見出し画像

星座の歴史 mini

1.星座の起こり

 こんにち私たちが使っている星座は、多くの星座書に書かれているように、古代メソポタミア文明で最初に作られ、星空に星座を作るという考え方が東方や西方に伝わり、それが古代ギリシャ地方に伝わるとギリシャ神話と関連付いて、現在に伝わる星座となりました。
 ところが、古代メソポタミアで、どのような動機から、どのような星座が作られたのかは星座書には書かれておらず、せいぜい、紀元前500年頃のバビロニアの境界石に星座に似た姿が刻まれていると紹介される程度でした。

境界石

 この状況に風穴を開けたにが、2010年から月刊『天文ガイド』で近藤二郎氏が、古代エジプトや古代メソポタミアの星座の起源について連載を書かれ、それを単行本(『わかってきた星座神話の起源』、エジプト・ナイル編および古代メソポタミア編、そして1冊にまとめた『星座の起源』)として出版されたことでした。この本によって、欧米でどのような研究が為され、どのように知られていたかがようやく日本で知られることになりました。

画像2

 近藤二郎氏の本で星座の起源に興味を持った人たちの中には、さらに詳しく知りたいと思う人も出てきました。
 近藤さんの本のテーマは、古代エジプトや古代メソポタミアで、どのような天体観測が行われ、どのような記録があり、そしてどのような星座を作ったのか、ということでした。
 しかし興味を持った人が知りたいと思うのは、どういう理由でどのような星座が作られたのか、ということ。それがどのように古代ギリシャに伝わり、こんにち私たちが使う星座になっていったのか、ということでしょう。そこでそれらについて調べてみました。

2.メソポタミアでの星座の歴史

画像3

 ”パレットおおさき”さんの旧Webページに星座の歴史について詳しい年表があったので、お借りして要点だけ解説します。
 メソポタミアで星座の確実な記録が出るのは、紀元前7世紀の『ムル・アピン』と呼ばれる恒星表のタブレットです。”ムル” とは ”星” のことで、このタイトルは『アピン(鋤)星』を意味します。

画像4

 『ムル・アピン』に書かれた星座の名前がバビロニア語ではなくシュメール語だったため、星座の起源はシュメール人に遡ると考えられています。
 では、そこに記された星座はどのようにして作られたのか。
 星座には、二つの種類の起源があるといいます。一つは惑星が行き来して天上から世界のオーメン(兆し)を知らせるための黄道星座。もう一つは黄道以外の領域で、日の出直前に昇る(伴日出、Heriacal Rising)ことで季節を知らせる目印となる星です。

画像5

画像7

 黄道には神々の星座や目印となる星群が作られました。紀元前3000年頃の夏至点には夏の象徴であるライオンの星座(今のしし座)。その下(南)には、ちょうど天の赤道に星の並びがあることから、大地の神であるヘビの星座(今のみずがめ座)。冬至点には水の神エアを象徴する神像(今のみずがめ座)。春分点にはプレアデスやヒアデスが星群として作られました。プレアデスは「ムル・ムル」と呼ばれました。「星の中の星」みたいな意味でしょうか。それだけ目立ち、特徴的な星群だったのでしょう。
 天球の歳差運動で二至二分に位置する星が変わると(メソポタミアで歳差運動を知られていた証拠はありません)、別の星座が作られました。
 もう一つの方法、季節を知らせる星の並びについて。
 これはバビロニアなどの地域で季節を知らせる、”Three Stars Each" と呼ばれる小型星座のようなものです。
 『ムル・アピン』にはこれら二つの起源を持つ星座が、当時の天の周辺から南方に順に記されています。

3.古代ギリシャでの星座の歴史

画像6

 古代ギリシャでは、多くの本が写本として後世に残されたため、星座についてもかなり調べられています。作者によるオリジナル本が残っていないものは、他の本が引用する形で、内容がある程度推測できます。
 最も古いものとしては、紀元前8世紀頃にホメロスによる『イリアス』『オデュッセイア』に、紀元前700年頃のヘシオドスの『仕事と日々』に、いくつかの星座が登場します。
 紀元前3世紀半ばのアラトスの『ファイノメナ』に、当時知られていた星座と、それにまつわる物語が書かれています。『ファイノメナ』に登場する星座の数は、数え方によって変わります。現在に伝わる星座、つまりはプトレマイオスの48星座と同じモノを数えると48とか49となりますが、目印となる星のグループを数えると55個ほどになります。

アラトス

 上図の星座リスト中の赤文字は黄道12星座です。バビロニアの『ムル・アピン』に登場する星座が、別の名前で記されていることが分ります。このことから、メソポタミアの星座の情報はかなり古い時代にギリシャ地方に伝えられ、黄道星座は便利なのでそのまま使われ、一方季節の目印の "Three Star Each" の小星座たちは目立つモノ以外は使われず、ギリシャ独自で星座が作られたことが分ります。
 紀元前2世紀のエラトステネスが書いたとされる『カタステリズミ(星座集)』にはだいぶ整理された48星座が書かれています。もっともこの本には星占いについてもかなりのページに書かれていて、一方エラトステネスは科学者であったことから、別人によって書かれたとされ、偽エラトステネス著とされます。

エラトステネス

 こうして『星座集』に書かれた48星座にヒッパルコスが こうま座を追加して49星座とし、プトレマイオスはプレアデスをおうし座にまとめ、実在の人物に由来する かみのけ座と アンティノウス座を除いて48星座としました。

ギリシャ星座

4.古代ギリシャの星座はいつ頃に作られた?

 それでは、古くはホメロスの叙事詩に書かれた星座は、いつ頃に、どのような経緯で作られたのでしょう。これを知るには、ホメロス以前の古代ギリシャがどのようであったかを知らなければならないのですが、19世紀末まで地中海周辺の都市や文明は知られていませんでした。そもそもホメロスが書いたトロイア戦争は神話上のもので、事実とは考えられていませんでした。

トロイア戦争

 トロイア戦争が歴史上の出来事と信じて発掘を行ったシュリーマンが、トロイアがあったと思われる場所に古い都市遺跡を発見したことで、トロイア文明など ”エーゲ海文明” があったことが知られるようになりました。今では、キクラデス文明(前3000年頃~)、それが融合したミノア文明(~前1100年)、ミケーネ文明(前1600年頃~前1200年頃)、トロイア文明(BC3000年~BC85年)のあったことが知られています。

ミノア・ミケーネ文明

 ところがこれらエーゲ海文明や地中海東部の都市は、紀元前1200年頃に何か大きな異変が起こって突然途絶えてしまいます。これは「前1200年のカタストロフ(破局)」と呼ばれています。このため、古代ギリシャに伝えられた星座が、いつ頃、どの地域で作られたかは、知る術がありません。例えばペルセウスの物語は地中海のあちこちを航海・探検した伝承の名残であるといった、ギリシャ神話の内容を考古天文学の手法で探ることはできても、それを証明することはできません。

(2021年11月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?