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見ているのは現実 感じているのは脳内の現実

現実が、つらいか、たのしいか。その判断は、二の次でしかない。

つらい日々が続いても、時間がたつうち、慣れることもある。わりと平気なメンタルで、そのつらさと向きあったとき、「慣れてきたんだ」と自覚する。

一方で、慣れるどころか、さらに追いつめられることがある。追いつめられると、方向はふたつあって、片方はそのつらさに耐えることができず、身体が拒否をする。もう片方は、精神と身体を分離し、表面上はなにごともないかのように振舞うが、心がなくなったような感じになる。

さらに対照的に、たのしい日々が、次第に物足りなくなる、ということもある。慣れてきたのか、新規性がなくて驚かないのか。そういう人は、人生に驚きを求めている、ということになる。「楽しい」ということが幻想で、「驚いた」という事実しかない、という状態。

脳は、その驚きを感知して、「これは、イコールたのしいことだ」と、その人に思わせている。

これらの、つらさや、たのしさや、それらからの回復(平凡に戻る感覚)は、順序よくすすむこともあるが、たいていは浮き沈みがある。昨日はつらかった、今日は大丈夫、明日は……

外界は、変わらないのに、それがおこる。本当は、外界(つまり、たのしいという行動や、見たもの、聴いたもの、現実に起こる事実。また、つらいにかんする、事実)なんか、まったく関係ないのかもしれない。

まったく関係ない、とは。言い切れないか。外界のなにかに触れて、「わっ」と感じる感覚器官が、わたしたちにはある。その「わっ」というのは、感覚器官のみでは成りたたず、その情報を伝達していったさきにある脳に、神経伝達物質が放出されることで「わっ」となる。

べつに、それらの物質は「わっ」と人間に言わせるために存在しているのではない。逆だ。わたしたちが、物質のうごきに気づいて「わっ」と感じる。あの、背筋のぞくぞくする感じや、腰が抜けるような驚きは、心のこととは関係がない。性格が臆病だとか、勇敢だとか、そいういうこととは。

脳内を、物質が、動いたから、その動きを感じた。

だとすれば、つらい現実や、直面してしまった不幸、「うわぁぁん」となりそうな心のうごきは、脳内の物質をコントロールすることで、止められるのではないか。

将来的には、それも治療になるかもしれない。「倫理的に問題が」という話はもちろん通過しなければならない。倫理的な問題は、たいてい時間がクリアする。倫理的な問題というのは、突きつめれば「すごくずるい、ずる」なのだと思う。やったら、生存可能性を上げることができる。けれど、たくさんの人にいっぺんに施すことはできず、人々が殺到する。特権階級だけがずるをする。社会が分離する、というながれを阻止しているのだろう。

世の中の不幸やつらさは、生産性を下げている。つらいことが好き、という人はあまりいない。できることなら、楽しい日々でいたい。楽しい日々でいる人は、つらい人を救うこともできる。

つまり、弊害のない麻薬をさがす、ってことか。



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