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伊香保、芦花公園、大宮、神山町


2018年2月7日(水)

伊香保2日目。旅館の朝食のごはんがなぜかおかゆで萎える。おかゆって本当にわからない。中華粥はまだ楽しみ方が理解できるが、まっさらなおかゆは本当になぞだ。じゅんこも同じ感想で、ちょっとしょんぼりで宿を出た。いつかわかる日がくるのかもしれない。

徳富蘆花記念館にでかけると、他に来場者はいなくて、というか平日きお客は本当にくるのだろうか、こないだろうなあ。と思うけどたくさんのスタッフが事務室にいてびっくりした。何か別の行政関係の仕事のオフィスになっているのかしら。非常に歓待をうける。「まずはビデオをごらんくださいね〜!」とおばちゃんにビデオを見せられた。4:3の画角の古いもので、この記念館の外観からはじまったので「げ、まさかこの記念館自体の成り立ちの説明ビデオじゃないだろうね……」と不安な気持ちになる。内容は蘆花の人生についてだったのでよかった。

さまざまな品々を見ながら、『TOmagazine』世田谷区号のリサーチをしていた時期には、芦花公園近辺をひたすら歩いていた、その時間が思い出された。粕谷。そこからひたすら南へ行く。東京中央農協という交差点が存在する。世田谷区は23区でもっとも野菜の無人販売所が多い。農地、ずっと昔ずっと農地だった。徳富蘆花はトルストイに会いにロシアまで出かけ、彼のすすめもあって粕谷で農業をはじめた。美的百姓と自称した。彼との出会いが記されているのはなんの本だったか。そうか、その粕谷時代のことが『みみずのたはごと』に書かれていて、それをぼくは楽しく読んだんだった。地図は続く。地図には終わりがない。東京中央農協から南へさらにいくと、岡本の激坂がある。そして瀬田。地名だけでとくに何もない町。多摩堤通り沿いに「足」を進めると、そうだったぼくたちが一緒に借り受けたアトリエがあった。光のよく入る、キッチンスタジオがあって、その横には本の回廊のような階段と応接スペースと、窓際に設けられた作業デスク。そこのキッチンでコーヒーを入れ、ぼくはその時つくっていた写真を主体とした冊子のラフを切っていた。写真集のようなつくりで、読みもの以上にラフとセレクトで苦戦していた。トイレのちょうど腰掛けた先に目が入る場所に小さく棚が造作されていて、そこにグルメエッセイの類がならんでいるのが可笑しかった。食事と排泄は、生と死か。今柊二の『定食バンザイ!』をぼくは、たびたびそこに腰掛けながら読んだ。棚にはその昔海外で買ってきたとおぼしき古いオリーブオイルやジャムの空きビンがたくさん飾られていて、そこから抜ける屈折した光が定食の情報が印刷された紙片を照らした。たまに近辺の定食屋の情報に赤線が引かれていて、ぼくは会ったことのないこの物件の前の主のことを思った。3年前のことだ。3年。そのことはもう3年前のできごとになっていた。

蘆花が人生を終えた場所では、吹きガラスでつくられた窓から入る屈折した光が静かに畳をあたためていた。人の肌の体温のように感じられ、尊いようなこわいような気持ちに。いた人がいなくなった場所に今ぼくがいること、そんな時には時空がくうと曲り何かが共有されたような気持ちになること。子どもの時に、今以上にそんな感じがあった気がする。過ごしたことのない時代に感じる懐かしさや、親しみ深さ。

昼、電車の時間があわず、つまらない定食を食べる。帰りは念願の草津号にのれた。新宿で降りNEWoManで眼鏡のレンズの調整を依頼した。その作業の間に紀伊国屋書店でも行って『新潮』の新しい号を買おうと思っていたら、そういえば新南口店はなくなったのだった。途中で思い出したが向かってみるとニトリになっていて、洋書専門売り場のフロアだけあるようだった。昨年に出ていたUS版「WIRED」のインターネットイズブロークン的な号がないか探したが、ないのでなにも買わずに帰った。


2018年2月8日(木)

