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「群れ」は生きるために必要だけど、「とりまき」は破滅への第一歩


数年前にやっていたスーパー戦隊作品「動物戦隊ジュウオウジャー」のオープニングで「1人の人間と4人のジューマンが出会って群れができた」って言ってるのを見て、「群れる」って若者が嫌いな言葉だと思うけどいいのかしらと、勝手に気になっていた。

よく、「群れるの嫌い」って言ってる人がいる。そのニュアンスはよくわかる。

私も以前は群れるというのは好きじゃなかった。

ただ、最近はそこについては、考えが変わってきた。

そもそも人間て、古代から群れをなして生きているから。

それは、おそらく群れにならなければ生きられないことを、大昔にすでに理解していたから、群れになったわけで。

実際、本当に一人ぼっちで生きられるかと言われたら、少なくとも私は無理。

なので、群れるということには、否定的ではなくなった。

だけど、とりまきとなると話は別。

人生の中で、なりたくないものがあるとすれば、誰かをとりまく人。そして、とりまかれる人だと常々思っている。

とりまきを作ることほど、恐ろしいことはなかなかない。

自分をもてはやす人、耳に心地いいことを言う人、同意する人ばかりをまわりに集めていると、自分が間違った方向にすすんだときに、それを指摘してくれる人がいなくて、結果、どんどんその間違った方向に突き進みかねない。

同調してくれる人、もてはやす人がそばにいるのは、心地よい。でも、それにどっぷりつかってると取り返しがつかないことになる。

むしろ、自分を見失いたくないなら、自分に厳しいことをいってくれる人に近くにいてもらったほうがいい。そして、自分の周りはある程度ひんやりさせておいたほうがいい。

あるとき、SNSを見ていて、いわゆる影響力の強い人(今でいうインフルエンサーかな)が何か発言したとき、それに「同感です!」「さすが、そのとおり!」みたいな発言がざざっと並ぶのを見て、こわくなったときがあった。

正直、おとりまきたちが大将をもてはやしているようにしか見えなかった。赤の他人の言葉にこんな簡単に「同感」て叫んでいいの?って思ってしまった。

私は、実のところいまはやりの「サロン」についても、否定はしないが、ちょっとだけ冷めた目で見ている。

もちろん、学ぼうとする、誰かとコミットすることは素晴らしいことだし、建設的な目標や学ぶ立派な志をもって参加している人もたくさんいると思う。

でも、一方でああいうところは、えてしてとりまき集団にたやすく変わるときがある。主催者さんにほめられてうれしかったのが、いつのまにか主催者のコピーになりたい、主催者に気に入られたい…みたいなことにとらわれて、努力の方向を間違えかねない。

サロンをなんもかんも否定する気はないし、何か自分にためになりそうなところがあれば、この先参加することもありだと思っている。でも、あれは、一歩間違えたら簡単に「とりまき」に成り下がる、そういうあやうさがあると思うので、入る場所は相当選ぶし、簡単には入らないつもりでいる。

群れをなすのは生きるために必要なこと。

だけど、とりまきとしての群れは、むしろ破滅への第一歩。

よく、肝に命じておきたいと思う。

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