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東日本大震災から12年。あの日のこと(前編)。

昨年はこどもが生まれたばかりでばたばたしてしまい、毎年3月11日に投稿してきたブログ(現note)を初めておやすみしてしまいました…
ちょうど3月だったと思うけど1年前にまた東北で夜遅い時間に大きな地震がありましたね。
隣でやっと寝てくれた娘に物が落ちてこないように、心臓がばくばくしながら咄嗟に覆い被さりました。
東日本大震災当時あたしは一人暮らしで離れて暮らす家族になかなか連絡がとれず不安でいっぱいでしたが、すぐ隣にいても「この子になにかあったら…」とものすごく不安になりました。
そして先日のトルコ・シリアでの大地震。テレビに映る被害の様子に言葉も出ません…
あらためて東日本大震災をはじめ天災で被災され不安な日々を過ごされた皆様に、安心して暮らせるあたたかい日常が守られますことを心より願います。

年を重ねるごとにまた新たな思いに気づいたりすることがあるんだな、と感じずにはいられない3月11日。
12年目となる今日は、ここで今一度当日のことを覚えている限り書き残してみようと思います。
あの日のことは絶対忘れない、忘れたくても忘れられないと感じていても、突然新しいウイルスが流行ったり何が起こるかわからない世の中なので、こうやってネットに残しておくのも大事かなっと。
拙い文章ですがよかったら読んでみてください。



2011年3月11日金曜日。あたしは当時26歳。
仙台駅近くの某電気屋さんに勤めて早5年目。普通の会社ならまだ若手?そろそろ中堅?って感じかもしれないけど、3年ぐらいで辞める人が多いからそこそこ上だけど責任者未満ってところ。
あたしも辞めたい辞めたい言いつつ、転職するより続けてたほうが楽でだらだら働いていた頃だった。

この日は11時番。早番と遅番の間。
ゆっくり起きてゆっくり出勤。当時ほとんど自炊しておらず、いつものようにコンビニに寄ってお昼を買っていく。
サラダスパゲティや小さめのお弁当を選ぶことが多いのに、この日はなぜかガッツリ唐揚げ弁当を買った。
出勤途中で綺麗な袴姿の女の子たちがちらほら目に入った。どこかの学校の卒業式かな?

出勤して早番の人と交代して売場に出る。
あたしは当時、時計売場の担当だった。
もうちょっとしたら入学・就職祝いなどで腕時計がたくさん売れる時期だけど、まだ今は混んでいない。というか、暇。
平日の午前中なんてお客様は多くないものだけど、この日はいつも以上に暇。まずお客様がいない!
あっという間に遅番が出勤してきたけど、それまでに1本も時計売れなくて今日の目標が達成できないペースでやばい。
やばいやばいと思っていたことだけはすごく覚えているので、上司からなんらかのプレッシャーを受けたのだろう…
けど順番に休憩に出ないと売場がまわらないので休憩にでることに。遅番が14時出勤なので、休憩に出たのがおそらく14時半頃だったはず。

トイレに行って、ロッカーからお弁当を出して、休憩室に入ったところで建物がぐらぐら揺れだした。
数日前にも割と大きな地震があったので「またか?」と思ったけど、長すぎる。おかしい。
休憩室にあるテレビが地震速報を伝え始めたと思ったらブチっと消えてしまった。やばい。
休憩室にいた人たちが机の下に隠れようとしゃがみだすなか、あたしと同じく入口付近にいた後輩の女の子は今お湯を入れたばっかりのカップ麺を持っていて「危ない!気をつけて!」って声をかけて2人であたふたしてしまった。
窓のない休憩室は停電してしまい真っ暗になった。いろんなところからほこりが落ちてきたみたいで空気も悪い。
どうしたらいい?誰の指示に従えばいい?とパニックになるも、このまま休憩できるわけもないのでロッカーにお弁当を戻して売場に戻ることに。

時計売場は商品をガラスケースに展示しているので、倒れて割れまくってたらどうしようと最悪のパターンを想像しながら売場へ急いだが、少し並行移動したくらいで無事だった。
中の腕時計は無事だったかわからないけど、掛時計はいくつか落ちてたみたい。
(どの家庭も同じだったようで掛時計が落ちて壊れて、その後めちゃくちゃ売れることになる。)
売場にいた上司の指示でまずはお客様を建物の外に誘導していたようで、あたしが売場に戻った時にはお客様はもうほとんど避難したあとだった。
残っていないか確認しながらあたしたち従業員も外へ、併設している駐車場へ移動した。

3月とはいえ東北の春はまだ遠くコートが必要な寒さで、特にこの日は寒かった。
お客様は外に出る格好だけどそれでも寒そうなくらいで、あたしたちは上着もなく制服そのままでみんなぶるぶる震えていた。
売場ごとチームで点呼をとる間にも何度か余震があった。何度も揺れ過ぎて、今揺れているのかいないのかわからなくなってくる。地震酔いしているくらい。
避難訓練をやっていたことはあってもここまでの状態は初めてだからか、責任者たちも混乱していて対応が決まるまでしばらくかかった。
その間に不安な気持ちを同僚どうしで励まし合いながら待つけど、震えがとまらなかったり泣き出す子を抱きしめる先輩もいた。

あたしと同期は翌日に同期の女の子の結婚式を控えていたので、「結婚式どうなるのかな…」という話をしていた。
働いていた店は仙台駅のすぐそばだったので、電車や駅が稼働してなさそうなことはすぐわかった。電車通勤の子たちは帰れないんじゃ…?
さらに同期の結婚式が行われる予定のホテルも駅のすぐそばだったので、そのホテルの建物から煙が出てるような雰囲気も待機している駐車場から確認できた。
「残念だけど、明日の結婚式は無理そうだね…」
この時こう言っていたのは、この大きな地震の実態をまだ全くわかっていなかったからだ。
電気が復旧して情報が入ってくるまで、何も知らなかった。今となっては「無理そうだね」どころじゃないとツッコめるのだが、当時はもしかしたらあるかもという可能性を残して話をしていたのを覚えている。
そのくらい何が起きたのかわからなかった。
このとき沿岸部を津波が襲っているとも、もちろん知る術がなかった。

そろそろ寒さも限界だと思い始めたころ、追い討ちをかけるように雪が降ってきた。



ふう…。まだちゃんと覚えていてよかった。

思い出そうとすると細かいこともいろいろ思い起こされて、意外と長くなってしまいました。
なので、ちょうど当日の半分くらいかなと思うのですが、今回はここまでにしておきます。
長文乱文お読みいただきありがとうございました!
次回につづく!!!!!
(来年までひっぱるのも先すぎるので近日中、の予定です)