「独り飲み」(随筆風な小説)

 今日は、隣町にある行き付けの飲み屋に、一人で来ている。そう。マスターとママがとても気さくで、一人で浸るにもなかなか良い所でもあるのだ。
 以前は、何度か、誰かと来た事も勿論ある。職場の人や、昔ながらの友達、大学時代の友達などを誘って飲みに来た事もある。しかし今日は一人。そう、やはり時には一人で来たい時もある。別に友達や同僚が、都合悪いとかでもなく、今日は初めから一人で来るつもりだったので、誰にも連絡はしなかったのだ。何故かと言うと、時には一人の時間も大切にしたいからである。友人や職場の皆との飲み会は、勿論楽しい。でも今日は一人。これもまた良いのである。
「今日は何を飲まれますか?」
とカウンター越しにママが問う。
「ジンジャエール御願いします。」
と、先ずはドリンクを注文する。
「はい。」
 ただ職場の飲み会は、あまり頻繁に参加しても、大抵は職場の愚痴とか、また他人の悪口、更に、話題が尽きたなら、どこぞの真面目で優秀な人間の欠点をわざわざ探り出しては挙げ足を取ったり悪口を言うなど、そんな事ばかり聞かされて、またか、と思う。傷口の舐め合いと言うか、負け犬の遠吠えと言うか何と言うか……。
 他者・相手の事をあまり細かく観察していると、悪いところもどんどん見えて来て、軽蔑や差別感情が生まれてしまうのだと思う。誰にでも欠点はあるものだし、型に嵌められては誰でも嫌だと思う。自分も一昔前までは、他人の悪い部分ばかりが気になってイライラしたり白けたりしたものだった。自分は昔から軟派や軽薄なのが嫌いなのだが、モテたくて若い異性にだけ優しくしたり、熱くなったりなどしている者を見る度に蔑んだような目で見て自分はああはなりたくはない、振り回されたり謗られたりとパターンは目に見えていると、偏見を抱きがちだった。偏見そのものは確かに良くないが、適度な偏見は注意深さでもある。下手に熱くなれば後で冷めてしまうし、その落胆するダメージも大きいと分かってはいるが、ある程度は馬鹿を見て成長するのが人間なので、全く熱くならないのは行動を全く起こさないと言う事なので、年を取って後悔する事になる。これは、仕事でも恋愛でも言える事だ。恋愛は、して後悔するより、しないで後悔する方が嫌だと言う、ある友人がラインで言っていたが、その事には自分は納得は出来た。恋愛などに絶対、確実はなく、幾ら一生懸命努力しようが、有名な専門家の書いたベストセラー専門書などを読み漁ろうが、それでも必ずしもうまく行くと言う訳ではない。運もついて回り、ギャンブル性があるのは恋愛に限った事ではない。人生そのものがギャンブルならやむを得まい、と考えたりもする。
「ジンジャエールどうぞ。」
「有り難う。」
「やあ、今日は仕事だったのかい?」
とマスターは俺に問う。
「今日は夜勤明けでした。」
「そうか、御疲れ様。」
 自分は、文科系の大学を出てはいるが、介護士になったのは消去法だった。そう、一般企業に入れば大体は営業とかの仕事をしなければならないから、人見知りで口下手な自分は、そう言う仕事をしたくなかった、また、自分は小説家を目指す文学青年であり、典型的な文科系だ。反面、理数系は苦手で手先は不器用なので、エンジニアや設計士、大工、彫刻家など、職人系は恐らく自分には無理だ。元々はゲームや漫画が好きだったが、それらに飽きてから今では文学マニアでもある。村上春樹や安倍公房、赤川次郎、海外作家なら、ゲテやドストエフスキー、ガルシア・マルケス、ジャーナリストなら立花隆、梅原猛などが好きだ。かと言って文学馬鹿でもなく、水泳やジョギングもするし、ジムへ行ったり筋トレもするし、書道も習っているし、フィットネススクールなら自力整体やデトックス・ヨガを習いに行ったりもする。デトックス・ヨガは特に精神統一に良いヨガであるので、良かれと思って偶に習いに行ったりもしていた。母がしているクリパル・ヨガは、ダイエットに良いらしい。
「ええと、焼き鳥で皮のタレと塩を一人前ずつと、塩振りこむすびと、後はししゃもを御願いします。」
と、カウンター越しにママへ注文する。
「はぁい。」
 恋愛に話を戻すが、男らしい男や、女らしい女が、やはりモテて恋愛や結婚もうまく行くのか?いや、絶対そうとは言えないし、先ず、完璧な人間なんていないのだ。全ての面で百パーセント男らしくなるのも女らしくなるのも無理だ。百パーセント正しくて建設的な主義主張も、この世にはないだろう。
「男なら泣くな。」とか、「愚痴を溢すのは男らしくない。」と教えられて来たのは分かる。男の場合は、じっくり一人で悩んだり、解決法を考えたりするものだからである。ネチネチと愚痴や陰口、皮肉を言おうものなら、女々しいだの情けないだの男らしくないだのと謗られかねない、だから、何も言わない。
