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異界へようこそー皿の中

職業を問われると、ツトムは「画家」と答えてきた。

美大卒業後、高名な美術評論家に認められ後押しをされかけたが、運悪く評論家が突然亡くなり、画壇デビューの機会を逸した。
その後、銀座の画廊で個展を何度か開いたことがあったが、それは母親が金銭的に援助してくれたからこその話だ。だから社会的には、自称の範囲を越えないのかもしれない。
母親は夫を早くに亡くしたが、地方都市に文房具も扱う書籍の店を構えて手広く営む一方で、裁判所の調停委員もやっており、代々地主だったこともあり、地方ではちょっとした名士だった。

ツトムが妻のヒロコと結婚して、しばらく経ってから娘のマリが生まれた。それから、ちょうど娘の誕生と入れ替わるように、母親が他界した。

住まいは東京、下町の団地の中にあった。結婚したばかりのころは、ツトムは私立高校の美術の非常勤講師として勤めて、生活費を稼いでいた。が、それだけでは妻子を養うことはおろか、画材に出費するゆとりはなく、母親からの援助に加えて、ヒロコも塾の英語講師をしてツトムの画業を支えてきた。

まったくヒロコはツトムのよき理解者だった。
彼女が結婚したのは、同志のような結びつきを感じたからであり、芸術的な暮らしを実現することをお互いの志として、表向きは教職夫婦として、しかし生活の隅々まで美意識の行き届いた、芸術的な生活を実行していた。
ツトムの母親も、この二人の生活を認め、たまに上京しては感心したり目を細めて、ある意味誇りにも思っているようだった。それは一人っ子のツトムを溺愛していたし、ほかに家族がいなかったからかもしれない。

二人の関係が少しずつ変化を見せ始めたのは、母親が亡くなってからだった。
母親からの経済的な援助が、二人の生活には無くてはならなかったが、それが途絶えるとヒロコの父親が、ツトムの母親に代わるように、援助を申し出た。このことが、ツトムをやや卑屈にした。それまで熱く芸術論を語って来たツトムが、妙に僻みっぽい言動をとったり、リベラルな意見を声高に言い始めたのは、このころだった。

「気にしなくていいのよ、芸術家にパトロンは付き物で、ほら、メセナという言葉があるじゃない。
お父さんはスーパーマーケットの経営がうまくいって、今はチェーン店があちこちにあるのだから、バックアップしてもらうのに遠慮はいらないわよ」
心中を察したヒロコが言ったが、こういうやりとりをすると、ツトムが妙に居丈高になりブルジョワジーがどうの、ノブリスオブリージュ(高い身分にともなう社会的義務)がこうの、とややズレた文脈で語り始めるので辟易した。

結婚当初からツトムは、骨董の器が好きで、古伊万里や備前、古丹波などの食器を、少しずつ買い集めていた。多少家計の負担にはなったが、ヒロコも古いものが纏う味わいが嫌いではなかったし、好みにも合ったので、使うことを一緒に楽しむことにしていた。
しかしヒロコが妊娠したころから、二人は家計を案じて骨董の蒐集はいったん封印し、器は棚の奥へとしまうことにした。

ある日、ツトムは西洋骨董を扱う店で籐製の乳母車を見つけた。
籐は年代を経て、枯れたいい色をしている。側面は装飾的な編みこみが施され、緑にペイントされた木製の押手は頑丈そうだし、籐の艶の消えた色とのコントラストがしゃれているではないか。
ここにレースを天蓋のように取り付けて、下の布団は更紗とかペーズリーにして…。ここにマリを寝かしたら、イギリス貴族の赤ん坊といった具合だぞ。
ツトムの頭にはアイディアがとどまるところなく噴き出し、ニヤニヤしながら家への道を急いだ。


