「ニッポンのジレンマ」とキムチとろろ鍋


こういうのを日本晴れというのだろうな。「日本晴れ」と戯れに検索したら、ポケモンのたしかフィールド系のわざで、ほのお属性の攻撃力アップ、そんなわざの説明ばかりがヒットして笑えた。AppleWatchのNIKEのランアプリが年末から、「元旦に走ったらニューイヤーズバッジをあげますよ」というから、つられて走ることにした。千歳通りの並木道を抜けて、馬事公苑を1周して帰ってくるとちょうど5キロになることがわかった。

コンビーフをつかったチャーハンをつくり、目黒考二と椎名誠の対談集『本人に訊く 壱 よろしく懐旧篇』のつづきを読む。椎名誠の全著作を、盟友・目黒考二が全部時系列に読み直した上で、順番に著作ごとに対談するという構成。目黒による「これは今読むとなんで当時おもしろかったのかわからないね(笑)」とか「30年という時間には耐えれなかったね」っていう、そんなに辛辣に言う?っていうコメントと、朴訥な椎名誠の返しが、なんということもないのだがおもしろくてずんずん読んでしまう。

あいまに「スプラトゥーン2」をしていると、どっちが合間の作業かわからなくなり、あっという間に夜になる。これだから正月休みというのはこわいのだ。夜、年末にあんまりにうまくできたので有頂天になっていた、白菜の浅漬を入れたギョーザのあまり(冷凍しておいた)と、冷蔵庫の中のあまり野菜を刻んで、キムチとろろチーズ鍋といった感じのものを創作する。こういった場合の調理というのは、だいたいまずくもおいしくもない、しいていえばちょっと塩辛いかな、となるのが常なんだけど、今回は魔術的にうまくいった。じゅんこもとても気に入っていて、ゆかい。しかし、すべての調味料はカンで入れているので、再現性には期待できないのだった。

ふいにテレビをつけていたら「ニッポンのジレンマ」がやっていたので見る。数年前に自分が出演したことも関係しているのか、なにか歯がゆさを感じる。この歯がゆさはなんなのだろうと考えながら見ていて、うーん、自分が出たときに感じたやるせなさとは違うなと思った。

では議論が噛み合っていないからかと考えてみたらそれも違うようで、見終わったあとに気づいたのは、ここで話されているような会話とそのあり方こそが知的であると視聴者には感じられたのではないか、ということだった。そういうつくられ方をしているように見えた。多様性ということばがなんども登場したが、その重要性を語るやり方が、議論を引き出す対話的なものというより、ひたすら持論の説得に近い。知性のあり方が一様に見えてしまうことに、むずがゆくなったようなのだった。ぼくもこういうしゃべり方をしていたんだろうな。

そして知り合いだからというわけじゃないけど、(研究者の自分には)現場コンプレックスがあると表明し、かつて色んなバイトをしていた話を語り、腹を割りながら議論を拡張しようとしていた大澤さんを、ぼくは1番支持したい気持ちになった。

そのあとそのままスイッチインタビューがはじまった。ナイアンティックの野村さんとなかにし礼との対談という、え、これほんとに対話が成立するの、という一瞬ぎょっとしたが、これは野村さんがすごかった。「プログラミングがなぜ成立するのかわからない」というなかにしさんの質問に対して、相手のフィールドである歌詞やメロディーと歌手との関係を、プラグラムとパソコンに例えて実演させてみていた。そこで伝えられたかったことは、しっかりとかつ新しい楽しい知性として、受け取られていたように見えた。知ることは楽しいことだ。

話者が持論を強く展開するのではなく、相手の立場に立ち、相手の持つ知の体系(それは単純な知識に加え、経験などやストーリーも含む)の中に入り込むようにして語ることで、体験をうながして理解してもらう。対話というのは、こういうふうにあるべきだ。ディベートと対話はちがう。ディベートは競技であり技術で、対話はもっと原初的なものだ。野村さんのその素朴なやり方と大変だったという幼少期の体験を詳しく知りたく、自伝的なエッセイをもとめた。

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武田俊

祝祭と日常

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