見出し画像

旅立った父へ

noteにはなるべく明るいことを書こうと決めていましたが、気持ちの整理がつかないことがあり、やはり書いておこうと思います。

私の父は、昨年9月に入所していた老健施設内で起きたクラスターにより、新型コロナウイルス感染症に罹患し、肺炎と心不全で亡くなりました。

その7ヶ月前の2月に、特殊なカビが肺の中に入ることにより発症する、ニューモシスチスカリニ肺炎で入院。

かなりの高熱が続きましたが、コロナ禍で入院させてもらえるまでにPCR検査を3回も受け、ようやく受け入れとなりました。

病院側もコロナ患者の対応に追われ、マンパワーが不足していたこともあり、一時は危篤状態となりましたが、奇跡的に一命を取り留めました。

しかし、ベッド上での安静状態が長く続いたため、筋力が落ち、廃用症候群による寝たきり状態と医師から説明を受けました。

元々要介護1だった父、入院中に区分変更の申請をしたところ、一足飛びに要介護4に。

その病院は二次救急のため、命に関わる状態から脱した患者はそう長くは置いてもらえず、父も例外ではなく転院を勧められました。

どこの病院にするか家族内で意見が割れましたが、メディカルソーシャルワーカーと医師からの話を聞き、最終的に住まいと同じ区内にある、回復期リハビリテーション病院に転院したのが4月のこと。

転院してからの父は、リハビリに意欲的ではなく、すぐに横になりたがると、担当の看護師から聞きました。

3ヶ月ほどリハビリ病院にお世話になりましたが、その甲斐なく寝たきりの全介助、帰宅させるのは相当厳しいというのが、医師の見解でした。

廃用症候群の場合、入院期間は最長で90日間。

家に連れ帰るのか、老健施設に一旦入所させ、その間に特別養護老人施設を探して転所させるかの二択になり、ここでも家族間で意見が割れました。

父は家に帰りたがっていましたし、帰れるものだと信じて疑わなかったと思います。

私は介護保険で使えるサービスは全て使い、自分が父の世話をする覚悟を決めましたが、妻である母が猛反対をしました。

2〜3日ならともかく、毎日のことだし、私が父にかかりきりになるのは無理だと。

母も要介護2で、通院には付き添いが必要な状態でしたが、ヘルパーや以前からお世話になっている訪問看護ステーション、訪問医療等々、頼れるサービスはある、何とかなると思いました。

訪問看護師の方々も、父の状態はもちろん考えなければならないけれど、私たちも可能な限りお手伝いをします、帰れるかどうかは迎える側のご家族の気持ちひとつなのだと。

けれども、車椅子生活になってしまった父を迎えるには、大規模な住宅改修が必要になること、それは経済的に厳しいこと、母と兄が反対していることなどから、最終的には老健を探し、一旦入所してもらうという結論に至りました。

