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【おはなし】それぞれ

 人が発する言葉が、すべて文字で見えるようになった。
 みんなの唇から次々と出てくる黒い明朝体の文字は、煙のように出てきては消えていく。

 あんまり小さい声の時は色が薄く、大きな声の時は色も濃い。煙の性質上、口から生み出された文字は後から出てくる文字とぶつかり合って、顔の前の方に溜まっては消えて行く。短い単語なら何とか読み取れる場合もあるが、文章になるとぐちゃぐちゃして殆ど読めない。

 「卡め兌バ会卡会腫紹、荼な橢a‰畫剉」
 話している人の顔のおでこの辺りに、こんな風に文字が溜まって、しだいに消えていく。それらはもとは意味のある文章だったのだろうけど、次々と吐き出される文字は渋滞を起こし前の文字と衝突し混ざり合い、僕はいつからか、人が話してる事が理解できなくなった。
 医者からは、本の読み過ぎだと言われた。


 大学の中庭を歩いていると、たくさんの煙が吐き出されているのを目にする。はじめは不気味な光景だったけど、慣れれば何でもなかった。僕がそれを認識できないだけで、コミュニケーションは何の問題もなくされている。

 「おは嬀卡r。畫会二藦だね」
 不意に、話しかけられたと感じた。その人はこちらを見ながら、口から煙を出していた。僕に向けられた言葉だと気付いて、はっとする。深いつながりはないけれど、同じ授業をとっている友人だった。
 「おはよう?」
 うわずった声で僕はおそるおそる返事をした。

 「次舒授業塲.、ⅸ休講^垜klってよ」
 彼女から吐き出される言葉が、灰色の、意味を持たない塊のまま、消えていく。
 「蓙#ないだ借り嚢し兊小説まだヤ畫貸し手て」
 どうにか読み取ろうとするけど、口から飛び出す文字の煙は前の文字とぶつかり、混ざり合って読めなくなって消えてしまう。
 手を振って去って行く彼女の背中を見ながら、僕は呆けていた。彼女の言葉が分からなかったのが、ショックだった。


 それから人の煙を正しく読む練習が始まった。文字が衝突して混ざり合ってしまう前に、唇から吐き出される瞬間を読めばいいのだ。コツが必要だった。よく見て、相手が何を言いたいのかを読み取る。
 そのうち小説を読むような速さで、無意識に言葉を認識できるようになった。

 話すのが遅いおじいちゃん先生の授業は、もう殆ど分かるようになったし、同じ授業を受けている人とも問題無く話せる。バイト先でも迷惑をかけなくなった。


 「字幕派?吹き替え派?」
 彼女が尋ねてきた。貸していた小説が映画化したというので、一緒に見に行く途中だった。
 「吹き替え派かなぁ」
 映画なら人の話している事は、しっかり音声として聞こえる。音楽を聞くのと同じようなものかもしれない。
 「わたしも」
 彼女が言った。
 「最近、人の話す言葉が全部シャボン玉で見えるようになってさ」
 「シャボン玉?」
 「そう、人が喋った事がシャボン玉になってフワフワ飛んでるのね。シャボン玉の中にはその人の声が閉じ込められてて、それが割れるとその人が何を言いたいのかがはじめて理解できるってわけ」
 「てことは、割れないものもあるって事?」
 「そう。その人が話した事全部を私が知れるわけじゃないのよね。困ったものだわ」

 コミュニケーションの仕方は人それぞれだ。伝わる事と伝わらない事、伝えられる事とそうでない事。どちらがあっても別に構わない。全ての事が全ての人に、伝えたいように伝わるわけじゃないのだ。

 「実はさ、僕もそうなんだ」
 思わず口に出した。どう説明したら彼女に分かってもらえるだろうか。僕の頭の横で、煙が渦を巻いている。

おしまい

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