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お月見のはなし ~中国でのお月見 2/2~

4.”中秋節” の逸話 ~月餅蜂起編~

 「2」で書いたように、中国では中秋節には月餅を送りあう習慣があります。これは、唐の始まりの頃に起源があるそうです。
 唐の高祖(始祖)李淵の時、大将軍李靖がモンゴル地域の匈奴との戦いに勝利を収めて8月15日に凱旋しました。その時商人が皇帝に、勝利を祝うために餅を献上しました。皇帝はその丸餅を切り分けて群臣に与え、共に食べました。これが月餅が贈答に使われるようになった起りといいます。なお、一般の人が中秋節に月餅を食べるようになったのは、時代が下って明の時代からとのこと。
 月餅とモンゴル人との間にはもう一つ、中国では有名な逸話があります。”月餅蜂起” と呼ばれます。
 唐王朝が崩壊(907年)して中国がいくつかの王朝に分れた後、モンゴル人が中国全土を征服して元王朝を立てました。異民族が中国に入って支配者になった場合、次第に中国の高い文化に同化されることが多かったのですが、元朝が中国統治に際して、モンゴル人に政治的・社会的特権を与えて、支配者による支配体系を作りました。(モンゴル至上主義)
 その圧政に対して各地で叛乱が起きましたが、元朝は抵抗勢力に目を光らせ、人が集まらないようにするなどしていました。そこで「中秋節に月餅を送りあう習慣がある。これだけは許可して欲しい」と懇願して許可を得ました。そうして作った月餅の中に「八月十五韃子(八月十五日にモンゴル人を殺せ)」と書いた手紙を入れました。そうして八月十五日に各地で一斉蜂起に成功し、それをきっかけに元朝を倒し、明になりました。明の皇帝(朱元璋)は、中秋節には兵士全員が民衆と一緒に楽しめるようにし、「月餅」を
祝い餅として配りました。
 こうして中国の人々は、中秋には家族が集まって団らんすることができるようになったことを祝い、そして月餅を贈りあう、「団円節」となりました。地方から都会に奉公に出ている女中さんも、中秋には実家に戻って家族全員で集まれるようにしたそうです。

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 このように、中国人とモンゴル人の間には、月餅から連想させる戦いの記憶があるため、モンゴル人に月餅を贈るのは失礼とされているそうです。

5.”中秋節” の逸話 ~玄宗遊月編~

 唐の玄宗皇帝の時代の前半は「開元の治」と呼ばれるほどの善政の時代とされ、文化や音楽などの文化が華開いた時代です。玄宗は音楽にも優れていて、自ら管弦楽器を演奏し、「皇帝梨園弟子」という楽団も作りました。日本で歌舞伎界を梨園と呼ぶのは、これに由来します。
 玄宗は中秋の夜 月を眺めていた時、突然 月にあるといわれる宮殿に行くことを思いつきました。そこで道教の道士の術で月宮殿へ行きました。宮殿には厳重な敷かれていて、中に入ることはできませんでしたが、宮殿の中から美しい曲が聞こえてきました。玄宗は音楽に精通していたので、曲を記憶し、地上に戻ると譜面に記しました。その後、宮殿の楽団に演奏させたり踊りと付けたりしました。この曲は「霓裳羽衣(げいしょううい)曲」と知られています。

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6.”中秋節” の起源

 ところで、どうして中国では陰暦八月(仲秋)の満月を特別なものと考えられていたのでしょうか。例えば日本の平安時代の『竹取物語』でかぐや姫が月へ戻るのが八月十五日でした。当時の日本では、月を見ることは良くないとされていたにも関わらず、です。
 古代中国、殷や周の時代は、小部族(邑、むら)の集まりで王朝を構成していたといいます(邑国家)。そこでは王は、邑の代表者の役割でした。
 当時は自然神への信仰があり、王(邑の代表者)は四季折々の節目に、四方の神に祈りと感謝を捧げていました。春分には太陽を、夏至には大地を、秋分には月を、冬至には天を祀り、人々の無事と豊作を天に願い、祈る儀式を行っていました。

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 そのうち特に重要だったのが、春分の日の「春祈」として祀り、秋分の日に「秋報」として月を祀って祈り、また感謝を捧げることでした。しかし秋分の日に月が見えるとは限りません。そこで秋分の日に近い満月に「秋報」の行事が行われるようになったと考えられます。
 こうして、秋分の日に近い満月、つまり「仲秋(旧八月)の満月」=「中秋の満月」は重要で、意味あるものになったと考えられます。

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