老健施設を数ヶ所、見学に行き、いちばん雰囲気が良く、父を安心して任せられそうに感じた施設に決め、7月に入所。

父は、自分がもう家に帰ることはできないとはつゆほども思っておらず、リハ病院から別の病院に転院することになったと思っていました。

移送には私が付き添いましたが、父は車の中で、もう帰れるんだろ?と訊いてきました。

別のところに行くんだよ、としか答えられずにいると、今度の病院にはどれくらいいればいいんだ?とも訊かれました。

行った先が老健施設だということを、常駐の医師から告げられた時の父の顔が、今も忘れられません。

それでも認知症が少しずつ進んでいた父は、入所して数日で、自分がいるところは病院だと認識していたようでした。

コロナ禍でしたが、病院よりも施設のほうがリモート面会に対応するのが早く、父が入所したその施設でも、既に週に一度のリモート面会の環境は整っていました。

ほぼ毎週、施設の一階の面会室に出向き、画面越しに父と会話をしました。

最後に行ったのは兄と母で、その時に父が、ここの人たちは皆、優しいよと言っていたそうです。

入所して2ヶ月後、施設内でクラスターが発生。

新型コロナウイルス感染症に罹患したことがわかり、保健所が探してくれた病院に転院。

亡くなる前々日に、病院の看護師から連絡があり、リモートでの画面越しにはなるが、必要であれば面会の時間を設けるとのこと。

兄と、父とは数年ぶりに再会することになる、嫁いだ姉二人が行きました。

姉二人は、2月に父が肺炎で入院したことは知っていましたが、廃用症候群に陥りリハ病院に転院したこと、帰宅することなく施設に入所していたことは、知りませんでした。

二人には施設入所となったことを知らせたかったのですが、長男である兄に口止めをされていたのです。

アイツらは嫁に行ったんだから、関係なくなるんだと。

父の介護にまつわるキーパーソンは私でしたので、最初に入院した際も、リハ病院に転院した際も、施設入所の際も、手続きは全て私がしました。

新型コロナ感染後の保健所からの連絡、搬送先の病院の医師や看護師からの連絡も、全てキーパーソンである私の携帯にかかってきました。

非常に厳しい状態であることを医師に告げられ、嫁いだ姉二人にこのまま何も知らせず、もしも父が逝ってしまったら…そう思いました。

余計な迷惑はかけられないなどと言っている場合ではない、実の父親が生死の境を彷徨っていることを知らせるのが、そんなに迷惑なことなのか、二人にも知らせるべきだと、兄を説得しました。

病院との窓口になっていたのは私なので、情報を伝え聞くだけの兄は、今ひとつ父が深刻な状態にあることを実感できていなかったのだと思います。

本当に父さんは危ないのか?と、この期に及んでまだそんなことを訊いてくる兄に、当時の私は愕然としました。

兄が姉二人にこれまでの経緯を連絡をしてから5日後に、面会をすることになりましたので、知らせておいて良かったと思いました。

前日の看護師の話では、父の意識レベルは殆どなく、画面越しにお顔を見ていただくだけにはなりますと。

それを覚悟して行ってねと伝えましたが、三人がそれぞれ、お父さん、来たよ!とタブレット端末を通して話しかけると、目を開いて何度も頷いていたそうです。

姉たちは、お父さん今にもどうにかなりそうな感じじゃなかった、持ち直したんじゃないかと言っていたと、帰宅した兄から聞きましたが。

私は、もう父はもたないだろうなと思いました。

その翌日の午後、父は旅立ちました。

兄と姉二人の顔を見て、声を聴き、安堵したのだと思います。

テレビやネットで見聞きしたとおり、新型コロナに罹患すると、臨終にも立ち会えず、亡骸に対面することも、斎場に行くことも許されませんでした。

荼毘に付すまで一週間もかかかり、お骨になって帰ってきた父。

きちんとお別れができなかったからか、今なお父が逝ってしまったという実感が湧きません。

まだ施設で元気に暮らしているような気がしてならないのです。

そうかと思えば突如、たまらない喪失感に襲われることもあります。

たった2ヶ月ではありましたが、施設で父は大切にしていただいていたようでしたし、何より父が

「ここの人たちは皆、優しいよ」

そう言っていたことが、せめてもの救いです。

半年後には、終の住処となる特養へ転所することになっていた父。

もし、新型コロナに感染することなくその後も元気でいたら。

移送に付き添う私も、父自身も、さぞかし辛い思いをしたことでしょう。

父のことで、後悔と自責の念に駆られることはままあります。

私が他の施設を選んでいたら、父はもっと長生きをしていたかもしれない…。

それ以前に、老健施設に入所をさせず、家に連れ帰ってあげていれば…。

たらればの話をしても、父が帰ってくることはないとわかってはいますが、時折どうしようもなく考えてしまう自分がいて、苦いものと涙が込み上げてきて、とても辛いです。

そんな時は、お父さんはいい時に旅立ったのだ、家族に辛い思いをさせないように、あのタイミングで逝ったのだ…そのように自身に言い聞かせることにしています。

お父さん、あんなに帰りたがってたのに、連れて帰ってあげられなくて、本当にごめんなさい。

そして、最期まで頑張ってくれて、ありがとう。


長い私の告白を、最後までお読みくださり、ありがとうございました。

生前、父のお世話をしてくださった全ての皆様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

辛い時に私を支えてくださった方々にも、感謝しています。

ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?