無 から 有 をうむ神の所業わたし

生きていると、足りないものとか、あったらいいなというもの、多くてしあわせなもの、多すぎて困るもの、ぜんぜん無いけど雲上の人はもっているんだろうな、という才能やら夢のツールやら。

持ちものにばかり、目が、むかう。

無であった世界を経験したことのない、わたしたちは、「無」と、「完全なる有」のはざまに立っていて、それらのイメージはまるで、空と大地。

あの人は持っていて、この人には足りなくて、自分は、あれは持っていて、これは持っていなくて、立ち位置としては、ふつう、程度な。

いまわたしは、音楽をきいている。

そのピアノの曲調は、わたしの心にふれて、一瞬でまた、曲のなかに引っこむ。音がはじけるたび、それが繰りかえされ、わたしの心から糸を引いては、また戻る。

その、刻々と変容する心に、わたしは引きずられながら、文章をしたためる。その曲なしに、そっくり同じ文体を、わたしは発想しない。それと同時に、べつの曲を聴きながら書いても、やはりべつの文体を発想することだろう。

その曲は、どこからうまれてきたの? 

作曲者の想像のなかから。けれど、想像のままに、そっくりそのままに、イメージから音楽を写しとることはできない。イメージはイメージという拡張子で、音楽はまた別の拡張子。べつの形式で表現しようとした時点で、似ていても別物になる。

そのイメージを、作曲者はどこで得た? この地上で。

ただし、かれの見た景色、感じた色、聞いた音、ふれたもの、五感でキャッチしたそのすべてを知るものはおらず、本人も記憶してはおらず、ただ脳の倉庫にそれらの記念品や、はたまた残骸が、入っていた。

確実に、入ってはいた。かれはそれを、すべて認識しているわけではない。脳内の作曲ツールが勝手にはたらいて、倉庫からいろいろ拾ったりして、曲がつくられる。

作曲のスタートはイメージ? そのキャッチしたものたち、素材の組みあわせは、偶然。偶然だが、どれもが、うまれるべくして生まれた。

かれの見た景色は、自然界の動植物が望むままに組みあげた世界。あるいは、人が意図してつくった構築物。もしくは、地球のミネラル分。それらは結晶化したり分解したりして、さまざまな姿かもしれないが、すべては科学的に規則的な、変容。

奇跡は、ひとつもない。

感じた色も、音も、触覚を湧きたたせるものも、すべてが、奇跡ではない。

原初が大地でなかったなどと、どうして信じられようか。言ってしまえば、人類が生まれていなかった時代のことを、人類がどんなに注意深く調査しても、ほんとうのところというのは、知ることができないのではないか。

それでも人類は、証拠を集めつつある。人々は、疑わずにいた。宇宙はビッグバンで弾け、塵がまとまって恒星をうみ、その重力が周囲に系をつくりあげ、そのひとつが生命(というシステム)のうごめく惑星になり、その恒星もやがて寿命を迎えるし、その宇宙もまた、広がりつづけ、時空が伸ばされ、暗黒となり、いつか終わる。そのストーリーを、天地創造のごとく、人々は疑わずにいた。

なにもない虚無のただ中に、宇宙がはじまったように、無のなかで有がうまれることに、わたしたちは強烈に惹かれる。それは、ものごとのうまれる瞬間を、何度も目にしてきたからだ。そして、生みだされたものが、さらなる豊かさをつくる。新しいものを生みだすことを、是とするのは、その記憶のせいだ。

ひと昔まえ、人類にとって、うみだす者は、神だった。世界のほとんどのものは、自然界に属していたせいだ。人はだれも、生命としてのウサギや、鉱物としての金を、つくりだすことはできなかった。それを試しながら、不可能だということを理解するまで、繰りかえした。

その頃に愛されたのは、天地創造というストーリーで違いなかった。

まだだ。まだ、生みだす力が、よわい。

新しいものは、つくっていい。すばらしいものはすべて、自然がつくりあげる? 人には、大したものは、つくれない? それは正しくもあり、そこで立ちどまってもいけないものだ。

つぎの階段を、一段、上がるのだ。

この旋律は、作曲者のつくったものだ。その作曲のもととなったイメージは、ほかの人間がつくったのかもしれないし、自然界がつくったものかもしれない。しかし、地上に生じなかったことは、そのイメージの総体のなかには、ひとつも存在しない。

すべては、奇跡ではない。彼にイメージを与えたもとの存在は、人であれば、その人がそれまでに摂りこんできたイメージを体現している。自然界であれば、そこにいた動植物や、無機物がつくりあげた世界。

このピアノの旋律は、この世界のいろいろな部分と、シンクロしている。そして、そのイメージや経験の連鎖は、果てまでたどるなら、宇宙のはじまりと、必ずつながっている。

つぎの鎖を、一環、つなげるのだ。

日常的な苦楽を、全身にうけながら、逆風や、または追い風のなかを進むわたしたちは、幸不幸をつねに背負い、その原因を持っているものや持たざるものに求める。

けれど鎖の環のいちばん最後は、この指先にふれている。それを、つぎの環につなげる。ただそれだけの、今日という一日。

宇宙のはじまりにつながる環を、また一環つなげる、今日という一日。


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野崎 宵

世界の捉えかた

地球が一個だからって、あなたとわたしが同じ地上に立ってる、ということにはならない。
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