午後から大宮にて夕方を撮る。
黑田菜月と撮影をしながら散歩。
チェーン店と個人店のバランス、入り込むところ入り込むところどこも繁華街。そのあわいや隅にじわっと広がる「生活」の気配。2時間歩きっぱなしで、湘南新宿ラインで新宿までもどる。阿久津さんから飲まない?との連絡で、とりあえず西口ルノアールに入って、一気にさきほどの取材で感じたことをコラムに落とし込む。1時間ちょっとほどで約2000字ほどにまとめる。久々に集中した。

執筆の途中にFBメッセージで「わたしたちの家見ました?」ときたので、一瞬「ん?ぼく阿久津さんち行ったことないし、それはさすがに知ってるよなあ。どういうことだ?」と思うも、あ、映画の話、と思って見てないことを告げる。明日までなので彼は2度目だけど見にいこうということになった。

それで新宿から山手線で渋谷に向かうことにする。
ここから、計画的偶発性的なできごとがぽんぽんとおこった。
まず山手線で知り合いの編集者とおぼしき女性の後ろ姿を発見する。瞬間的に「あ、この人ユーロスペースに行くのでは?同じ映画をみるのでは?」と感じると、やはり渋谷で降り、同じ方向に歩いていった。早足のその人についていくような形で文化村通りをあがっていくと「たけださん」と声をかけられる。これは別の知人で、この人も『わたしたちの家』をみにいくとのこと。連れ立って歩く間に、知り合い編集者とおぼしき女性の姿は見失った。

ユーロスペースにつくと、阿久津さんのうしろに内沼さんご夫婦をお見受けする。全員で「あ、あ、あ!」といって偶然の集い方に興奮をおぼえた。「なんだかへんな出会い方だねえ」なんて話していたら、チケット列にならぶ徳至と目があって、また「あ、あ、あ!」となる。みんないる。席につくと、阿久津さんがチケットを連番でとってくれたのでそれは当然として、一緒になった知人も隣り合わせで、3人で見る。ちなみに山手線内で見受けた知り合い編集者とおぼしき人がぼくらの右手前の席あたりにいて、あ、やっぱりと思ったが、振り返った時に他人の空似だと気づいた。じゃあなぜぼくはこの人も同じ映画館に行くだろう、と山手線の社内の段階で気づいていたのか。これは感じたというより、あきらかに「気づいた」といったほうが正しい感覚だった。ぞっとした。

映画はとてもよかった。撮りたい画を撮り、使いたい楽曲を使い、やってみたいアイディアをつないでいいのだ、と思った。伏線は回収されなくとも、物語は閉幕されるものだ、ということ。そして圧倒的ロケハンの勝利感!

みんな連れ立って代々木八幡までぽくぽく歩く。渋谷、とくにユーロスペースで映画をみたあとは、ぼくはこの神山町方面から代々木八幡に抜けて歩いていくのが日課で、いっしょにいる人みんなの自宅の大体の位置を知っているのはぼくだけだったので、全員にとって都合のいい代々木八幡へのルートに自然と導くような形になった。そのあいだ「わたしたちの家」の解釈について話し合った。あのシーンはどこにつながるか、取り替えられていた花瓶について、久里浜〜金谷間のフェリー、間取り図つまり「俺なりのわたしたちの家」について、などなどなど。

お一人タクシーで帰宅されたので「旦那さんをお借りします」と一回行ってみたかったセリフを路上で吐き、残りのみんなでアイリッシュパブ的なところにいく。来たことなかった。何も頼む前からまたこようと思ってしまうような場所。キャッシュオンでめいめい好きなビールを頼む。キルケニーについての思い出、野球とサッカーの競技経験、戸山公園の思い出、クロスする熊本での偶然のできごとたち、などを楽しく話す。途中からぼくはアイリッシュハイボールというのに変えたが、あれはなんの銘柄のウイスキーだったか。