「ただいま。今日は素晴らしいものを見つけたぞ」
意気揚々とした声が、狭い玄関に響いた。
「こんな年代物の乳母車、見つけようったって見つかるもんじゃないんだ」
しかし、出てきたヒロコはそれを見るなり、目を丸くして次の瞬間目を閉じると頭を激しく横に振った。
玄関が靴箱の前の大きな荷物で狭くなっていたのに、ツトムはやっと気づいた。
「父から送られてきたベビーバギーよ。乳母車は2台もいらないわ。それより一体それ、いくらだったの?」
語気も荒くヒロコが叫んだ。
「イギリス製で十分使用可能だから3万円だったよ。ほら、この籐で編みこんである模様を見てごらんよ。エレガントだろ?どんな人たちが使っていたのかねぇ」
のん気で間延びした話を、金切声が遮った。
「今すぐ返してきて!そんなガラクタに3万円もかけるゆとりは、うちにはありませんから」
さらに
「マリの首が座らず寝ているうちはいいけれど、お座りするようになったり、立ち上がるようになったら、これじゃ間に合わないわよ」
とヒロコがなじった。もっともな話ではある。
「第一安全なの?」
萎れて、即刻ツトムは古道具屋に乳母車を返却しに行った。
押す腕に乳母車の車輪の回転が、家へ向かった時より重い。

この出来事でツトムはすっかりメンツを失ったようで、当座は二人の間に気まずい空気が漂っていた。

ツトムの骨董趣味は、マリの成長とともに元に戻りはじめた。しかも、こだわりがゆるやかに強くなり、完璧を求めるあまり偏狭さへと肥大していった。
とはいえ、妥協しない美意識こそ芸術家のものであり、ツトムをツトムたらしめているのだ、と思うことにしてヒロコは時折暴走しそうになる怒りをなだめていた。

団地は3DKで3人家族が住まうとなれば、それほど広いとは言いがたかったが、持ち前の器用さでツトムはリビングの窓辺に板とガラスで棚をこしらえ、ギャラリーのような室礼にした。
相変わらず経済にあまり頓着しない生活ぶりとはいえ、ツトムは彼なりの倹約…台所用のラップは洗って干して2回は使用する、旅行をしない、外食はほとんどせず、そのかわり家族のために凝った手料理を作る、衣類は丁寧に修繕してできるだけ長く着る…といった倹(つま)しいやり方で支出を抑えた。
幸いなことに、医師グループのスケッチ会が月に2回ほどあったし、その人々の間でセンスと器用さが認められ、骨董の見立てや簡単な鑑定、個人宅や店舗のディスプレーなどのアルバイトが時折入った。
この思いがけない副収入は案外馬鹿にならなかった。だから、収入に見合わないツトムの美意識過剰な生活に、たまに苛立つ事があったとはいえ、マリと3人の生活が何とか成り立っているので、ヒロコは文句を言わなかった。
しかしその一方、ツトムがアルバイトに忙しく、ほとんどカンバスに向かう時間がない事を、彼女は残念に思ってもいた。それは彼の画家としての才能を、高く評価していたからだし、花開いて社会的に認められる日を期待していたからだった。画業より骨董蒐集を優先させて歩きまわったり、人の集まりに頻繁に顔を出し、骨董談義に耽る姿が、かつて自分の愛したツトムのそれと離れていくような気がして、少し寂しくもあった。

骨董の食器や家具、そして民具の収集品で、家は団地の中とはいえミュージアムの様相を呈してきた。狭い玄関にはアフリカの仮面やインドの装飾的な木彫の窓枠が飾られ、リビングには李朝の薬箪笥、バンダチ、棚などの家具が、広いとは決して言えない室内に重過ぎず軽過ぎない格調を添えた。
ヒロコの女子大時代の友人が遊びに来ると、ツトムは料理の腕を奮って、お宝の骨董食器でもてなした。そういう時は器に関する蘊蓄を、いかに自分の目が称賛に値するものかという、自画自賛にすり替えて熱っぽく語った。ヒロコは彼の能書きには飽き飽きしてはいた。とはいえ、裕福な友人たちには二人の生活が“清貧”あるいは“美学に殉ずる生き方”と映っているらしく、最初こそ自分と友人たちの、経済状態を比べて肩身が狭かったが、妙に晴れがましい気持ちにもなった。

