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お月見のはなし ~中国でのお月見 1/2~

1.お月見は、今も「旧暦」で日が決められる行事

 日本では明治5年(1872年)末に、それまで使用していた太陰太陽暦を廃して太陽暦を使うことにしました。その際、大衆が太陽暦への改暦を受け入れるよう、福沢諭吉が『改暦弁』という本を出版し、その中で、それまで使っていた太陰太陽暦を「旧暦」、そしてこれから導入する太陽暦を「新暦」と称しました。それ以降、「旧暦」「新暦」という用語を多くの人が使うようになったようです。

改暦弁

 ところでこの改暦により、国としては「新暦」である太陽暦を公に使うようにしたため、全国各地で、それまで太陰太陽暦(旧暦)の暦日で行われていた行事を暦日通りで行うか、月遅れで行うか選ばなければならなくなりました。このため、「上巳の節句(3月3日)」「端午の節句(5月5日)」などは行事の持つ季節感の無い、暦日通りに行われるようになりました。「お盆」は季節感を大事にして月遅れにしました。
 さて、「星の節句」とも呼ばれる「七夕の節句(7月7日)」は、多少ややこしいです。
 「日本三大七夕まつり」のうち、「湘南ひらつか七夕まつり」は暦日通りの7月7日、愛知県「一宮七夕まつり」は7月下旬、そして「仙台七夕まつり」は月遅れの8月7日に開催されています。つまりは、月齢とは無関係となるため、その夜が満月で天の川の見えない場合も生じます。もっとも、「七夕まつり」は商店街の振興を目的として開催されてきた歴史があるので、コレはコレで良いのでしょう。
 もっとも、「七夕まつり」を「星祭り」とて楽しみたい多くの人が、今でも「旧暦」の7月7日での開催を希望しています。ところが公には「旧暦」は使わないことになっているので、公共機関はそれへの対応に苦慮してしまいます。そのため国立天文台では太陰暦での7月7日の決め方の計算方法から「伝統的七夕の日」を求めて、公表しています。
 このように国としては、できるだけ「旧暦」を使わないようにしているのですが、「中秋の名月」だけはその日付が「旧暦」で表されています。これを、例えば「秋分に最も近い満月の日」としても良いのですが、「旧暦」で日を決めるので、「中秋の日が満月とは限らない」などと説明しないとならない状況になっています。
 このように、人々に特別な愛着を持たれ、人気のある「お月見」=「中秋」という行事は、平安時代に中国から日本へ伝わってきた行事とされます。では、その、中国での「中秋」の行事とは、どのようなものだったのでしょうか。

2.現代中国の年中行事としての「中秋」

 中国では西洋暦の他に、太陰太陽暦の使用も国で認めています。そのため国の祝日の日付も太陰暦で定められているものがあります。
 中国では太陰暦8月15日は「中秋節」と呼ばれ、「春節(太陰暦1月15日)」に次いで重要な祝日です。
 「中秋節」は「円団節」とも呼ばれ、人々は各地から家に帰り、全員が一緒にテーブルを囲んで、月餅などご馳走を食べます。地方から都市に出た女中もその日は実家に帰って良いとされるほどです。その日家族が一人で欠けるなら、互いに想う心を一つにして、同じ月を眺めるそうです。
 中国では昔から、中秋節に月餅を贈答する習慣があります。それらは食べるための他に、大型の月餅は飾るためだったりします。月餅の箱に賄賂を忍ばせて役人に渡す隠れ蓑としても使われるため、2013年には、公費を使って月餅を送ってはならないという禁止令まで出されました。
 なお、アヒルの卵の黄身を塩漬けしたものを入れた月餅は、卵が満月のように見えることから ”中秋月餅” と呼ばれ、中秋の時期にだけ販売されます。唐の時代の皇帝・玄宗が、これを「”中秋月餅” と名乗って良い」と許可したといいます。

中秋月餅

3.”中秋節” の逸話 ~嫦娥編~

 中国では中秋節に語られる物語の一つに『嫦娥奔月』があります。この物語は古くは前漢時代の『淮南子』に書かれるなど有名で、そのため様々なバージョンの物語があります。共通する物語概要は以下。

