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D'un cahier d'esquisses... – 《赤ずきん》創作雑記

先の〈現代日本の音楽展2008〉「オペラ・プロジェクトII」にて新作モノローグ・オペラを発表する機会に恵まれた。昨年度の大半はこの制作のために費やされる事となったが、初演を終えてほぼ二箇月となる現在、この作品の創作経緯や構想意図などを改めて振り返ってみようと思う。

■パーソナルな歴史の証しとして

一昨年の秋に父、前後して旧友と祖母が、この世から旅立っていった。遺された寂しさとともに、人の生の“終着駅”と、そこにたどり着くまでの“旅路”、そして旅の終わりに見出される“何か”について、自然と想いを馳せる日々。その中で、「何かを探して旅する主人公」という物語の構想がおぼろげながらも次第に形をなしてきた。その粗筋の枠組として選ばれたのが、泰西名作童話の「赤ずきん」――思えば大学仏文科1 年の最初の講読課題がシャルル・ペローの童話集の中のこの物語…今回の題材選択も、あながち偶然ではないようだ。

物語のディテールを思いつくままに書き留めてゆくうち、この主人公の旅は、作者である自分自身の内面の旅と重なり合うようになっていた。これに父や母から聞いた戦争の記憶や医療現場で働く妹の体験談などが意識的かつ無意識的に織り込まれ、結果として「狼もお婆さんも登場しない《赤ずきん》」のシノプシスが仕上がった。

個々のエピソードは勿論創作されたものではあるが、その核心は作者自身とそれを取り巻く環境や歴史に基づいている。第6 景の空襲の時と場所を「昭和20 年5 月29 日の横浜」と設定したのも、この作品の背景をパーソナルな歴史の流れの中に位置づける証しとするためでもあったと言えるだろう。

上記の構想過程から、このオペラの台本を自分自身の手で書き上げる事は自明であった。より具体的な舞台イメージを固めるために、何枚かの絵コンテを描き、時代背景、特に昭和前期の言葉遣いや戦中・戦後に至る流行語の資料などに目を通し、昨年9 月上旬に初稿版台本が完成した(余談ながら完成場所は我が棲家から地球をほぼ半周したポルトガルはリスボンのホテルの一室である)。

■七つの情景と三つのキーワード、そして三つのモティーフ

シノプシスから立ち上げられた完成台本は以下の7 場面からなり、舞台は旅の列車の中から森、さらに空襲の街や病院と、様々な場所を移動することとなった。

第1景:列車の中(赤ずきんは相席の人物に自己紹介する)
第2景:前景の続き(赤ずきんは怪しげな老婆と遭遇する)
第3景:見知らぬ駅舎~森(赤ずきんは進むべき道を骰子の一擲に委ねる)
第4景:駅舎の待合所(赤ずきんは特高に尋問される)
第5景:列車の中(赤ずきんは青年との束の間の出会いと別れに涙する)
第6景:お婆さんの家(赤ずきんは空襲の街を彷徨う)
終景:ある病棟(赤ずきんはようやく自分の事を思い出す)

※Vocaloid (Crypton Hatsune Miku ver.2)によるデモ音源 ––– SoundCloud

ペローやグリムの先例に倣い「お婆さんの家を訪問する少女」という基本軸上で、構造的には終景(終着駅)=現代に向かって様々な過去(太平洋戦争前から終戦に至る時代を想定)のエピソードが直線的な時系列を突き進む舞台進行。各場面には、泰西名作童話の要素が僅かずつ散りばめられる。例えば第2 景では《白雪姫》、第6 景のエンディングでは《マッチ売りの少女》という具合に。

また、大半の場面は架空の相手(旅の女賭博師、老婆、特高、青年)との想像上の対話で進められるが、第3 景及び第6 景は完全なモノローグとなる(特に第3 景は重要で、本作品の中核をなすと言ってもよい)。第6 景と終景の接続部分は事実上の間奏曲とも言えるが、ここでは戦後から現代に至る歴代首相名、さらに戦後昭和史を代表する言葉の奔流(総てコンピュータ合成による録音音声)が流れ、60 年の時間の経過を物語る。

