“普通”に苦しむあなたへ   ~”変人性”ノススメ~

実生活はもちろん、SNS上でも常識的、普通であることを要求される場面が増えてきたように思います。その空気感に窮屈さを感じてしまうのは私だけでしょうか。普通であることは時に安心感などプラスの感情をもたらしてくれることもありますが、周囲が普通だと感じる物事で溢れている状態は想像するだけでも退屈に思えます。

では、どんな形で日々要求される普通と折り合いを付ければいいのか。そのヒントを得られるかもしれないと思い、紫原明子さんが主宰されている「もぐら会」のメンバーであり、大学で事務員をされているさやかさん(33歳、女性)にお話し伺いました。

「普通」に徹底的に合わせる生存戦略

―今日は、さやかさんが以前話されていた「人間には誰しも普通ではない“変人性”と呼べる部分がある」という話について詳しくお聞きしてみたいと思っています。

ここでさやかさんの言う変人性の定義を確認しておきたいのですが、これは「一見して誰もが変だと思うものではなくて、その本人は普通だと認識しているけれど他者から見ると変わってる、違和感を感じる」時にそこに変人性が顕在化している、そんなイメージだと理解しています。

ある時私が雑談の中で学生時代に聴いていた曲の長さ、分数を覚えているという話をしたところ、さやかさんから「それは変人性がある」というコメントをいただきました。私にとってはよく聴く曲の分数を覚えていることは別に特別な事だと思っていなかったのですが、一般的には決してそうではないということをさやかさんの指摘を受けて初めて気がついたんですね。こういった本人自身は気づいていない、普通の感覚からはみ出た部分=変人性という考え方に関心を持ち始めたのは、いつ頃からだったのでしょうか?

はっきりと認識したのは、大学院のゼミの友達の家に泊まった時ですね。私は教育学・民話の採訪(民話の語り手を訪ねて聞き書きをすること)の研究をする大学院生だったんですが、そのゼミの友達とはじめは「うちのゼミって変わってる人多いよね」くらいの他愛のない話をしていたんです。ところが、気がついたら私が「ゼミの人が具体的にどう変わっているのか」を解説するぐらいヒートアップしてしまって、“変人性”に対して異常に関心を持っていることが明らかに(笑)
私は他の人に対する「変わっているよね」、「ユニークだよね」という評価をポジティブなものとして発していたつもりだったのですが、どうやら世間一般ではネガティブに捉えられることが多くて、知らず知らずのうちに「あまりそういう話はしないほうがいいのかな」というふうに考えていたようなんですが、そこで思わず大放出してしまいました。

―なるほど。変人性への関心に気づいたきっかけはそのゼミの友人との会話からだったんですね。ちなみに、それ以前に変人性に関心を示されたご記憶はありますか?

はい、振り返って考えてみると昔からあったんですね。気がついていなかっただけで。
変わった人生を歩んでいる人に対する憧れがありました。
私の言う変人性って普通でないものというか、本人は普通にしているつもりなんだけど滲み出てしまう変さ、みたいな意味合いなんですけど、実はそこに関心を持つきっかけになったエピソードがあって。
私、東京で生まれた後に父の転勤の関係で3歳からしばらくアメリカで過ごしたんです。両親によると向こうでは英語で会話もしていたそうです。日々楽しく過ごしていたのは自分でも覚えています。ところが6歳の時に日本に帰国して同時に幼稚園に入園することになって。そこでアメリカの時と同じように振る舞っていたら「それ、違うよ」って指摘を受けて。「本能的にヤバイ!」と思うことがあったんです。

―具体的にどんなことがあったのか教えていただけますか?

私が通っていたアメリカの幼稚園では男女関係なく、座る時にあぐらをかくというのが一般的でした。だから私は帰国後も日本の幼稚園で当然のようにあぐらをかいて座ったのですが、そうしたら「さやかちゃん、それは日本ではお父さんの座り方だから、女の子はその座り方はしないんだよ。」と言われてしまったんです。今まで自分が普通で当たり前と思っていたことは、日本の幼稚園では普通ではなかったということが、その一言でわかってしまったんですよね。それは当時の自分にとてもショッキングな出来事でした。
しかも日本の幼稚園というコミュニティでは普通でないと仲間外れにされてしまう、いじめられてしまうから普通にしておかないといけないと咄嗟に思ったんです。
おかしなことをするとそこでは生きていけなくなるということ、「普通」というものは普遍的なものではなく、コミュニティによって異なることを肌で感じました。だから、私は日本で普通でいるために積極的に英語を忘れる努力をしたんですよ。
カタカナ英語でさえ危険だと思って家で母親が「ミルク」って言ったら「違うよ、牛乳だよ」って言い直させるくらいの徹底ぶりで。今思うと少し勿体ないんですが、そこまでやり切ることで普通に合わせようとしていました。