*                      *

娘のマリが二人の予想通り、美術の道を志し芸術コースのある高校へと進学した。

青山や西荻窪の骨董街で、ちょっとした目利きとして知られるようになり、ツトムは相変わらず医師グループや、ジャポニズムに憧れる外国人を骨董街に案内したり、自宅に招いて得意の料理と食器でもてなしながら、骨董談義を楽しんでいた。団地の一室は、芸術論、文化論が行き交うサロンとなった。下町の団地にある風雅な一室、そのギャップに隠れ家的な雰囲気があり、スノッブな人々の関心を引いたのかもしれない。
ヒロコはといえば表向きは、来客を歓迎している風に見せていたが、内心は少なからずうんざりしていた。もてなしに費やす費用が、家計に響いていることも不満だった。
ただ、「うちの骨董や民具を売れば500万円はくだらない」
というツトムの口癖が、いざという時を案じる心の支えになってはいた。

マリが美大受験を控え、塾に通いデッサンや平面構成に熱を入れている頃のことだ。
バブル経済が弾けたのはさほど影響がなかったが、さらにリーマンショックが追い打ちをかけると、骨董ブームは潮が引くように冷めていった。少なからず頼みにしていたツトムのアルバイトは、ここのところ医師グループのスケッチ会が月2回あったものの、ディスプレーの仕事はなくなった。しばしば自宅で開かれた食事会では、次第に年金や退職金の話、あるいは投資の成果が語られるようになった。この手の話に疎いツトムの芸術論は空回りし、集まる人々も次第に散るように少なくなっていった。

景気の悪化がヒロコを少し慌てさせた。
今、うちの骨董や民具を売ったら、どのくらいの価値になるのだろう…それに、本当に売れるのかしら。宝石は高価でいいものでも、売るとなると二束三文だと聞いているし、骨董も同じような扱いでは…。

何かと援助の手を差し伸べてくれた父はすでに他界している。遺産で金銭のいくばくかを相続したものの、事業や不動産は二人の兄が継いだのでそれほど多くはない。ツトムの母の残した家といえば、東京からは遠い地方の過疎地にあり、避暑を兼ねたツトムの夏場のアトリエにはなったが、不動産としての価値は無きに等しい。固定資産税のみならず、維持費もかかる。
自分とツトムの講師業も定年を迎えるころには、マリの学費が要らなくなる。が、老後の二人の生活は雀の涙ほどの年金に頼るほかない。企業に勤めていれば厚生年金があるが、自分たちは国民年金しかないし、家も持ち家ではないし、その上、二人がいつまでも健康だとも限らない。そうなると、ヒロコの目に絵筆を執らないツトムは、単なる稼ぎの少ない男にしか見えなくなった。

マリのいない夜、幾分失望感の混じった懸念をヒロコがふと漏らした。
「もう以前のような景気は戻らないのかしら。考えてみると、私たちは川に浮かぶ笹舟のようね。風に揺られて、いつ沈んでもおかしくないわ…」
自嘲めいて語るヒロコに、ツトムは背を向けることで答えとした。
そして早々と食卓から離れて、近ごろお気に入りの染付の木瓜皿(もっこうざら)を眺めようと、寝室に引き揚げた。

木瓜皿はいろいろなバリエーションがあるが、ツトムの持っている木瓜皿は菱形に近く、白い陶の地がぽったりと手に馴染む。図柄はといえば、川の向こうの柳の木々の樹間で男が釣り糸を垂れている様が、シンプルに藍色で描かれている。
皿を見れば見るほど、中の世界が広がりを増すようで、心が落ち着くのだった。
「ああ、俺もこんなところで釣りをしてみたい」
ため息をつきながら、憧れに近い気持ちで描かれた男を見つめた。すると風がスイと動いて絵の柳の枝が揺れ、静かな部屋に川のせせらぎが小さく聞こえてきた。この時、現実の室内の空気と、皿の世界の空気が一つに溶け合ったように感じられた。
「川に浮かぶ笹舟のような生活ねぇ。それも悪いもんじゃないかもしれないじゃないか」
両手を頭の後ろで組み、ツトムは窓の外のはるか遠くを見ながら呟いた。

*                       *

景気が目に見えて下り坂になり収入が減ってきても、ツトムはサロンの食事会をやめなかった。口角泡を飛ばしながら芸術を論じ、かつてより少なくなった客たちを、半ば煙に巻くように感心させた。
しかし、文化人気どりの自分に客たちの後ろからヒロコが、露わにせずとも冷ややかな視線を送っていることに、ツトムは薄々気づいていた。