 古代中国では太陽は10個あり、順番に空に昇ると考えていた。それがある日いっぺんに10個全部が空に出、人々は困った。これの対処のため弓の名人の后羿が派遣され、9個の太陽を弓で射落し、それ以降太陽は1個になった。(后羿射日)
 その後后羿は西王母から不死の薬をもらい、妻 嫦娥と日を決めて一緒に飲もうと、嫦娥に薬を渡した。ところが嫦娥は一人で薬を飲んで仙女になって宙に浮かび、月宮殿に住むようになった。(嫦娥奔月)

嫦娥

バージョン1:后羿も嫦娥も仙人編
 后羿と妻 嫦娥は天帝の指令で地上に降り、天帝の子でもある太陽に元に戻るよう説得したが、言うことをきかなかった。そこで后羿は弓矢で9個の太陽を射落した(射殺した)。子どもを殺された天帝は怒り、后羿と嫦娥を人間にして(不老不死でなくなった)地上に留まらせた。
 后羿は縁あって西王母から不死の薬をもらった。これは分けて飲めば不老不死になり、一人で飲めば仙人になれるものでした。后羿は妻と一緒に飲んで、共に不老不死になろうと思っていた。后羿は妻に薬の話をし、良い日を決めて飲もうと、薬を妻に渡した。
 昔の書物に書かれている物語では、夫のために人間になってしまったことを不満に思っていた嫦娥は、后羿が外出している時に薬を一人で飲んでしまった。するとたちどころに身体が宙に浮かび、空に上り始めた。嫦娥は、一人で仙界へ戻ると他の仙人から何か言われると思い、他の天体へ行こうと考えた。太陽に行くと日中に多くの人に見られることから、月へ往くことにした。月に着くなり嫦娥の姿はヒキガエル(蟾蜍)になった。

バージョン2:后羿は仙人、嫦娥は人間編
 太陽が10個出て、仙人の后羿が地上に送られ、9個を射落した話はバージョン1とおおよそ同じ。
 人間になった后羿は地上に住まいを構え、美人の嫦娥を妻とした。

バージョン3:后羿も嫦娥も人間編

 バージョン2と3の話の後、嫦娥が一人で薬を飲む経緯にいくつかバージョンがありますが、一般には『民間説話』に書かれている物語が広く伝わっているようです。

 大きな功績を挙げた后羿のもとには、多くの人が憧れて集まり、弟子になった。その中にはずるくて心がけの悪い蓬蒙もいた。
 ある日、后羿は崑崙山に登って、西王母から不老不死の薬をもらった。帰宅した后羿は薬について妻 嫦娥に話し、薬を妻に預けた。この場面を蓬蒙が見ていた。
 数日後、后羿は弟子を連れて狩猟に出かけた。この時悪巧みをしていた蓬蒙は仮病で一緒に行かなかった。皆が行ったあと、蓬蒙は剣を握って屋敷内に踏み込み、嫦娥に不老不死の薬を出せと脅した。嫦娥は薬を悪者の蓬蒙が手に入れないよう、とっさの思いつきで、箱から出した薬を自分で飲んでしまった。飲んですぐ、嫦娥の身体が宙に浮いて、窓から飛び立ってしまった。嫦娥は、夫のことを思い、地上に近い月に住むようになった。
 夕方に后羿が帰宅すると、侍女たちが泣きながら昼の出来事を伝えた。后羿は驚き、その悪人を探したが、蓬蒙はすでに逃げていた。絶望した后羿は夜の空を仰いで、愛妻の名を呼んだ。その時、その日の月はとても明るく、月のおもてには嫦娥に似た姿が見えていた。后羿は侍女らに命じて、嫦娥の好きだった庭園にテーブルを置き、好きだった果物を供え、遙か彼方の月の宮殿で自分のことを思っているであろう嫦娥を祭った。
 人々は嫦娥奔月のことを聞くと、水面月の下に香炉を置き、善良な嫦娥に吉祥や平安を求め、祈るようになった。以来、中秋節には月を祭る風俗が民間に広がった。

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