なお、史実の横浜大空襲は午前中の出来事であり、「あの時代に年端も行かぬ娘が昼夜兼行で列車を乗り継ぎ、午前に横浜到着はありえない」との指摘があるかも知れない。それについては、この物語が基本的に主人公の“内的時間経過”に根ざしている点を強調しておこう。

表題について、煩雑になるため邦題では敢えて省いたが、欧文原題では“une fille qui s'appelle...”= 「~と名乗る少女」という但し書きが添えられている。作中でしばしば聞かれる「私の名前?」という台詞の示す通り、この「赤ずきん」は、なぜか自分の本当の名前――「私は誰?」ということを思い出せない。お婆さんの家に向かう間、彼女は常にこの問いを自分に投げかけているのである(以下に記す通り本作品の主要テーマとなる)。

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《赤ずきん》の物語を特徴づけるキーワードは3つ。

1.頭巾:《赤ずきん》を示すアイテムとして重要であるが、それ以上に(特にある年齢層の)日本人にとっては防空頭巾のイメージと重なってゆくだろう。時代性の象徴でもあり、また壊れやすく脆い自我を守る防護服でもある。各場面で名前を思い出せない主人公は、この頭巾を身に纏っている事を確認し、自我の安定を試みようとする。

2.旅:名前を思い出せないままお婆さんの家に向かう旅。汽車に揺られる長い道程は、そのまま彼女自身の“自分探しの旅”とも言えるだろうか。しばしば前向きの響きで語られる“自分探し”。しかしその旅程は、必ずしも楽しく心踊るばかりのものではなく、むしろ怒りや悲しみ、誘惑、怖れ、時には触れられたくない心の傷(トラウマ)にも向き合わなければならない厳しさや苦しさも併せ持っている。

3.骰子:その“人生”という旅の中で出会う、数々の障壁をいかに乗り越えてゆくか、すべての道が閉ざされて心が闇に襲われた時、どのようにして進むべき道を見出せばよいのか… その時、人の口からは“祈り”の言葉が紡ぎ出され、自身とそれを取り巻く世界の総てを超越する存在への信頼に基づく自己放棄がなされる。幾つかの重要な局面で、このドラマの「赤ずきん」は運命に骰子を投げ打つ“賭け”に出る。その目は丁か、はたまた半か――遊戯としてのアレアトリーは、やがて生死を賭ける決断を導くこととなる。

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キーワードは3つ、そして音楽上の主要モティーフも3つ存在する。

1.赤ずきん(譜例1):名前を思い出せない主人公が「赤ずきん」と名乗る場面で登場する、謂わば“仮の自我”のモティーフ。ここから派生して伴奏音型や十二音音列、コラールが導き出される。

2.少女(譜例2):前記と対照的に、少女の“真の自我”の表出する場面で登場する。女性的なたおやかさとともに、不安に苛まれ、また誘惑に抗えない「人の心の弱さ」を併せ持つ。終景ではこの“真の自我”を見出した喜びが輝かしく歌い上げられる。

3.骰子(譜例3):主人公の“旅”の導き手となる骰子、即ち本作における“運命のモティーフ”。譜例に示される様に、低音及び装飾音を含む高音でdes骰子(複数形)の音名象徴が奏される。このモティーフは他の2 つのモティーフと異なり、極めて無機質的に響く。運命は人に仇するものか否か…

なお、本作品においては、調的(旋法的)要素と無調的要素、グレゴリオ聖歌と越後獅子の引用に見られる聖性と俗性、アナログ楽器とデジタル音響の競合など、様々な音楽的要素が“清濁併せ呑む”形で混在している。

■終着駅は新たな始発駅

主人公は終景で“終着駅”へとたどり着く。さらに彼女の旅は続くのだろうか?

幕引の退場場面、“かつての少女”は穏やかな表情で“In paradisum”の一節を口ずさむ(彼女がこれから何処に行こうとするのかは敢えて語るまい)。そして「赤ずきん」の旅は、舞台に残された頭巾とともに、彼女の旅の同行者としての“聴き手”に受け継がれてゆく。ある一人の終着駅は、別の一人の始発駅となり、そこから新しい旅が生まれるのではないだろうか。

2008年5月

(初出:日本現代音楽協会《New Composer》No.9)


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