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変光星のはなし

1.恒星は、天球に貼り付いた光ではない(新星)

ティコ、新星を観測する

 東洋・西洋ともに、数千年前から、夜空に輝く星は「天球に貼り付いた光点」と考えられていました。それは、紀元2世紀に古代ギリシャの天文学者プトレマイオスが観測したように、星がそれぞれ東から昇って西へ移動していくものの、互いの位置関係が変わらない、つまり ”星座” の形が変わらずに日周運動しているからでした。
 古代中国では ”天球” は ”天界” で、天帝の御座す場所で、天上人たちの住まわれる場所。地上世界は天上世界を模して作られ、天帝の意思を受け取って地上を治めるのが皇帝と考えられていました。そして時々そんな天上界で起こる異変(主な恒星への月や惑星の接近、流星など)を天帝からのメッセージとして、日々 天文官が観測に努めていたのでした。
 一方古代ギリシャの哲学思想を受け継いだローマ帝国や、その後のキリスト教を思想の中心としたヨーロッパでは、天の星々は完全不変なもので、天空に見られる流星などの現象は ”大気現象” と考えられいました。そのため、星空は変化するハズも無いので、観察する必要がありませんでした。
 ところが、1572年にカシオペヤ座に新しい星が出現しました。これは彗星とは違って移動せず、恒星のように固定していました。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエはこれを観測し、他の場所での観測と照らし合わせるなどして、これは ”新しい星” であることを証明しました。これについて記した本『De nova stella(新しい星)』から、このような星は "nova(新星)" と呼ばれるようになりました。

2.恒星には明るさの変わるものがある(変光星)

「変光星」の発見

 オランダの牧師で天体観測家のディビッド・ファブリキウスは、1596年8月13日の明け方に水星の観測中、その位置を記録できる比較星を探している時に、くじら座に見かけない星を発見し、記録しました。しかしその星は以前には無い星だったため、カシオペヤ座に出現したような「新星」と考えました。ところが1609年2月16日に再びその星を観測しました。なお、この星には1603年に星図製作者バイエルが『ウラノメトリア』の中で、くじら座「ο(オミクロン)」として記録しました。
 余談ですが、ディビット・ファブリキウスは占星術を強く信じていて、ヨハネス・ケプラーとホロスコープのやり取りをしていました。そして自分自身の亡くなる日も計算していたと言われます。1617年のその日、ファブリキウスが教会の教壇で地元のガチョウ泥棒を批難したところ、訴えられた男の持ち出したシャベルで頭を殴られて亡くなったといいます。
 1638年にオランダの医師で天体観測家のホルワルダは、くじら座ο星は新星ではなく、周期的に明るさの変わる星だと考えました。
 ドイツの天文学者ヘヴェリウスは『不思議な星の小史(Historiola Mirae Stellae)』という論文を書き、これからくじら座ο星は「ミラ」と呼ばれるようになりました。こうして初めて「変光星」の存在が認められました。

 明るさの変わる星として、ペルセウス座β星を、1667年にイタリアのレンズ製作者で天文学者のモンタナリが指摘しました。イギリスの天文家ジョン・グッドリックが、その周期的な変光が星の前を通過する暗黒体によって起こるものだと、1783年5月の王立協会で発表しました。その頃には10個以上の変光星が知られ、グッドリック自身もこと座β星やケフェウス座δ星が変光星だと発見し、観測しました。そんな研究熱心なグッドリックでしたが、肺炎で21歳の若さで亡くなりました。

3.新大陸で天体観測が活発になる

アメリカで天体観測が普及

 17~18世紀のヨーロッパでの天体観測や物理学は、個人や貴族の趣味として行われていました。その意味で、天体観測を生業とする「職業 天文学者」は多くはいませんでした。またイギリスでは王立学会が幅を利かせていて、学会に所属していない者を蔑む傾向が強くありました。その被害者の典型的な例がアイザック・ニュートンでしょう。
 一方、そのような縛りの無い新大陸・アメリカでは、自由な研究や観測が行われる風土がありました。
 ボストンで生まれたベンジャミン・グールドは、アメリカ人として初めてドイツでガウスに数学と天文学を学び、ヨーロッパの天文台を訪ね歩いた後アメリカに帰国して、1849年に天体観測家や天文学者のための初めての雑誌『Astronomical Journal』を創刊しました。またグールド自身は、アメリカの天文観測家や天文学者の牽引役にもなりました。

 変光星観測については、グールドの友人でもあったドイツの天文学者フリードリッヒ・W・アルゲランダーが、星の位置や等級を測定するための効率的で簡単かつ迅速な方法を開発し、近代天文学の先駆的な仕事をしました。そして変光星の入念な研究を、天文学者では初めて行いました。1843年に変光星カタログ『ウラノメトリア・ノヴァ』を発行して、変光星の観測を奨励しました。これを知ったグールドは、アルゲランダーが発行した『ボン掃天星図』に南半球の星が載っていないことから、アルゼンチンに私設天文台を作って南半球の星空を掃天し、『ボン星図』の南天を補う『アルゼンチン星図(Uranometria Argentina)』を1879年に発行しました。