マリが美大に通い始めると、ツトムの骨董蒐集癖が治まってきた。それでも私学の美大なので、学費の捻出が家計を圧迫した。マリは大学のアトリエで制作に没頭したり、友人たちと過ごす時間が多くなった。そのため、一緒に食卓に着くことが少なくなり、夫婦で囲む食卓は華を失った。交わす言葉もめっきり減って、殺伐とした食事風景となった。食事自体が質素になったことにも、原因があるかもしれない。地味な料理を骨董の器に盛ると、それなりの雰囲気はあるものの、少々貧乏臭さが漂った。
ツトムはいつも早々と食事を済ませて、寝室に引きこもるのが常となった。
そんな時は必ずといっていいほど、木瓜皿を前に過ごしていることを、ヒロコは気づかなかった。

最初は皿をしげしげと見つめるだけだったが、見ていると絵の釣り人が手招きしているような気がしたのは、ツトムが皿と対話するようになって1か月ほど経った頃だっただろうか。
「おうよ」。
手招きに答えて目を閉じると、いつものように、川の匂いがぷんと鼻腔をくすぐり、柳のしなやかな枝を揺らす風がほほを撫でた。次の瞬間、いつもよりヌルリとした感触がリアルなので、驚いて目を開けると自宅にいたはずなのに、いつの間にか川岸の背の高い草むらの中に立っている。対岸に目をやると、件の釣り人が相変わらず岸辺に腰を下ろして、釣り竿をやんわりと握りながら、こちらを見ていた。ツトムは少し驚きはしたが、長閑な空気がまどろみを誘い、やわやわとした居心地の良さに身を委ねた。

これが、木瓜皿へ入り込んだ最初だった。

このころからツトムが寝室に閉じこもる時間が増えた。
釣り人の横に寝転んで仰向けになると、仰ぐ空の広さに胸が広がる一方、脱力感と倦怠感がゆるゆると入り混じって身体に染み通り、酔ってとろけていくような不思議な心地がした。

夫婦の関係は、急速に乾いて冷えていった。そして講師の仕事やアルバイトがない時間は、ツトムは一人で寝室で過ごすことが多くなった。
ヒロコは彼が読書や書き物に励んでいるのだとてっきり思っており、何もせず皿の中で遊んでいることを知る由もなかった。マリと女同士の話もできるようになった反面、以前のように夫の考え方や行動に興味を持てなくなったこともあるだろう。

ある日、いつものようにツトムが皿の中に入り、釣り人の隣にゴロリとなっていると、横の老人が白い髭の中に埋もれた唇を重く動かし、しわがれた声で問うた。
「あんた、いくつかね」
「50歳になったよ。若くはないさ」
「ほうほう、多分儂と同じくらいの歳じゃないか。ここで釣りを始めて何年になるのかなぁ。その間に自分の歳はおろか、帰る道すらもう忘れたよ」
皿の中の、たゆたうような時間の中に居れば、そうなるに違いない。ふう…危ない、危ない。
そう思ってツトムが帰ろうと腰を上げたとき、老人は黄色味がかった目でジロリと彼を見て
「うむ、お帰りなされ、客人。ここはあちら側にいる人間の来るところではない。だが、ここが気に入ったと言うのなら、ずっとここに居ればいい。ただし昼は長いし、夜も長いぞ」
心中を見透かすような言葉に、心が少し動いた。が、ツトムがかろうじて皿の世界から出ることができたのは、かりそめにも家族への責任感があったからかもしれない。