念願のガンボがあったので、すかさず頼む。これはNetflixのフードドキュメンタリー「マインドオブシェフ」に登場していて知ったケイジャン料理で、スパイシーなスープにオクラでとろみをつけて、ちょっとご飯にかけたもの。アメリカ南部でポピュラーだということ。どきどきの初ガンボは、辛くておいしかった。連想的にサザンカンフォートのことを思う。気づくと日付がもう変わっていて、内沼さんとタクシーあいのりして帰る。そういえばあいのりのことについても、話した気がする。


2018年2月9日(金)

昼、ROOMIEの定例会議で神泉へ。いろいろいい感じ。
そのあとFabCafeで作業や執筆。エチオピアのコーヒー美味。なぜかWi-Fiをひろえずうなりながらなんどか試みたけど、結局テザリングでデータのやりとりをする。不条理。金曜の夜だけど、予定はない。食事をしてなかったので、昼夕まとめた感じでパク森カレーのチキンカレーゆでたまごのせ。その後、入りそうで未確定な約束があったので、ことわりを入れてユーロスペースで『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』を観ることにした。リバイバル上映的なそれの客席は半分くらい埋まっていた。

原作は詩作品である。
どうやって映画になのるかしら。
そうしたら、それはそのまま石橋静河によるモノローグのような形で読み上げられていた。読み上げられてきもちのよい詩こそ、よい詩なのかもしれないなあ、と短絡的に思った。でも詩は文字の固着を要請する。紙に、あるいは石やコンクリートに。それこそ詩である気もした。意識は散漫になった。映画の間には、なぜかそのシーンから連想される個人的なできごとにばかり、考えが張り巡らされてしまった。想像がイメージがストーリーが連鎖してゆく。そのプロセスの終着地点でぼくは、画面のむこう側の登場人物が生きている世界の中での、自分の生活について勝手に想像し生きているようだった。

食事をするシーンが、もうすこしよくなるような気がした。もう少し登場人物たちの生活における切実さをあらわせる気がした。例えば、美香の実家では冷凍食品ばかりが並ぶが、それは安易すぎないか。多くの冷凍食品の中にぽつんとある一品、みたいなことがあってよかったかもしれない──すくなくとも客人を招くシーンでは──と思った。しかし池松壮亮というのは、ほんとうにすばらしい俳優。「そっか」の一言に、他人の人生を全肯定するというトーンを込められる俳優でなくては、この映画はもっと陳腐になりえたかもしれない。そしてぼくは、やっぱり肉体労働者が働くシーンが好きだ。働く喜びと苦節、そして食事がそのまま明日の仕事に使う身体となっていく感じ。

映画館を抜けても現実になじめなく、それはよい映画をみたあとに往々にして起こる現象だが、今作のはちょっと違う感じがした。たぶん、作中の世界の中に生きる自分の生活についてずっと感じながらみてしまったからだった。ぼくもあの会社の現場にいる一人の季節労働者だった。昨日とおなじいつもの道を抜け、神山町、代々木八幡と歩いていくなかでもその感覚は変わらなかった。

明日がしっかりと生活に根ざされないまま、今日身体を使って生きていくこと。ご飯多め味濃いめで支給される弁当のから揚げのあぶら。ちいさなちいさなしば漬け。うすい番茶を飲んだあと、吹き溜まりみたいな喫煙所で吹かすピーススーパーライトの乾いた至福の甘み。午睡。汗が乾いて皮膚を塩分がおおっていく時に、張り詰めたようになる感じ。それを吹き飛ばすように浴びるシャワーのこと。火照った体で帰路、祈りのようにひらく文庫本。時たま急に心もとなくなって電話をしてしまう友人や女の子。体にしゅんと染み込むビールや焼酎の水割りと、早めに酔っ払ってしまうこととの駆け引き。もつやき。2軒目の店で気にする会計と、ハーパーのソーダ割り。それはすぐにダブルのロックに変わること。ふらつきながら日付が変わったころに、連れ立って寄るコンビニのホットスナックと350mlのかんビール。隣人のうるさい安アパートの、錆びついて心もとない階段。夜中に聞くスーパーカー「Sunday People」と、でもすぐに寝入ってしまって、はっとして起きる気まずい翌朝。そのまま仕事にはいかないで過ごす、平日の午後の商店街、のやさしい気だるさ──。映画の中の世界の暮らしと、大学生くらいの頃の暮らしが溶け込んですぐ今に現れる、そこをかいつまんでのぞき込んでみる。その多世界が溶け込んだ渦状の部分に今のぼくがすんなりと溶けていく。抜け出したくないほどのこれは、感傷なのか?生きてない人生についての、感傷?

