンパスで見た顔がちらほらいて笑ってしまった。

すばらしかったのは、イメージフォーラムで見た『タレンタイム』。多民族社会ゆえの様々な軋轢や溝を、高校生の音楽を通じて歌い上げることで魅せるということ。そう生まれてしまったことの運命や、ともすれば呪いへも繋がる選択できない情報を、歌で乗り越えようとすること。今年のベスト映画だった。

初夏の光の中、外堀公園を久々に歩いたり、坂口恭平『しみ』の刊行に際して、久々に会うことがかなったりとなかなかにエモーショナルな月。luteでも坂口さんを取材。場所を羽根木公園としたのは、我ながら正解だったと思う。のっぺりとした山、みたいな遊具の上で取材をしていると、なぜか坂口さんにばかり小さな子どもがどんどん近づいていって、なついてしまう。おかしいな、と思いながら、でもそうなるよなーとカンドーしていた。坂口さんは「おじさんが、妖怪ウォッチをつくったんだぞ」といっていた。

内海健『双極Ⅱ型障害という病-改訂版 うつ病新時代』を読んで、改訂版に追加されている章に食らわされる。第二次大戦後のドイツおよび日本、つまり枢軸国サイドで症例として増えていたことや、サブカルチャーとの親和性、などなど。やや主張やストーリーに合わせたデータ利用、といった感も否めないが言い当てられたような気持ちになる。神田橋條治著作なども読み直す。

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最後までありがとうございます。また読んでね。

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武田俊

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