 アメリカでは1865年頃から独立したアマチュア天文家が変光星の光度観測を行いました。
 マサチューセッツ州ケンブリッジの数学者セス・C・チャンドラーは、変光星のカタログを作ったり、1878年には変光星の観測方法に関する記事を発表しました。
 マサチューセッツ州ブライントンの銀行員ソーヤーは、1865年から変光星の観測を始め、1876年にチャンドラーに「発見」されて観測方法の指導を受け、1892年には3415個の変光星カタログを発表しました。
 マサチューセッツ州ドーチェスターの店員、兵士、銀行員、製図家として働いていたイェンデルは、1887年にチャンドラーの勧めで変光星の観測を始めました。1888年~1916年の間に『Asnronomical Journal』誌に観測結果を寄稿し、1894年~1906年にかけて『Popular Astronomy』誌に変光星についてと観測方法に関する記事を140ページ以上も書きました。

4.変光星を観測するために(AAVSO設立)

ピッカリングの観測用星図と、AAVSOの設立

 1882年、ハーバード大学天文台(HCO)の所長エドワード・C・ピッカリングは「変光星の観測を確保するための計画」を発表し、イェンデルらと共に、観測者のボランティアを募集しました。
 その頃、写真技術や分光法など新しい観測技術が出現し、1890年代には何千もの新しい変光星や変光星の疑いのある星が発見されました。この状況から、変光星観測に多くのアマチュア天文家に参加してもらう鍵は、測定方法の質と一貫性を確保することだと考えたピッカリングは、1891年に、変光星観測の際に必要な光度の比較星のリストを発表し、1906年には比較星を記した観測用星図を作成しました。

 ニューヨークの弁護士ウィリアム・タイラー・オルコットは、1905年、32歳の時に友人から星座を教わると天文学に興味を持つようになり、1907年に『A Field Book of the Stars(恒星観測野帳)』を、1907年に『In starland with a 3-inch Telescope(3インチ望遠鏡で見る星の世界)』を出版するほどに星好きになりました。1909年にアメリカ科学振興協会の会合でピッカリングの変光星に関する講演を聞くと大いに興味を持ち、1910年2月に初めて変光星の観測を行い、以後定期的に観測結果をピッカリングに送る仲になりました。1911年3月には『Popular Astronomy』誌に「小さな望遠鏡を持つアマチュアのための変光星の仕事」という記事を載せ、変光星観測にアマチュア天文家が貢献できることを訴えました。

 1910年になると、大勢の新しいアマチュア変光星観測者による観測数が増え、変光星観測者の組織を作る必要が考えられるようになりました。オルコットは『Popular Astronomy』誌1911年11月号で「変光星観測者協会・AAVSO(American Association of Variable Star Observer)」の設立を発表しました。

5.変光星の名前の付け方(アルゲランダー記法)

変光星の名前の付け方

 恒星の呼び方は、フラムスチードが星座の中で西から東へ番号(フラムスチード番号)で、バイエルが星座の中で明るい順にギリシャアルファベット(バイエル符号)で呼ばれていました。ただし、ギリシャアルファベットは24個しか無いことから、バイエルはそれに続いて「A」「b、c、…z(jとvを除く)」の24個を使っていました。ただしバイエル符号が必ず守られた訳では無く、ラカイユは南天の星座に N Velorum や Q Puppis といったラテン文字も使用しました。これらは後に整理されました。
 ドイツのアルゲランダーは変光星に、星座の中で発見順に「R、S、T、…X、Y、Z」と付け、それに続いて「RR、RS、RT、…RX、RY、RZ」「SS、ST、SU、…SX、SY、SZ」という具合に名前を付ける方法を提案しました。アルファベットを組み合わせる方法では334個まで付けられますが、それ以上に発見されたものについては「V335、V336、V337」と、V番号を付けるようにしました。
 一部の観測者はこの他に、1900年分点での赤経赤緯で「2138+43」と名づけ、これを「ハーバード式呼称」と呼びました。しかしこの方法はハーバード大学天文台とは無関係で、ピッカリングなどは不愉快に感じていたといいます。
 アルゲランダー記法はAAVSOで採用され、その後もスタンダードな名づけ方になっています。

6.変光星が星座の領域を決めた

変光星が星座の領域を決めた

 20世になって国際天文学連合IAUが設立されると、まず星座の名前や領域が決められました。それまでは星図によって星座の領域が違っていて、変光星観測者が変光星の命名に苦労していたからでした。
 このような事情のため、1928年に決められた星座の境界線は、変光星をできるだけその星座に含ませるように引かれました。例えばさそり座のように変な境界線をしているのは このためです。
 これでも全ての変光星をその名の星座に組み入れることはできず、いくつか飛び地のような星がありましたが、2006年のIAU総会で、飛び地になっていた変光星の名前が変えられました。2006年IAU総会は、惑星の定義付けが行われて冥王星が惑星から除かれたことで知られますが、それ以外にも このような重要な決議が行われていたのでした。

7.変光星が職業天文学者とアマチュア天文学者の橋渡し

 18世紀までは職業天文学者はごく一部でしたが、19世紀頃から大学などの天文台に所属する天文学者が増え、その一方で望遠鏡の普及で天文愛好家が増えてきた時、小型望遠鏡でも天体観測を行うことができ、天文学者の研究に貢献できる活動として、オルコットが市民向けの雑誌『Popular Astronomy』誌で奨励したことでした。
 こんにち、流星観測や彗星捜索など、様々な天文学の分野でアマチュアが天文学に貢献できるようになっていますが、天文学連合が設立されて、世界中の天文学者が団結した頃に既に、個人天文愛好家達が天文学に貢献しようとしていたことは すばらしいことだと思います。

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