―6歳でそこまで分かっていたというのはすごいですね。
 その後も常に普通であることを意識して過ごされてきたんでしょうか。

(普通であることを意識して)過ごしてましたね。小学生になってからも都内で引っ越したりする度に小学校のクラスなどのコミュニティの中で誰がリーダーか、とかこの人の機嫌を損ねると生きていけないかとかを意識していました。はっきりした理由はわからないんですが、私はそうしないと生きていけないというか、いつもそうした緊張感をもって過ごしていたんですよね。その時自分が所属しているコミュニティで浮かないようにする、ということが自分が生きていくうえで優先度が高かったんです。


「普通」からの逸脱の可能性

―普通に合わせることを徹底したさやかさんが、普通からはみ出た部分である変人性に強く興味を持つというのはどうしてでしょうか?

実は6才の時のあぐら体験の衝撃がもしかしたらいい意味で「刺激的だった」のかもしれないと最近思っています。あれは私にとってショッキングな出来事ではあったんですが、ネガティブな記憶ではないんですよね。ここでは何が普通か、というのは危機意識でやってたはず、というのがまずあって。普通とは何かを割と意識して生きてきたから、知らず知らずのうちに自分の中で抑圧されていた部分が普通ではないものへの憧れという形で現れたのではないかと考えています。でも、それは抑圧されたから表出したのか、あるいは元々普通ではないものが好きだったのか定かではないですね。

―ちょっと話が変わりますが、私が感じている変人性の可能性についてお話しさせてください。変人性って普通という枠に収めきれないその人の人間らしさだと感じているのですが、もしかしたらこれこそがAI時代に生きるうえで強みになるんじゃないかと思ったんですよね。

実は似たような話は、さやかさんがもぐら会の自己紹介でお勧めされていたジェーン・スーさんの著書『私がオバさんになったよ』」でも出てきます。役に立つ部分はAIに取って代わられる。それならば逆にこれまで「疎外」されていた役に立たない部分が脚光を浴びるのでは、という議論です。こうした点についてはどう思われますか?

そうですね、最近は効率的にどうしたらいいかとか、分かりやすく役に立たないからダメだみたいな話が多いなと思っているんですけど、そういうのを追い続けてるのは危険だなとは思っていて。
一方で民話を追うとか、変人性のような話は効率的に生きるならば、別にしなくてもいいわけじゃないですか。それでもやってしまうというのは人間って面白いな、と思いますね。

―今後も変人性の研究は続けられるのでしょうか。

はい、どこかで発表する予定はまだありませんが、これは私の趣味なので変人性の研究はそこに楽しみを得られる間は続けてしまうと思います。とはいえ、積極的に研究対象を探しに行くようなことはしていなくて、街を歩いている時にふとおいしそうな匂いに気がつく、みたいな感覚で出会う変人性が理想的ですね。そうして出会った変人性って、背後に隠れたより大きな変人性の手掛かりになっていることが多いんですよ。だから偶然性も込みで新たな変人性との出会いを楽しんでいきたいと考えています。

―ありがとうございました。

(編集後記)
はじめは変人性という言葉の持つインパクトに興味を持ったのですが、生存戦略として徹底的に普通に向き合う中で普通を乗りこなす、普通との境界線を愉しむという境地に至ったさやかさんのあり方がとても印象的でした。

お話しを伺いながら、「人生はままならないもの」という前提を体得しているように感じました。そのすべてを真似することは難しいと思いますが、訪れる数々の普通という基準を乗りこなし、その狭間に蠢く変人性に目を向けるということが多くの人にとって生きやすくなるヒントになるかもしれない、そんなことを考えられるお話しが伺えました。

#変人性 #もぐら会 #インタビュー #コミュニケーション #AI

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