*                     *

二人が、これまでにないほどの大喧嘩をしたのは、ヒロコが今住んでいる団地から、引っ越そうと話を持ち掛けた時だった。川向うにある隣の県の団地に移れば、間違いなく家賃の負担が軽くなる。そしてこの際、蒐集している骨董の器や民具をある程度整理するために、インターネットのオークションサイトを通じて販売したらどうか、と提案したのだった。
「都心へ出るのに今より時間がかかるわ。だけど家賃は1万円以上安くなる。これは将来、年金生活に入れば大きな差よ」。
「引っ越すのはともかく、集めてきた骨董を売ることはないじゃないか。それに、インターネットでオークションに出すといっても、お前にパソコンが扱えるのか?ましてサイトの手続きとかルールは、俺にもよくわからないし…」
ツトムは突然の話だったので、かなり面食らった。
「操作はマリが手伝ってくれるって言っていたわ。今やコレクションはSNSを通じてコレクター同士で売り買いされている時代らしいの。ねぇ、私たちもやってみない」
うっとりしながら嬉しそうに説明するヒロコを遮って、気色ばんだ声が飛んだ
「おい!勝手に事を進めるなよ。いつ俺が売れって言ったんだ。そんなこと言った覚えはないぞ」
「だってあなた、これからは蓄えが必要になるじゃない。二人とも定年退職してからは、年金だけでは大変よ。物価だって上がるのは間違いないし、今よりもっと倹約して暮らさなくてはならないわ。今のやりくりが限界なのよ、私には…」
終いには力なく涙声になりながら、ヒロコがシワの目立つ手で顔を覆った。
「武士は食わねど高楊枝というじゃないか」
説得するように言葉をかけた瞬間、怒りに満ちた声が返ってきた。
「何言ってるのよ、この甲斐性なしが!」
この声音の粗さに、ヒロコ自身が驚いた。
ツトムはといえば、鈍器で脳髄を思いきり殴られた気がして、目の前が一瞬白くなった。
傷ついたことは言うまでもない。甲斐性なし…それは長いこと一家にとって言葉にするのがタブーの事実だったし、内心自分でも痛いほど認めているからこそ、受け入れがたい事実でもあった。ツトムは頭を前に垂れて、無言でリビングを出た。そして寝室の戸を開けると、音もなく閉めた。

気がつくと、ツトムは皿の中に居た。
川の水音が耳に優しい。今日の水の匂いは心なしか、生臭いような気がする。水面には白い雲が映り、伸び放題の草むらに風が吹くたびに、あたりに日向くさい草いきれが漂った。ごろりと仰向けになると、太陽が薄雲に遮られて銀色に光っている。いつもに増して長閑さと、とろみのある甘い空気がそこにあった。
「なあ、爺さん。俺はここにずっと居たいよ」
懇願するように言うと
「どうしたんだい、若いの。とはいっても、歳はさほど変わらなかったのだったな。あはは」
面白そうに笑う老人の喉仏が上下して、開いた口からまばらな乱杭歯がのぞいた。
「いやはや、もう疲れ果てたよ。こうしてのんびりと日がな過ごせるのなら、ここに居させてくれまいか。もう帰れなくてもいいと思っているんだ」
「そうさなぁ、ま、それもいいか。だが言っておくが、二度とあちら側に帰れなくなってもいいのかね」
老人はツトムの顔を覗き込むと、妙に意味ありげな顔をして低い声で訊いた。
ツトムは、仰向いたまま目を閉じてコクリとうなずいた。

*                    *

「なぜあんなひどいことを言ってしまったのかしら」
ヒロコは激しく後悔していた。あれは、長い間に澱のように溜まった不満が、一気に爆発したので出た言葉だった。凶暴ともいえる勢いで口走った暴言を謝ろうと思い、寝室の戸を開けた。
しかし、机に木瓜皿がポツンと置かれているだけで、ツトムの姿はそこになかった。
トイレに入っているのかもしれない、と思い大きな声で名前を呼んでみても、返事がない。
玄関のドアが開く音はしなかった。もしかしたらあの人は、怒りではち切れそうになった頭を冷やして鎮めようと、散歩に出たのかもしれない…そう判断してヒロコは後を追うつもりで、サンダルをつっかけて外に踏み出し、重い鉄製の玄関ドアを勢いよく閉めた。

木瓜皿はつけっぱなしの灯りの下で、相変わらず青みがかった白い色をたたえていた。しかし絵柄が今までとは少し異なっており、釣り人の傍らに薄い影かシミのように寄り添っている男の姿も描かれていたことを、ヒロコはもちろん気が付かなかった。


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