 だが、それでも困りものなのは、泣かずに愚痴を言わずにじっくり悩んだり解決法を考えたりしていると、それが周囲や第三者から見てイジイジしているように映る場合もあるのか何なのか知らないが、それを見て「男の癖にイジイジしてるな。」とか「男って、どうしてあんなに弱いのかしら?」とか垂れる阿呆はうるせーな、と言う話だ。泣いたり愚痴や不平不満を吐き合ったり、他人を妬んで中傷するような輩には言われたくない、と言う話だ。人は誰しも強さばかりでなく、弱さも抱えているので、自分を顧みず他人を悪く言う人間は、何故こうも多いのか。困ったものだ。まあ良い。自分が傷付いて初めて他人を傷付ける事の愚かさを知る、と言う程に、人は難しい。軟派が潰れ物なら、硬派は割れ物。そして硬い物ほど、傷は付き易く、鍍金しなければ仕舞いには錆び易くもなる。ここで、軟派や軽薄なのが嫌いなのが分かるが、硬派や正義が行き過ぎても、時に暴力や犯罪を生む。
「焼き鳥の皮と塩、御待たせ。」
 焼き鳥を齧りながら思った。ずっと甘やかされて来たような輩には、何を言ってやっても無駄だ。いや、事が分かる人間に変われるまでは、相手にするだけ時間のロスだ、と。別に憎らしい奴を齧るつもりで焼き鳥を齧ってはいない。辛い時に頑張る時や、怒っている時には歯を食いしばるものだが、自分は寧ろ前者だ。頑張っているつもりだ。怒りは、募らせれば自分をより愚かにさせて行くものだと、前々から分かっていた。
 そして、他人の言葉には一々、惑わされない事だ。モテる云々の話では、何人からモテるかの数ばかりでは考えず、どんな人からモテるかの、質で考える。見る目の無い人から何を言われようが、気にする事はない。視野の狭い意見や他愛無い悪口や中傷などに向きになれば、相手のレベルに自分を引き下げる事になりかねない。
 でも仲間は必要だ、人は一人では生きて行けないが、一人の時間も仲間という時間も大切だ。それから、性に合わない人とも、渋々、関わる事で学べる事もあるのだ。様々な気質や意見を持つ者達が集まって、それが世間、社会と言うものだ。人はどこかに「所属」したり「友と共に」いたりする事で、安住出来るものである。確かにそうなのだろうが、時には雑踏や群集の喧騒から離れて「静寂な一人」の時間に浸ってみるのも必要な事である。案外、自己を省みる絶好の機会にもなろう。それほど現代社会は「連れ添う、寄り添う」事を私達に強要し過ぎる傾向にある。自分の心の声をじっくり聴き取るだけのゆとりを持ちたい。そう出来たら、大自然の温もりさえ伝わっても来よう。
「はい、ししゃもと塩振りこむすびです。」
とママ。
「はい。」
「創作活動は進んでるかい?」
とマスターは俺に聞いて来る。
「ボチボチかな。最近、読むばかりでどうも書かない事が多くて。」
「ほう。でも、やっぱり書くには、先ずは色々読む事が大事だろうから、仕事と執筆と、どちらも並行して頑張りなよ。」
「はい、勿論です。」
すると、ママも横で微笑んでくれた。
 これまでに自分が読んで来た本などは、楽しませてくれたり、時には苦しませてくれたりもした。
 人生、楽あれば苦ありである。楽が苦の種なら、苦はまた楽の種にもなる。どちらが偉いとははないだろう。鶏と卵のどちらが偉いか、唯一正しい答えは無い。夏目漱石と川端康成のどちらが上かなんて、紅茶とケーキのどちらかだけ選べと言われるぐらいに、決められないように思う。他には、文化人にしてアニメーションの巨匠である宮崎駿と、教養人にして漫画の神様でもある手塚治虫のどちらが良いのかを比べるのも、困難だ。また、硬派と軟派にもそれぞれ長所と短所はある。作家に限らず、人間は一皮剥けば、皆、変態でもあるだろう。
 神様でさえ、根はスケベじじいかも知れないのだから、この世に生きる人間の男がダイヤモンド硬派になるなど、到底、無理な話だ。
 全ての人から好かれるのも、不可能に等しい。一万人に同じ主義主張を穏やかに論述しようものなら、それは一万人全員には通らない。努力していなかった頃は、親から呆れられたり友達から励まされたり、誰かから馬鹿にされても仕方が無かったが、いざ努力して良い結果を出そうものなら、誰かから賞賛、尊敬されれば誰かからは嫉妬されたり中傷を受けたりもする。異性からモテると同性からは疎まれ易くもなり、あちらが立てばこちらが立たぬ、ともある。根も葉もない誹謗中傷はネットの掲示板では山のように見受けられるが、そのようなものは徹底無視するに限る。
 ただ過ぎゆく為だけに、生まれて来たのではない。泣いたり笑ったり、怒ったり楽しんだり、喜んだり凹んだりと、ストライプを楽しんでゆく。それが人生だ。大人も子供も、男も女も同じである。
 ここは飲み屋であり、常連の自分にとってはオアシスでもある。テレビを観ていると、タレント達と来たら、どうも、他愛無い事や幼稚な事をちょっと口にし過ぎではないか、スタジオは飲み屋じゃないんだぞ、と突っ込みたくもなる。
 さて、あれからもうかれこれ、二時間か。まだ二十時だ。よし、もう少しいよう。折角、独り飲みに来ているのだから、酒飲んで代行呼ぶとしようか。いつもなら代行を呼ぶのが面倒なので酒は飲まないのだが、まあ偶には良いだろう。
「すいません!生中を御願いします!」
「はーい!」
とママ。
「おう、君、今日は久々に飲むのか。」
とマスター。
「はい。少し。」
と俺は微笑して答える。
                                       了


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