その感覚に対して「延長おねがいしまーす」という感じで、一駅手前で降りた。コンビニに寄って350mlのかんビールを買って家まで歩いた。銘柄なんてどうでもよかったが、煙草だけはピーススーパーライトを買った。久々に吸ってみたら、法事のときのお線香のような味がした。こうだったっけ?

用事がたくさんあったり何かに急かされていると都市の情報は暴力になる。だがそうではなく、こうして歩いていく時、今の人生以外の視点を持ちあわせながら歩く時、その情報量はすべての人の人生へのリンクポイントになる。単純な話、満員電車で激しく肩をぶつけられ舌打ちをされ睨みつけられて、この野郎と思った相手にも人生があり、それを見つめ肯定できる視線。そもそもこの野郎、なんて思わなくてすむ視線。そういうものがぼくには必要で、東京が好きかもしれないと思えるのはだいたいそんな視線に自分が支援されている時だった。情報が暴力に変わりそれに殺されそうな時、いかに「無垢な想像力」のフィルターを網膜にかけられるかで、世界との関係、つまり生活は変わる。うまくかけられれば、都市の情報の濁流が、交差する数多の物語層に変容する。たくさんの物語たちよ、イン・トーキョー。

家に帰ってから雑に買い置いていたティーチャーズを飲んで、ずっと懐かしい音楽を聞いていた。聞いてるだけではあきたりなくって、歌って踊った。仕事をしているじゅんこの邪魔をして、睡眠時間を削らせた。ボトルの中7割ほど残っていたティーチャーズはなくなってしまって、ぼくはエレカシをうたって、寝た。


2018年2月10日(土)

何をしていたか不明。『キングダム』のFacebookでのキャラ診断、みたいなのをみんなしていてマネした。最初「信」というのが出て、これは見た記憶のある書影からして、主人公のようだった。途中迷った質問があったからやり直したら「桓騎」というのが出た。彼のことを知りたくて、Kindleで全巻まとめて買ってみて読んでいた。

つくりおきと化していたねぎま鍋を改良してつくったおでんを、さらに大宮の増田屋でもとめたおでん種たちをつかって、バージョンアップさせた。おでん種に使われた素材の数だけのバリケーションのダシが、鍋の中に広がる。


2018年2月11日(日)

たいして記憶なし。『キングダム』のつづき。おもしろく読み続けられるが、特別な感情はあまり抱かない。だからつまらないというわけでもないが、ぼくが必要としている読書とは少し質の違ったもののような時間。とはいえたのしく読む。18巻まできたけど、まだ桓騎は登場しない。

夜、思い立って鯖の味噌煮をつくる。たいへん簡単なものであるが、おいしい。青魚のことをいつから好きになったのか。昔からのような気もする。海釣りに父親と出かけるようになってからか。

夜中、マセ、たかくら、けんすけの3人でモンハンやる。飲み会より楽しい。モンハンとは旅でありまったりであり会話である、ということが理解された。みんなに貢献できていると楽しいと感じるのがモンハンで、なので相手のすきをついてスラッシュアックスの固有技を出すときに「みんなぼくのかっこいい技を見てくれ!」とヘッドセット越し話していたら、みんなが無視する中けんすけだけが後輩感をわざと出して「俺、武田さんのかっこいいところ見届けましたよ…!」といい笑う。

モンハンには固有アクション発生時に、自動的にチェットにテキストを吐く仕組みがあることを今日知った。たかくらは自分がモンスターに乗ると「さあ流鏑馬の季節がやってまいりました」と語り、他人が乗ると「のんのんばあとお前」とつぶやくよう設定していて、みんなでげらげら笑う。ぼくもやりたい。編集してみんなをわらわせたい。


最後までありがとうございます。また読んでね。