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星占いの歴史

1.メソポタミアで生まれ、ギリシャで発展

 星占いは、星座と同じく、メソポタミア文明で誕生しました。メソポタミア文明では、国の重要な決定などの時に、いろいろな占いを使っていました。

 「油滴占い」、油を垂らしたときの広がり具合で占う。「香煙占い」、火を点けて煙りを出したときの煙の流れ具合で占い。「粉占い」、粉を振ったときの広がり具合で占う、などは、占う人次第。「夢占い」は、旧約聖書に書かれているように、よく行われた。このように、いろいろな占いが行われたことが、発掘された粘土板に書かれています。

 占いを大きく分けると、「霊感的卜占」と「演繹的卜占」に分けられるという。「霊感的」なのは、お告げや夢や幻や閃き。
 「演繹的」なのは、出来事と事件を関連付けるもの。○○が起きたときには○○が起こるという経験則を積み重ねたもの。以前にコレが起こった時にはこんなことがあったから、今回もソレが起こるかもしれない、という具合。その積み重ねが占星術にもなっていると言われます。

 星占いには ”原典” と呼ばれる物が存在します。『アルマゲスト』で有名な2世紀のプトレマイオスは、『テトラビブロス』という星占いの本も書いています。この本は、4つの本でできているので『四書』という意味の『テトラビブロス』と呼ばれます。
 また1世紀のマルクス・マニリウスが書いた『アストロノミア(天文学)』という書が『占星術 または天の聖なる学』という書名で白水社で出版されています。

2.メソポタミアの星占い、ローマへ伝わる

 ここは歴史の話です。
 メソポタミアに新バビロニア王朝が誕生します。新バビロニアのことをカルデアといいます。星座を作った人としてよく言われますが、星座を作った人ではなく、星座を伝えた人です。天文の知識が豊富で、主に占星術を行ったために、カルデア人は占星術師として知られています。
 紀元前7世紀にアッシリア帝国ができて、その支配が強圧的だったので、各地で反乱が起きた。今のイラン辺りにリディア王国が、メソポタミア南部に新バビロニア王国ができ、共闘して新アッシリア帝国を滅ぼした。この、新バビロニア王国ができた辺りの話が『旧約聖書』の「バビロン捕囚」に書かれています。

 紀元前6世紀にペルシャ帝国ができ、新バビロニア帝国を征服する。この辺りの話が『旧約聖書ーダニエル書』に書かれています。
 新バビロニア王国には、王様や貴族に付いた占星術師が大勢いた。ペルシャに征服されると、ペルシャ人は占星術にはあまり興味が無かったため、神官や占星術師は宮廷から追い出されました。そのため占星術師は「国家占星術」から「個人占星術」に転身して、ペルシャに残ったり、またはペルシャの国から出て、インドや小アジア(今のトルコ)やヨーロッパに移り、それと共に個人占星術も広まりました。

 古代ギリシャやローマに占星術を伝えた人の中で、ベロッソスという人が知られています。
 新ベロッソスは、新バビロニアはペルシャ人に征服され、アレキサンドロス大王の東方征服で崩壊したため、ギリシャのコス島へ移り住みました。『バビロニア誌』を著したことで後に知られます(wikipediaには、これについてのみ書かれている)が、カルデア人の科学や占星術について、弟子をとって教え、それがギリシャやローマに伝わりました。

 プトレマイオスには『アルマゲスト』(数学・天文学の本)、『テトラビブロス』(星占いの本)、『ゲオグラフィア』(地図や地理学の本)を書いたが、『アルマゲスト』は数学・天文学の難しい内容だったため、ギリシャやローマではほとんど読まれず、そのためラテン語の写本が残されなかったようです。

 一方、『ゲオグラフイア』や『テトラビブロス』は実用のニーズがあったため、ギリシャやローマでラテン語の写本が作られました。そのため、星占いについては、プトレマイオスの知識がそのまま伝わりました。
 プトレマイオスの本はアラビアにも伝わったのですが、『テトラビブロス』は、いったんシリアでシリア語に翻訳され、それが後にアラビア語に翻訳されました。シリア語に翻訳された際に、その内容に詳しくなった者がシリア周辺で占星術師になって活躍したといいます。

3.キリスト教と占星術

 ローマでの、そしてその後のヨーロッパでの占星術の普及を考える際には、ローマ帝国での占星術の扱われ方、そしてキリスト教での教父や教徒での扱われ方を見ると良いでしょう。
 ローマ帝国の人々は、星占いが好きでしたが、帝国内での扱われ方は皇帝の気分次第でした。
 初代皇帝アウグストゥスの時はお気に入りの占星術師は雇うものの、2代皇帝ティベリウスは多くの占星術師を国外に追放し、4代皇帝クラウディウスは星占いを禁止しました。
 しかし5代皇帝にネロの時代は禁が緩んだのか、側近が書いた風刺小説『トリマルキオの饗宴』でネロの宴会を模した饗宴の様子が描かれています。その中に書かれたものに、屋敷の門柱には日の吉凶を記した掲示があり、黄道十二宮を象った丸い皿に、それぞれの星座に関連した料理が並んでいました。

 ローマ帝国の宗教政策は基本的に寛容で、ローマの神々や神格化された皇帝の像を礼拝すれば土着の宗教は承認されていました。ただしユダヤ教だけは唯一神を奉ずることが容認されていました。
 始めキリスト教は、数あるユダヤ教の一派と見られていましたが、ユダヤ教徒からは迫害を受けていました。A.D.64年のローマ大火の時にはキリスト教徒が犯人とされて、多くのキリスト教徒が処刑されました。また66~70年に起こったユダヤ人とローマ帝国の戦争(ユダヤ戦争)では、キリスト教徒が加わらなかったことでユダヤ教とは区別され、皇帝礼拝など法的規制が強められるようになったのですが、キリスト教信者は一切の偶像崇拝を拒んだため、迫害されるようになりました。
 これがコンスタンチヌス帝の治世、313年の「ミラノ勅令」でキリスト教がローマ帝国の国教となると、ローマの各地に教会が建てられるなど、キリスト教が広がっていきました。
 すると星占いなどは迷信として、教会から迫害されるようになりました。人の運命というものは神様が決めるもので、星で決まるものではないと。
 しかし信徒の多くが星占いを好み、また教父の中にもふける人が多くいました。そのため400年のトレド教会会議で、教父に対して占星術が禁止され、561年のプラガ会議では信徒に対しても禁止されました。

 ローマ帝国はキリスト教を国教としていたため、占星術を行うキリスト教徒には罰を与えていたが、ユダヤ人やアラビア人には罰を与えなかったため、帝国内で占星術が無くなることはありませんでした。
 さらにカール大帝時代(800-814)の安定期には古代ローマ時代の風習を模倣する「カロリング・ルネッサンス」というが起こって、道化師など文化人が集められました。この時には占星術師も集められて、占星術はローマ帝国内でますます広がっていきました。
 そのような中で、1270年頃の教会博士トマス・アクイナスが、キリスト教の思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した『神学大全』という本を出して、その中でキリスト教的宇宙観と占星術理論を融合させました。つまり「占星術と聖書は相反してない」ということになり、占星術がキリスト教で認められるようになりました。
 「地上界のあらゆる出来事は天上界の動きによって予め決まっている。天上界の運行が分れば予測できる。」ということが、キリスト教的世界観・人間観となったのです。

 そして中世のルネッサンス期にはさらに、アラビアから様々な本と共に、占星術の解説書や研究書も輸入され、他の文化と共に、占星術も再び華を咲かせることになりました。


























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